1.手段を間違えた善意
レスカンドに滞在して二十五日ほどが過ぎた。
一度は帰る決心をしたエリザであったが、冒険者やギルドを見ているとそれが揺らぐのか、何だかんだと理由をつけては出発日を延長していたのだ。
尤もそれは最初だけ。思い残しがないよう簡単なギルドの依頼を受けていた時、エリザに尤も理由が生まれたのである。
ジャミルはよく分かっておらず、調子が悪そうなのでルムタンの病気が感染したのかと心配した。……が、ダリアが『女の発作のようなものだ』と言ったので、それに従うしかなかった。
しかし、長期滞在の最大の原因は、もっと他にある。
それは、十日ほど前――エリザがジャミルを叱ったことから始まった。
「ジャミル、いったい何を考えているのですッ!」
エリザの厳しい声が、宿の部屋に響き渡った。
「す、すみません……っ」
「いくらお金がありすぎて困っていると言っても、帳簿の付け方を適当にしていいわけではありません! なんですかこのデタラメな数字ッ、説明しなさいッ!」
黒いノートを乱雑に叩くエリザに、ジャミルは目を硬く瞑って両肩をすくめた。
近くにはダリアも控えているが、事情が事情なので口を挟むのを控えている。
エリザは急に『抜き打ち監査です』と言いい、ジャミルの記載途中の帳簿を取り上げ、改ざんしていたのがバレてしまったのだ――。
「ざっと計算しても、借方貸方でディナル金貨三枚・銀貨七枚のマイナスが出ています! しかし、金貨袋にある額はそれと同じ――これはどう言うことなのです! そのお金はいったいどうしたのですか!」
エリザはこのようなことを嫌うことを、ジャミルは十分承知している。本当はいけないことだと分かっていながら、少しずつ金額を変え、着服していたのだ。
もちろん理由はあるが、それでも許される行為ではない。
ジャミルは唇を噛み、じっと灰色の床を見つめていた。
「答えられないのですか!」
「……」
「分かりました、もういいです!」
次に発せられた言葉に、ジャミルは顔を上げた。
しかし、エリザは言い間違いではないと言わんばかりに、「出てゆきなさいッ!」と、凄い剣幕で扉を指さしたのだ。
「このお金は国のお金です。それを我が懐に入れる者など、傍に置いておくわけにはゆきませんッ! さぁ、出てゆきなさいッ!」
初めての言葉に、ジャミルどのように言い表していいのか分からない気持ちに包まれた。そして気がつけば、目に涙を溜め、宿を飛び出していたのだった――。
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これが、十日ほど前のことだ。
今現在。静かになった宿のベッドの上では、エリザのうめき声だけが起こっていた。
「うぅ~……。お腹が……お腹が空きましたぁ~……」
「断食月なのですから仕方ありませんね」
側に控えるダリアが冷たく言い放つ。
“断食月”とはその言葉の通り、定められた時から一ヶ月間・夜明けから日没までの食事を禁じるもので、【食べられることの喜びと飢えの苦しさを知り、神に感謝する】との目的がある。
「ダリアだけ食べてズルいです~……」
「私は対象者ではありませんから」
ダリアはキッパリと言い放つ。
病気や妊婦、子供や重労働者……など、身体への負担を避けねばいけない者は含まれていない。それにダリアは信仰しているものが違うのである。
ではどうして、エリザがやっているのか? ――それは、ジャミルを追い出したことに起因していた。
「子供を厳しく育てねばならない、悪いことをしたら徹底して叱らなければならない――私は奥方の、大変立派で浅い考えに、大い感服致しました。ただ個人の思想を綴っただけの、馬鹿げた本の情報を鵜呑みにし、月の障りによるイライラにも流され、大事な、ああとても大事なうちの子を、頭ごなしに叱って追い出した奥方に習い、私も厳しくしようかと思いました」
「あ、あぅぅ……だって、だってぇ、ジャミルがあんなこと考えていたとは、つゆほど思わなかったんですぅ~……」
「後悔は背にもたれかかっても、先には立ちません。まぁジャミルは世間を知らないので、いい機会ではないですか? 自分なりに、使い込んだ差額を持って謝罪しようと考え、サキュバスやサリーの所に行って、自ら『雑用でもいいから働かせてくれ』と、頭を下げて頼み込み、慣れぬ仕事を頑張って、今も、必死でこなしているんですからッ」
語気を強めたダリアの言葉に、エリザはあうあうと喘ぐしかなかった。
ジャミルがお金を使い込んでいたのは、善意による悪事であったのである。
『受取人がクビになったみたいだから、注文の品はあなたでいいわね』
ジャミルを追い出してすぐだった。
急にサキュバスが姿を現すや、薬草の類が入った包みをダリアに渡したのである。
これは何だとダリアが訊ねると、
『あの子がこっそりと、ここにあるのを用意して欲しいと私に依頼していたのよ』
そう答え、ハルン医師からもらった、“精力剤”の配合のメモを差し出したのだ。
これにはエリザだけでなく、ダリアも驚きを隠せなかった。
『あんな若い子が、こんな物に頼る必要あるかしら?』
『ああもしかしたら、我が子に愛情を向けて欲しいって思ったのかもね~』
『それとも、私の料金高いし、つい魔が差したのかしらねえ?』
などと、わざとらしい口調で言うだけ言い、サキュバスは消えた――。
風が起こっていないのに、ひゅうと冷たい風が吹いた。
真相を知っても時既に遅し……。ジャミルを追おうとするエリザの肩を、ダリアは、むんずと掴むと、『悪いことをしたのは事実ですし』と、面覆いの下で満面の笑みを浮かべ(ただし目は恐ろしく笑っていない)、しばらく放っておこうと言ったのだ。
エリザはたちまち蒼ざめた。そして感情的になった理由を語ったが最後……
――そう言えば、“断食月”の時期ですね。奥方も当然、覚悟していますよね?
この大陸の教えは“平等”。どちらも悪いのだから、どちらも相応の苦労をしようと言う意図のある言葉に、エリザは目を震わせながら頷くしかできなかった。
「ま、あと少しで日没なので、その時に十分召し上がればよいでしょう。――ああそう言えば、食事の準備をしなければなりませんね」
「ダリアのご飯は美味しくありませぇん~……。薄い塩味だけの、くったくたに煮た野菜と豆なんかより、温かいジャミルのご飯がいいです~……」
「お腹に入れば何でも同じです」
食べられることだけでなく、ジャミルの存在の大きを再認識させられる。
ダリアは『ここの神にせねばな』と目を細めた。
◇ ◇ ◇
その一方で、酒場の方でもジャミルに感謝する者がいた。
簡易寝台に繋がる階段とは違う、別の階段を上がったところに、酒場で働く〈アマゾネス〉たちの休憩所があった。当番の者は、そこにある大部屋の中で仮眠を取るか、前の大テーブルに座って無駄話に花を咲かせる所だ。
だが、今は違っていた。テーブルには専用のクロスが敷かれ、それぞれの席の前にはナプキンと銀のスプーン、酒用のグラスが置かれていた。近くの壁際には長テーブルが設置され、上には大きな鍋が、その前にはパリッとした執事服に身を包んだジャミルが立っていた。
そろそろ時間だ。
そう思ったと同時に――正面の階段をダンッダンッと、品性の欠片もなく駆け上がってくる音がした。それは一つではなく、続けて起こる。
「ジャミちゃん、大盛りっ!」
「私も!」
「私も同じの!」
「こっちも頼むわー! どす盛りで!」
色とりどりのドレスに身を包み、凄い勢いで好き好きの席に座ってゆく。最後の一人は席を二つ占領した。
「かしこまりました」
ジャミルは恭しく一礼すると、ご飯を盛った皿を左腕に三つ、右手に一つ持って、お姉さんたちの前にそれぞれ置いてゆく。先ほどとは打って変わり、随分と慎ましい。
大鍋にはカレーがなみなみと入っていた。専用の器に移し、それを皆の前に置いたカレーの上にかけてゆく――。
「本日は、レンズ豆とトマトのカレーとなっております。どうぞお召し上がりください」
これがジャミルの新職場であった。
貪るようにカレーを食べるのは、酒場に勤める〈アマゾネス〉のお姉さんたちだ。
まかないを作り担当となっていたのだが、今では〈アマゾネスの執事〉として、部屋の掃除から衣類の洗濯、食事。果ては女たちを起こす役すら担う、女たちの執事になっていた。
時にはイレギュラーも起こり、真っ裸て寝ていたり、目の前で下着を脱いでは『これ洗濯しておいて』と、イタズラされることもあるが、エリザの予想もつかない行動に比べたら軽いものだ。
週休二日。仕事がない時は〈サキュバンク〉にて、掃除などの仕事もさせてもらうことになった。あちこちに骨や、何かの虫の死骸が転がっているが、今ではもう多少のことでは動揺しなくなりつつある自分が怖くなっている。
しかし、どんな仕事・作業においても、自分自身の成長が感じられ楽しいものだ。
そのためか、ジャミルの心のどこかではエリザへの不満が募り始め、
――帰ってやるもんか!
と、思い始めていた。




