3.這い寄る蛇(収奪)
「うわあああああああーーーーー――ッ!」
ジャミルは悲鳴をあげた。悲壮に満ちた、絶叫のような声だった。
ごとり、と転がったサキュバスの頭部はジャミルを見、その背後には悍ましい生き物が這い出ている。白い衣に身を包んだ妖艶な女性の上半身に、黄土色の鱗に包まれた蛇の下半身。緑色の髪だと思っていたのは、それぞれが意志を持った蛇であった。
恐ろしい。ジャミルは語彙少なくそう思った。「……ッ!」――なのに身体は、それとは真逆の反応を見せていた。
「ほっほっほっ、やはり童はわんぱくでなければな。どれ、戯れの相手になってやろうぞ」
メデューサは人間の身体を少し捩ると、舞うように腕を構えた。
一挙一動。扇がれ浮かんだ埃ですら、首を締め付けるような恐怖心を湧き起こした。
ジャミルはぐっと奥歯を噛みしめる。
本当は逃げ出したくてたまらない。ずっと優しくしてくれた人が目の前で無残に殺された――そのことへの怒りだけが、彼に拳を握り絞める勇気を与えていた。
しかし、その気勢はふっと削がれることになる。
――入り口まで走りなさい、坊や。
お姉さんの石の頭部が、そう言っているようだったからだ。
いや、“ようだ”ではない……確かに言っている。
――戦う気概を見せた気持ちだけで十分、オトコとして合格よ。
――勝てる見込みがあるから背を向ける。それは戦術であって、逃げではないわ。
――そして、その時がくれば相手の懐に飛び込みなさい。このババアは小鳥を殺さないわ。
後は神が何とかしてくれる。そう続け、小さく揺れ動く。
それが合図でもあった。ジャミルはすぐ近くの入り口に向かって駆け出した。
メデューサは「――おや、追いかけっこがいいのかえ?」と、楽しそうな声をあげると、蛇が鎌首をもたげるように身体を持ち上げ、ぐうんとジャミルに向かって伸ばし跳んだ。
まるで突風だった。入り口まで十メートルもなく、ほんの僅かな時間で辿りつける場所であったにもかかわらず、ジャミルがその扉に手をかけた時にはもう、女の身体がわずか数センチ手前で止まっていたのだ。
髪の蛇がシューシューと音を立てる。
これにはジャミルも愕然とし、玄関マットの上でへたりこんでしまった。
「ほほっ、今度は隠れんぼにしようかの? ほれ、早く隠れよ隠れよ」
先ほどから、その口ぶりや仕草からは殺意は感じられない。
それはまるで純粋に小さな子供を愛でるかのようで、ジャミルの恐怖を更に煽る。
「あ、ぁ、ぁ……」
「おや、怖がらせてしもうたか。おおすまぬすまぬ、さあ儂の胸に抱いてやろう」
メデューサは両腕を広げて、ジャミルを包み込もうとした。――その時、黒い扉が勢いよく蹴破られ、白い光を放った。メデューサはそれに怯んだ瞬間、
「――ジャミルに手を出すなッ!!」
湾曲した刃が弧を描き、メデューサの左肩を撫で斬りにした。
ぎゃあと声がし、赤い鮮血が噴き出した。蛇の身体を大きく仰け反らせ、その間に褐色の女が割って入る。いつもの黒い〈チャードル〉や〈ニカーブ〉を脱ぎ捨てているが、その姿は見間違えようがない。
「だ、ダリアさん……っ!」
「ジャミル。もう大丈夫だぞ」
ジャミルの声が弾み、ダリアは少し微笑んで見せる。
臆さず剣を構え、化け物を真っ正面に据える後ろ姿はとても頼もしかった。外で羽を伸ばすのもよかったが、この人の鳥かごがあるから安心して眠れたのだ。
這い寄る蛇からも守ってくれる。左肩からとめどなく流れる血を抑えながら、威嚇するかのように蛇の身体を持ち上げた。
「この痛み返させてもらうぞ、小娘」
「メデューサ、という奴か。ナーガの化身などとは戦ったことがあるが……厄介そうな奴だ。――ジャミル。分かっているだろうが、奴の目は絶対に見るな」
「は、はい!」
「その童はすぐに石にはせぬから安心するがよい。儂のコレクションに加えるのじゃから、ポーズにも拘らねばならんゆえな。下手に剣を振り回し、傷をつけるでないぞ?」
「――貴様の視界には入れさせんッ!」
ダリアは床を蹴った。対するメデューサも髪の蛇を長く伸ばした。
無数の蛇が牙を剥き出しに襲いゆくが、ダリアはしなやかな筋肉を収縮させ、まるで黒い猫のように俊敏に駆け回りながら躱してゆく。しかも、反撃することも忘れない。
鋭敏な剣閃を残せば、床の上に蛇の頭が二つ、三つと落ち、刃を返しては蛇の下半身に赤く滲む筋を残す――メデューサは〈ハルパー〉と呼ばれる、鎌のように湾曲した剣で斬り伏せられた、と言われている。
ダリアの剣は大きく反り返った〈シャムシール〉であり、刃の向きが違う。剣先で引っ掻くほどしかできない攻撃は、ダリアなりの余裕を示す行動なのだろう。
「この小娘ェッ!!」
メデューサは怒り心頭と言った様子で叫ぶと、顔の半分を隠すバイザーに手をかけた。
ジャミルは入り口のすぐ前の、カウンターテーブルの裏に身を潜め、ぎゅっと目を瞑った。
「楽に死ねると思うでないぞッ!」
「元より死んだ身だッ!」
メデューサは広げた手をかざし、ダリアに向かって何度も振り下ろした。
テーブルや椅子、キャビネットなどを破壊してゆくが、どれもダリアの背中を通るだけであった。
それはサキュバスを苦しめた魔力によるムチのようなものだ。強力ではあるが、相手を捕らえられなければ意味がない。メデューサは更に苛立った。
この女に真っ向から戦えば、まず無傷では帰れまい。
元からサキュバスではなくダリアが厄介だと考え、最初の奇襲で仕留めるつもりだったのだ。しかし、ジャミルが単独行動するようになったのは好機であったが、サキュバスと交替で、巣立ちを見守る親鳥のように離れて見守っていたのである。
そのダリアは、動作で起こる風や音で判断し、目を瞑っていても、先ほどと……いや、それ以上の動きで翻弄し続けていた。
「ええい――ッ」メデューサは忌々しく叫んだ。
室内では蛇の尾が邪魔で動きづらい。体勢を整え直そうと身体ごと飛びかかった。
しかし……ダリアはそれを待っていたかのように、即座に剣を下げ「ぬんッ!」と右脇を抜けると同時に、左脇腹から斜め上に斬り上げた。
「ぎゃあッ!」
メデューサの絶叫が屋敷中に響く。
「…………」
ダリアは瞼を閉じたまま、再びメデューサと向き合う。手応えはあった。
「ぐ、くッ……」
メデューサの傷は思った以上に深かった。斜線の傷からだらだらと流れ続ける血は、くすんだ床に雨漏りのような音を鳴らす。
あと一手。どちらも次で決着がつくと確信していた。
「くッ……ここは退くしかあるまい――」
メデューサの背後の空間が、ぐにゃりと歪む。それに気づいたダリアは、させじと踏み込んだが――
「うわぁぁぁぁぁッ!?」
隠れていたジャミルがふわりと浮かび、驚く声が屋敷中に響き渡った。
「ジャミルッ!?」
「あ、足が、足が……ひ、引きずられるっ!?」
ジャミルもつれて帰るつもりかッ。ダリアは目を開いてジャミルの元に走った。
メデューサの姿はもうひずみに消えており、ジャミルも上半身にかけて飲み込まれようとしている。
褐色の腕を目一杯伸ばし、その白く、苦労知らずの手を掴もうとした。――だが、蛇はその瞬間を待っていた。
「お主の弱点はその甘さよ。大事な者を、弟を、二度も救えなかったと悔やみながら死ぬがいいッ!」
ダリアは一瞬にして、ジャミルの手を掴む寸前の格好で石化してしまった。
「ダリアさん……ッ!? ダリアさんッ!!」
ジャミルは必死で呼びかけたが、石像と化したダリアが応じる気配がない。
いつものように……。必死で這い寄ろうとするが、じわりじわりと、歪みの中に飲み込まれてゆくばかりだった。
その後ろから、メデューサの手がにゅっと伸びるのに気づいた。ジャミルはハッとした表情を浮かべ、咄嗟にその血まみれの身体にしがみついた。
「壊さないで……ダリアさんを壊さないで……ッ! お願い、うぅっ……お願いしま、す……ッ……ダリアさんを、壊さない……でぇ……!」
「おお……おお……。泣くでない泣くでないぞ。よしよし、やはり素直でいい子じゃ。そなたに免じ、この女はそのままにしておいてやろう――だからほれ、泣くでない。儂の傷に涙が染みてしまうぞえ、ほっほっほっ」
メデューサはジャミルの頭を優しく撫でる。そしてゆっくりと、ダリアの石像に勝ち誇った笑みを向けながら、ゆっくりとひずみの中に消えていった――。




