2.金の鍵
ナイマとダリアと合流するとすぐ、ジャミルたちは涸れたオアシスを発った。
与えられたサキュバスの力は、ナイマの小さく華奢な身体には強大すぎるため、完全に扱うにはまだまだ時間を要すそうだ。それに昼間は力が弱まるらしく、休むのはナイマが繋げた空間を移動してからとなった。
「すみませんです……。砂漠を完全に抜けきれなくて……」
空間を抜けると、そこはまだ砂漠だった。
しかしエリザは、「大丈夫ですよ~」と、ニコニコと微笑んだ。
「砂のお布団で眠るのも最後ですし、堪能できてよかったと思います」
ダリアもそれに「砂漠の砂はいいクッションだ」と頷くと、ナイマは「あう!?」と言葉に詰まった。(人を運ぶのは初めてで、何度も砂漠に落としてしまったらしい――)
場所はアシガ近くの平野まで半日と言った場所だった。藍色のスクリーンには、星空をバックに〈ハマダ〉の灰色の輪郭が描かれている。
ダリアとエリザはすぐに簡易テントに入ったが、ジャミルとナイマの二人はしばらく、砂の上に腰を並べて夜空を眺めていた。
「――ジャミルさん……こんな姿で現れて、申し訳ありませんです……」
「えっ」
「だって、私がサキュバスとのハーフで、その力を断ち切るために……その、結ばれることを約束してくれたのに」
ジャミルは、あっ、と声を上げたが、しばし押し黙った。
ナイマはその沈黙の重さに頭を垂れ、立てた両膝に顔を埋めた。
「――大丈夫だよ」
「え」ナイマは顔を上げた。ジャミルは真っ暗な夜でもハッキリと分かる、明るい笑顔を見せていた。
「サキュバスになっていても、僕の目に映るのはナイマ自身だから」
事情が事情だから、という気休めは後回しにした。
「ジャミルさん……」
ナイマは目を潤ませ、じっとジャミルの顔を見つめた。
どちらからともなく、白い指と褐色の指を絡ませ合い、照れくさく微笑み合っている。
「実は、サキュバスの力もいいかな、なんて思っちゃったりします……」
「え、う、うーん……」
「へ、変な意味じゃないですよ? この夜を渡る、限られた者にしか味わえない風とか、物を取ったり色々便利ですから」
「あはは。確かに僕にもそんな力があったら、手放せなくなっちゃうかも」
「そうなんです……。だけどもう一つあって――」
「もう一つ?」
「……こうして、ズルしちゃえます――」
ナイマは目を瞑り上半身を少し前に傾けた。ジャミルの胸が高鳴り、身体がカッと熱くなった。
両目を見開いたまま、一瞬だけ身体を強張らせたが、
「魔法は効いてないよ」
そう言って、柔らかな唇を重ね合わせた。
ほんの一瞬ではあるけれど、静かな砂漠の夜は、それを何時間にも思わせる。
湿った唇に冷たい風が割り込むと、二人は真っ赤な顔でうつむいた。
「ま、まだまだですね」
「ど、どっちが……?」
「ま、魔法に決まってますっ!」
あ、と頓狂な声を上げるジャミルと、恥ずかしそうにモジモジとするナイマ。――そんな二人を、保護者たちはテントの中から見守っていた。
「ジャミルがイケない大人になりかけてますぅ~……。もっとたどたどしく、ファーストキスして欲しかったですぅ~……」
子が離れてゆく寂しさから、さめざめとした声を上げるエリザの横で、ダリアは「え?」と驚いた目を向けた。
「ジャミルはもう、ルディナとキスしてますよ」
「……え?」
「それこそ、私ですら乙女のように騒ぎそうなほど、たどたどしく甘酸っぱいものでした。しかしそれと同時に、ジャミルには『もっと男を見せぬか!』と憤ったものです」
「え、えぇぇっ!? そ、それ、それいつですか!?」
「ルディナが髪を隠す前ですね。きっとそれで“女”が誘発されたんでしょうな」
ニマニマと笑みを浮かべながら話すダリアの横で、エリザは「みゅ~……ッ」と脚をバタつかせ、砂のマットを蹴り続けていた――。
◇ ◇ ◇
「――ハッ!?」
深い眠りの底にいたルディナは、突然ベッドから跳ね起きた。
(ジャミルに魔の手が伸び……いや、メッキメキに絡んでいる気がする……)
同室の使用人仲間が「なにごとぉー……?」と、目を擦りながら起き上がってくる。ルディナは「ご、ごめん……」と謝り、「悪い夢を見ただけ」と続けた。
ダリアをつれて砂漠にゆく前、ナイマはブアーラに挨拶に来ていたのだ。
コウモリの羽を生やした、北部訛りの女。確かに“可愛らしい”と思え、旦那様たちも、土の匂いが残る純朴さが気に入ったようだ。――恐らくそのせいで、不安を感じているのだろう。
ルディナは起こしてしまった同僚に謝り、布団を被った。
同僚たちも唸りながら再び布団を被るが、その中の一人・一番の耳年増が「明日はルムタンの娼婦が、店の移転の話をしに来るらしいんだから、今のうちに寝ておきなよ……」と、あくびをしながら言った。
(ああ、娼館かぁ……そう言えば、ジャミルを掻っさらおうとしてる淫魔も、ルムタンの――)
ルディナは再びベッドから跳ね起きた。
◇ ◇ ◇
夜明け前。ナイマはルムタンに戻った。
ジャミルは「情勢が悪くなりそうだから……」と心配そうに、それとなく伝えると「大丈夫です! ウチのお姉様がたが、策を講じているそうですから!」と笑みを浮かべた。策とは、と首をひねったジャミルであったが、ナイマは既に空間のひずみに消えた後であった。
それから半日、ジャミルは初めての砂漠を歩き続けた。見えている〈ハマダ〉の岩盤地帯は一向に近づいている気配がせず、じりじりと照りつける日光は、汗の珠に変えた体力をライトベージュの絨毯に吸収させてゆく。
歩き始めてまだ間もないのに、ジャミルはもう疲労困憊になってしまう。先を歩くエリザの背を見て、『こんな砂漠をずっと歩いて……』と、心の中で頭を垂れた。
砂漠を抜けてもなお、橙色の荒れ地が続く。一本道なので道に迷うことはない。
まばらに木々が立ち並び始めた場所に差し掛かり、更に北に向かって進んで行った頃――ちょうど荒れ地と草地の境目に位置する場所に、石壁が道を塞いでいることに気づいた。
「こんな所に陣を構えているのか……面倒だな」
ダリアさんは面倒くさそうに息を吐く。壁は一メートル近くあるだろうか、馬で飛び越えられぬよう、その上には縄が張られているようだ。完全に道を封じているわけでなく、中央には木を組んだ柵扉が降りている。これだけで見れば、簡易的な“城門”だ。
案の定。近づけば、「お前たち、そこで止まれィ!」壁の上に物々しい鎧姿の兵士が現れ、停止を命じられた。
ダリアとジャミルはそれに従ったが、エリザだけは一歩前に躍り出たところで足を止めた。
「我々は特に怪しい者ではございません。北の村、アシガに向かいたいのです」
「白い肌……! 貴様、トグサル……いや、天族の者かッ!」
その声に、壁の向こうが騒々しくなった。上には弓を構えた兵士たちが四名ほど現れ、敵意の眼差しをこちらに向けている。入り口にも人の影が差し、ボウガンを構えている。
するとダリアが「無礼者!」と声を荒げた。
「この方は、南方の国・ブアーラの領主・ムフタールのご内儀であるぞ! 薄汚い天族呼ばわりしたことを取り消せいッ!」
兵士たちはその大音声に気圧され、周囲の木から鳥が飛び立った。
「そ、そのような国は知らぬ!」兵士はそう言うと、横の弓手が何か話しかけた。わずかに怪訝な顔をし、何か考えるように顎に手をやった。
「う、むぅ……国は確かに存在していることは分かった。しかしその証となるもの、敵意がないことを証明できねば通すわけにはゆかぬッ!」
証明できるもの、と言われジャミルは困った。
自国での証明書などはあるが、兵士の言葉からして確かめる術はないだろう。ジャミルはカバンの中を探り、何か共になるものがないかと探していると――
「ダリアさん。スタルクで頂いた一筆はどうでしょうか?」
「……む? おお、それなら知っている者もいるかもしれんな」
ダリアにそれを手渡すと、「スタルクの長を知っているものはいるか?」と兵士に尋ねた。中に知る者がいるか確かめさせたのだろう。後ろを向き「スタルクについて知る者はいるか!」と、声を張り上げる。
しばらくすると、柵にいる兵士と入れ替わったのが見えた。遠くてよく分からないが、少し緊張しているように窺える。
「そこのガキ、下の者に渡せ」
「は、はい!」ジャミルは慌てて駆けたが、その後ろで「次、ジャミルのことをガキ呼ばわりすれば、羊の頭の代わりに、お前の首がぶら下がることになろう」と、凄みのある声がした。
ジャミル首をすくめながら柵まで向かうと、隙間から証明書とスタルクの長・マジッドの証書を差し入れる。
相手は気の弱そうな青年だった。重役を担っているせいか、震える手で書類がなかなか開けないようだ。時間をかけて二つの書類に目を通し終えると、少し後ろに下がり「確かに」と、声を裏返しながら伝えた。
「確かか!」それに青年は一つ喉を鳴らし「我が祖父は商いをしておりました。ブアーラとの国の噂も、かすかでありますが覚えがあります!」と、今度はしっかりと答える。
「うぅむ……」それでも納得ゆかぬのか、上で唸り声がした。
すると今度は背後から、奥方が「その噂はお金に関してですか?」と訊ねた。
上の兵士ではなく、奥の先ほどの青年に向けられてである。それに青年は「そうだ」と頷き、答えた。「その通りです!」
奥方はダリアさんに何かを命じると、
「ならば、これから供の者に“証”を届けさせます」
凛としたよく通る音と供に、ブンと風切り音が、わずかに遅れて「うっ」と短い悲鳴が起こり、ジャラッと軽い金属が擦れる音がした。
「あなた方がここで我々を足止め、見知らぬ者を決して通そうとしない意気を讃えましょう。それは敵意のない“証”として、その報酬として受け取ってください」
先ほどの兵士とは違う男の声で「き、金貨だっ!? ご、五十枚はあるぞ!?」と叫んだ。するとたちまち――
「おい、見せろ!」
「す……すげぇ……」
「分けるって俺らか? この前線の奴ら全員か?」
「止めたのは俺らだから、俺らで貰うべきだろ!」
今度はそれに、壁の向こうから「ふざけんな!」と抗議の声が上がった。
外の者に背を向けたのか、犬も食べないような醜い言い争いが始まっている。
(“大きな屋根を持つ家ほど、積もる雪は多い”って言うけれど……ここは、すぐに屋根が抜けそうだなあ……)
ジャミルは不安そうに、真上の石垣を見つめていた。




