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2.這い寄る蛇(急襲)

 ジャミルはこの日休みなので、〈サキュバンク〉で清掃の仕事をしていた。

 周りの人は急がなくてもいいと言うが、何かしらの作業をし、身体を動かしていないと落ち着かない。それに、不意にやってくる空虚な気持ちが怖かった。

 普通の箒で床を掃き、黙々と埃を一箇所に集めてゆく。

 気が遠くなりそうなほどの埃の絨毯は、何度かの掃除によって木目が確認できるまでになっていた。

 本来はテーブルなどから掃除せねばならないのだが、そこには触ってはいけない物も多くあるらしい。瓶の中に浮かぶ目玉や、悍ましい昆虫らしきものなど、正直掃除できなくてよかったと思えるものも多い……。

 大きな建物だと思っていたが、やはりどこかの貴族の邸宅だったようだ。

 談話室を掃除しているその時、ふと本棚の上に置かれているペンダントに目がいった。〈タリスマン〉だろうか。青い正三角形をしていて、頂点部分の輪に小さな鎖が通されている。最近置かれたものなのか、それには埃が被っていない。

 目を近づけ、鼻息で埃の芽を小さく揺らしていたその時――


「それなら触っていいわよ」


 突然、背後から声をかけられ、小さく飛び上がった。

 振り返るとそこには、腰に手をやるサキュバスのお姉さんが立っていた。いつものぴっちりとしたスーツ姿に、妖しい笑みを浮かべ、背中のコウモリの羽を揺らしている。


「バカ正直に言いつけを守らなくてもいいのに。世の中、坊やみたいなのばかりだったら平和なのにね」

「ぼ、僕はその――」

「執事はクビになったんでしょ? 使用人が意味なく触るのはオシオキものだけど、今の坊やにそこまで責務を感じる必要はあるのかしら」


 ジャミルは押し黙った。


「そのペンダントはね、元は一つだったのが二つに分かれたものなのよ」

「え……」

「それは坊やにあげるわ。今回のお駄賃よ」

「で、でも……こんな高そうなの……」

「いいのよ」


 お姉さんは手をかざすと、ペンダントはふわりと浮かび、するっと腰に下げた小袋の中に入った。


「あ、ありがとうございます」

「でもね、それは一つだと意味をなさない。坊やみたいにね――頑張るのはいいけれど、ママが心配するわよ」

「それは……お、奥方が謝ってきたら考えますっ!」


 ジャミルは、ぷいっと顔を背けた。それにサキュバスはくすくす笑う。


「ふふっ、意外と意地っ張りね」

「酒場も楽しいし、お姉さんも皆もよくしてくれますからっ!」


 しかしジャミルは、「ですが……」、と言葉小さく続けた。


「――張り合いがない、でしょ?」サキュバスの言葉に、ジャミルが小さく頷いたのを見ると「坊やのは労働じゃないもの」

「ただのお手伝い。皆が優しいのは同情から――それに何より、坊や自身には目的がないのよ」

「目的……?」

「家族のために、生活のために、たいていの人間は大きな目的を持って働いているわ。けれど、坊やの目的はそうじゃないわよね」

「…………」ジャミルは押し黙った。

「坊やのは目標。そしてそれが終わった後のこと、考えているかしら?」


 正直に、首を左右に振った。

 確かにそうだ。お金を貯めるとの目標はあっても、その先はどうするのか。

 考えてはいたけれど、奥方への反抗心からそれが阻まれているだけにすぎない。それに、そもそもの原因は自分にある。

 ジャミルは小さく身体を揺らしてから、すっと顔をあげた。


「……僕、目標を達成したら、謝りに行きます……」

「ふふ、そうしなさい。まぁ今は納得がゆかないかもしれないけれど、そこをぐっと飲み込むのが男のイキってものよ。女って生き物は理不尽、身勝手な生き物だからね。――で、あといくらで貯まるの?」


 ジャミルは「あと、中銀貨一枚なんです」と、金貨袋を手のひらで持ち上げた。

 初めての“賃金”が嬉しいのだろう。チャラチャラと手のひらで弄ぶ音が、サキュバスの目を細めさせた。

 それは、いくらでもお小遣いをあげたくなってしまう笑みだった。『私も年をとったかな』、なんて思いつつ「じゃあ――」と声をあげた時だった。

 ニコニコと笑顔を浮かべるジャミルの背後の空間が、ぐにゃり……と歪んだことに気づいた。


 ――魔族の空間移動


 サキュバスは声をあげるよりも早く行動に移した……が、“歪んだ空間”はそれよりも早く動いていた。


「――ンぐッ!?」


 ジャミルの口はそこから伸びた白い左手に塞がれ、前に突き出された右手はサキュバスのいる方へと向けられた。


「ガ……ァ……ッ!」


 首元を抑えるサキュバスは宙に浮き、苦しそうにコウモリの羽と脚をバタつかせた。

 ジャミルも必死で口を覆う手を引き剥がそうとするが、その手の力は恐ろしいまで強く、そして冷たい。サキュバスの首を締め付けながら、噛みつけと言わんばかりに指先で唇を撫でた。

 望むところだ! ジャミルは口を小さく開き、歯を立てようとした――


「ア……エッ!? エァァッ!?」


 歯で噛むどころか、割り入れた指だけで簡単に顎を開かせられる。

 先ほどの意気は、一瞬にして恐怖に変わった。指だけでそんな力をしているのなら、その腕力はどうなのだ。目の前で悶え苦しむお姉さんの目は真っ赤になっている。きっと悪魔として本気の力を出しているのに、まるで歯が立っていないのだ――。

 ジャミルが小さく震えると、サキュバスに向けていた手は大きく横に振られた。「ガッ!?」と壁に思い切り叩きつけられ、掃除したばかりの床にうずくまる。


「おねぇひゃ――ッ」


 言いかけ、ジャミルは背筋に冷たいものが走った。その右腕がさわさわと頭を撫でている――。その手つきは、『わずかに力を込めれば首の骨が折れるぞ』、そんな風に言っているように思えた。

 ジャミルは直立不動のまま、灰色の床板の上で小さく呻くサキュバスを、じっと見つめるしかできなかった。


「ほほっ……素直な(わらべ)だこと」


 背後から声がし、ジャミルの背中がぐっと持ち上げられた。

 まるで人形を抱きかかえるかのように、両足をわずかに浮かせたまま、ゆっくりと前に進んでゆく。

 ()()が姿を現した。ジャミルは顔を横に向け、何者か確認しようとした。――しかし、涙で滲む視界に映ったのは、揺らめく緑色の髪と、目を覆っているであろう植物のエングレーブが施された金色のバイザーだけだった。


「メ、デュー……サ……ッ!」お姉さんは何とか上半身だけを起こし、忌々しくそれを睨み付けた。しかし膝を立てた直後、再び首を押さえた。メリッ……と嫌な音が耳に張り付いた。

「ぐッ、あ゛ァァァ――ッ」

「下等悪魔風情が。女神であった儂に勝てると思うてか? この童のことは案ずるな。儂が代わりに大事にしてやるから、安心して死ぬがいい」


 メデューサと呼ばれたものは、愛おしそうにジャミルを撫でた。そして、バイザーを擦り付けるように頬を擦り合わせる。ジャミルはぶるりと震えた。

 完全にジャミルに意識が向いており、そこでサキュバスが身体を起こしたことに気づいていなかった。


「さ、せ……ナイッ!」


 サキュバスは捨て身で飛びかかった。ジャミルを掴む左手を爪で深く掻くと、力任せに引っ張り抜いた。小さな呻きの直後、ジャミルの身体は浮遊感に包まれ、すぐに強い衝撃が肩から背中を襲った。


「坊ヤッ、逃ゲなさイ――ッ!」


 サキュバスはジャミルに手を伸ばし、入り口向こうに押しやった。

 何が起こっているのか、まるで理解が追いつかない。空気の塊に殴られたような感覚と、再び背中への衝撃で頭がぐらぐら揺れた。小さく、短い、喘ぎに近い声が耳に届いた。

 

「う……」顔を上げた瞬間、ジャミルは背中の痛みを忘れてしまった。「お、ねぇ……さ……」


 サキュバスは床の上に膝をついていた。胸の真ん中から白い手が突き出ていて、そこから紫色のスーツが黒く変色してゆく光景だった。

 コウモリの羽は力なくうなだれ、虚ろな目でジャミルを見つめている。

 ダイジョウブ……と、微笑んだ気がした。

 ジャミルは信じたくなかった。

 サキュバスの身体はパキパキと音を立て、足先からゆっくりと灰色に変色し始めてゆく。胴体から胸、そして頭……だけど、突き出た腕だけは白いまま……。


 その手が握りこぶしに変わった瞬間、お姉さんは音を立てて砕け散った――。

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