2.おもてなしと情報収集
ブアーラ国の場所は海に面している。片刃斧の刃を下に向けたような大地の、ちょうど右の鋭端部分にあった。本来は隣国・サジラビ国の属国なのだが、今はほぼ独立状態にあるのを黙認されている状態である。
陸に入り組んでいる海はルシャ湾と呼ばれ、ジャミルたちはそこを渡り、交流の深いスタルクの港街へとやって来ていた。時刻は昼を大きく回った頃。強い日差しが緩み始めている。
「んんーっ、やっと着きましたー♪」
小型船に揺られること一日。石造りの船着き場に降りるや、奥方は大きく身体を伸ばした。真新しいワンピース型のローブに身を包み、顔を包むスカーフの中で目を細めている。糸目ではあるけれど、こうすると目を開いているのか、それとも閉じているのか本当に分からない。
冒険が決まると、出発まであっと言う間だった。
携行食や武器防具、衣類……下着や靴下まで新調したのだが、すべて整うまで十日も要しなかった。演者を引き立たせるのが裏方の仕事――国の職人たちが、『奥方のためならば!』と、本気を出してしまったのが理由である。
その間に立つ執事は、一番大変な立場にあると思う。円滑に進められるよう指示を出しながら、奥方のお世話しなくちゃならないからだ。
だから、想い人と言葉を交わす暇なんてなく、あっと言う間に船に乗ってしまった。
「え、えぇっと、まずは宿へ――」
ジャミルはエリザの肘の後ろに控え、宿のある方角を確かめるように呟いた。
一緒に出歩くことも多いが、スタルクの街まで遠出することはない。だが船の中で街の地図を見て、宿屋や食事処などは頭に叩き込んであるのだが、
「――じゃあさっそく、情報収集に参りましょうっ♪」
知ってた。人の話を聞かないわけではないけれど、奥方は超マイペースなのだ。
風が吹けば飛んでゆく、タンポポの種の如き人なのだ。
「奥方――」ジャミルの気持ちを汲んだのか、ダリアが呼び止めた。「逸る気持ちは分かりますが、今日ぐらいは大人しくしていてください」
「えー……」
エリザは心底不満げに唇を尖らせるが、ダリアは気にせず言葉を続けた。
「ここはブアーラ国と交流の深い地。挨拶もせぬまま国の問題を探れば、長たちの資質を疑い、後々への諍いの種を撒くことになりかねません。長たちも当然、我々がやって来たのを聞きつけ、歓迎の宴を催すはずです。その席で理由を伝え、長に直接訊ねるべきかと存じます」
ダリアは普段通りの格好――目元以外を隠す〈ニカーブ〉を被り、〈アバヤ〉と呼ばれるローブで身を包んでいる。(特別隠す理由がない人であるが『何かと都合がいい』からのようだ)
エリザもそれに納得したのか、顎に右手を添え、何度か頷いてみせた。
「むぅ、確かにそうですね……」
ふわふわした天然ではあるが、ダリアの言うことだけはちゃんと従う。
「それにジャミルもだぞ」すると今度はジャミルに顔を向けた。
「えっ?」急に名前を呼ばれ驚くと、ダリアさんは商店街のある方に目配せをした。
「ここで宿の手配は不要だ」
奥方と一緒に顔を向けると、慌てた様子で走ってくる人が映った。白い〈クーフィーヤ〉と呼ばれるターバンのような布を被り、金糸があしらわれた胴衣が光るその人の後ろを、たくさんの人が追いかけている。
「まぁ! あれは、マジッド様ではありませんか!」
それは、この街を治めている方の名前だった。追いかけるのはその関係者と守衛たちだろう。見る間にこちらにやって来るも、案の定「平和を……」と、挨拶をしてから言葉が出てこない。「しばらく……」と、膝に手をついたまま大きく肩で息をし続けた。
真っ白ヒゲの人たちが、ぜえぜえと息を切らせる姿は凄く心配になる。
「よ、ようこそ、お、いでになり……!」
マジッド様は、やっと声を絞り出すように言葉を発した。
頭に乗せている白い被り布が大きく傾いているが、そこまで気にする余裕がないようだ。
「連絡もせず、突然の訪問になったことをお許し下さい。少しこちらに滞在したいと考えているのですが、構わないでしょうか?」
「どど、どうぞどうぞ! 客人はいつでも大歓迎、それがブアーラ国のご内儀・エリザ様となれば尚更でございます! ささ、うちで歓迎の宴の準備もしておりますので、どうぞどうぞっ」
揉み手擦り手のマジッド様に、ジャミルは「あっ!」と何かに気づいた声をあげた。
すると、周りにいる人たちの目がこちらに集まる。
「い、いえ、こちらのことです……」
特に気にした様子もなく、エリザを囲うようにして来た道を戻り始めた。
しかし、ダリアだけは違っていた。『分かったか?』と、言いたげに目を細めていて、面覆いの下ではニマニマと笑っているように見えた。
この大陸には、『旅人には三日間、無償で宿と食事を与えよ』という義務がある。来客は神様からの遣いだと考えられ、招きもてなすのが神へのご奉仕であり、また喜びであることを失念していたのだ。
これではどちらが執事なのか分からない。がっくりと落とした肩をダリアに揉まれながら、高い漆喰壁の建物が並ぶ通りを歩き続けた。
商店街に差し掛かったのか、揚げまんじゅうの匂いが潮風に漂っている。ジャミルは小さなお腹を鳴らした。
港街だけあってか、海産物やそれらの加工品が多いらしい。食べ物だけでなく、この一帯では見ない模様の陶器や、色とりどりの宝石まで見受けられる。
長の家は、街の中心から少し奥まった場所にあった。
仕えている主人の屋敷と似た造りをしていて、開口部の広い部屋が池を囲うように並んでいる。この池は雨水を溜める役割をしていて、水が大事なこの大陸において重要なものである。
その周りを、沢山の女性たちが忙しく駆け回っている。
すぐに客間に通されると、お茶を二杯頂く。しばらくすると長たちの家族が集まり始め、それを追うようにして大皿に乗せられた料理が運ばれてきた。いよいよ宴の始まりである。
「申し訳ありません。突然ですのに、こんな良くして頂いて」
「何の何の。客人はいつでも招けるようにしてありますし、此度の客人は特に、我が友・ムフタールの奥方。神に感謝してもし尽くせません――ささ、どうぞ料理を召し上がってください」
「ありがとうございます。いただかせてもらいますね」
エリザが「平和を」と言うと、ジャミルだけでなく他の者たち全員も唱和する。
皿にあるのは炒めたご飯や鶏肉の姿焼き、そして何とジャミルの好物である、焼いた羊肉まであった。
「ところでご内儀――此度はいったいどのような御用向きで?」
各々がそのご馳走に舌鼓を打ち続けていると、マジッドは機を図ったように訊ねた。好き好きに話をしていた者たちも一旦会話を止め、興味をそちらに向けた。
「実は私、冒険者になろうと決断したのです♪」
「なるほど、冒険者ですか――って、えぇぇっ!?」
わずかな沈黙が降りた。全員が言葉を失ったのだ。
「なので、ここスタルクの近くで困ったことはありませんか?」
「こ、困ったことと言われましても……。その、ご内儀がそのようなことを仰られたのが困ったことと言うか……」
いつも前置きなく本題から入るので、マジッドが言い淀むのも尤もだった。
ダリアがすかさず捕捉説明を行うと、始めは怪訝な顔で聞いていたスタルクの者たちも、次第に納得したようなしないような様子を見せ始めた。
「うぅむ……確かに、ブラーア国に全世界の金貨が吸い寄せられている、とは言われておりますが……」
ジャミルと同様、エリザが冒険者になることに繋がらないようだ。
それもそのはずである。この大陸では、女が男の世界に踏み入れることは言語道断とされ、妻は夫に従い、娘は父に従わねばならない。(当然、男も収入面や、家と家族を守る責務を果たさねばならない)
「冒険者となれば、醍醐味は魔物退治でしょうな……」
「ええ、もちろんです!」
「困りましたな……。ここは多くの人間が出入りする場所――御国ほどではありませんが、多くの金が動くため、街の男たちも相応の実力を備えております。それに……これはあまり大きな声では言えないのですが、我々は海賊らも抱えております。魔物どもに遅れをとる連中であれば、このスタルクの街はもう存在しておりませんよ」
マジッドの言葉に合わせるように、他の者も顔を合わせながら頷く。
そして、ああでもないと話に花を咲かせ始めた。
「魔物と言っても、知能のある奴は人間側に就いてたりするしな」
「ああ。襲ってくる連中も、放牧中の羊を襲う狼と変わらん。尤も……東の果てでは死者が徘徊しているらしいが」
「魔物との呼称に、些か語弊があると私は思う。それにこの辺りでは魔物より、遊牧民や野盗どもの方が厄介だ」
口々に話す中で、隅の方で静かに控えていたマジッドの妻が、「あの……」と、躊躇いを見せながら割って入った。
「先日、聞いた話なのですが……東の村への道で、ゴブリンが出たと耳にしました」
「ゴブリン?」夫であるマジッドが片眉を上げて聞き返した。「それはまことか?」
「はい。子供のような大きさをした、灰色の小鬼だったと」
「東へと言うと、ファルスの村か……。確かに、あの方面は我々から向かうことはないが、警備隊や隊商の連中は何も言っとらんかったぞ」
二人の会話に、ダリアが「ああ、それは」と、面覆いの下で言った。
「奴らはずる賢く、勝てぬ相手が近くにいると現れないのです。現れても何かをするわけでなく、逆に何もしません」
「何も、しない?」
「ええ、何もしません。弱そうなのがやって来るのを待ち、そいつらから金や食料を脅し取るのです。他には農作物を盗んだりなど、狡いことばかりしています」
「なるほど……ファルスは、ここと違って今は穏やかだ。収入もそこまでなので、人を雇うのも難しいだろう。確かにチンピラまがいのことをするにはもってこいの場所であるな。あそこからの取引が少なくなっているのは、それが原因――」
そこで『しまった』と言った顔をしたが、その時はもう手遅れだった。
顔を明るくしたエリザが、すかさず手を叩いていたのだ。
「では、我々が“援助”しに行きましょうっ♪」