9.ジャミルの奇行……?
買収から二日が過ぎ、ルムタンの町は完全に落ち着きを見せた。
領主が置物になったと分かった瞬間、町は祭を催しそうなほど喜びに満ち溢れ、わっと活気が戻った。
しかし、伝染病はまだ沈静化まで至っていない。医師・ハルン・アラードは、『感染経路および患者の療養について、手順が確立しつつある』と言い、『薬の原料となる薬草やハーブを備えられれば、死者の数は格段に減らせられるだろう』と話した。
そして、エリザたちを追い出すように、レスカンドに戻るよう指示をした――。
病気が感染する恐れがあるためである。
しかし、国に帰す意図も含まれていることに、エリザは気づいていた。
――旦那様に土産話を聞かせてあげなさい。話せる内容が足りぬと言うのならば、話を千日分まで引き延ばすといい。子が授からぬのは、いささか夫婦の時間が、営みの回数が少ないのが原因ではありませんかな?
この言葉が効いたのか、エリザは不承不承ながらも頬を染めて頷いた。
医師は言葉も薬にするのか、とジャミルは感心しきりであった。そしてその去り際、ハルンからこっそりと男女共に効果のある“精力剤”の調合メモを渡される。『若者が使用するのは頂けないが、平等であれば必要な時も来るだろう』と、子供のように笑い、『ムフタール様にも毎日少しずつ盛るといい。寝不足なんて何のその。妻を満足させるのは夫の役目。金ではなく安寧を与えるのだ』と言い、医者としてそう直言する、と続けた。
病院を出た後、ジャミルは再びメモを覗いてみた。材料の〈蛇の魔物の血〉だけが厄介だ。レスカンドに戻った際、サキュバスのお姉さんに訊ね、こっそりと購入しなきゃならないかな、と考えている。
そして、婚約者・ナイマにもちゃんと挨拶を交わした。
まだ完全ではない上、ジャミルも旅の途中。ブアーラに戻ってからも色々と(ルディナに納得してもらう)準備が必要なため、落ち着いてから連絡すると伝えた。――その際、指を絡め合い、額に感じた柔らかな唇の感触は、今思い出しても熱が上がってくる。
――ウチ。花嫁修業、頑張ります!
娼館のお姉さんたちは、『惚れた腫れたが何よりの薬だね』と、羨ましそうに溢した。
一行の晴れやかな気持ちとは対照的に、空模様はいよいよ怪しくなってきていた。
レスカンドに戻ってからと言うもの、空は唸るような音がしており、風には生ぬるさが混じっている。この地域で雨は比較的多い方だが、大陸で見れば何ヶ月かに一度の珍しいものとなる。そして、その雨足はかなり強い。
なので、ジャミルは保存食作りの材料を買い揃えながら、雨に備えての準備に忙しく走り回っていた。
「――今日だけ部屋を変えて欲しいぃ?」
まずは宿屋。頓狂な宿屋のおばさんの声に、ジャミルは思わず身を縮めた。
「……まぁ、何があったか聞かないけど、男には一人になりたい時があるさね」
妙な生暖かい目が気になったが、ジャミルは先を急いだ。
次は商店。ここで購入するのは、あんず・いちご・黄桃などの果物。そして大量の砂糖だ。
その次は酒場。台所は宿屋でも貸してくれるが、少し場所を取るため、昼間は閉めている酒場の台所を貸してもらうことにした。もちろんサリーさんの口添えありだ。
まず買ってきた果物をよく洗い、あんずや桃の皮を剥く。種を取り出すとそれぞれボウルに入れておく。そしてすぐに砂糖を鍋に、本来は1:1であるが、奥方は少し甘めなのが好きなので、1・5倍ほどの量を入れた。(サリーさんの地域では、2倍近く入れると言い、驚かされた)
そして、入れた砂糖の半分ほどの水を入れる。弱火で煮詰めてシロップを作り、そこに先ほどの果物を入れ、じっくりと煮れば完成だ。
ここで大事なのは煮詰め方である。これが足りないとすぐにカビが生え、保存食にならない。
それぞれのジャム作りを終えると、ジャミルは額の汗を拭った。
「これで完成、と」
「……“執事”って、男に女の仕事をさせるための口実なのかい?」
横で作業を見ていたサリーさんは、呆れて物も言えない様子だった。
「い、いやぁ……僕が料理作らないと、奥方は凄い不満そうにするので」
「ダリアの料理は、素材の味だからね……」
愛想笑いをするしかできなかった。
ダリアさんの料理は、ほぼ塩茹でなのだ――。
「ま、解雇されたらウチにおいで。その腕なら買ってあげるよ」そう言ってタバコに火をつけ、灰色の煙を小さく吐き出した。「それと――頼まれていたブツ、そのバスケットに入れてあるよ」
「わ、ありがとうございます!」
ジャミルは思わず声を弾ませた。
大きなテーブルの上に、青い布がかかったバスケットが一つ置かれてあるのを見て、思わず顔がほころぶ。
「あの、このことは――」
「ブツをもらって喋るほど腐っちゃいないよ。一人でこっそりやるならなおさらね」
「あ、ありがとうございますっ!」
ジャミルは作ったジャムの瓶を入れ、そのバスケットを抱えるようにして酒場を後にした。
外はいつもより格段に暗く、嵐の前触れを告げる風が吹いている。
漆黒の帳の中に消えてゆく小さな背に、サリーは『子供子供しちゃって』と、緩めた口元から長い煙を吐き出した。
宿に戻ってから、ジャミルは急いで部屋に戻った。
場所は三階の屋根裏に近い、一人用の部屋だ。突然の部屋替えの理由を訊ねようと、入り口でエリザが待ち構えていたのだが、ジャミルは「今日だけお願いしますっ」と、素っ気なく突っぱねられた。
「あっ」と、声をあげた時にはもう階段を上がりきっており、伸ばしかけたエリザの手は、ゆき場のないまま宙を掻いた。
「どうしたのかしら……」
しゅん……としたまま、階段の方を見つめていると、そこから青い鎧が降りてきた。
「ん? そんな所で突っ立って何してんだ」
「あ、ライムさん。その、ジャミルのこと何か聞いてませんか?」
「ガキんちょのこと?」
「今朝から妙にこそこそとしていて、理由を訊かれることを嫌がっているようで……」
「ああ」
ライムは天井の方を見上げると、「昼間から忙しくしてたな」と言った。
「ま、心配いらねェだろ」
「それならいいのですが……」
「あの年頃のガキ、特に男は詮索されるのを嫌う。ま、“シシュンキ”ってやつだな――あのガキんちょは来てんのか、来てないのか分からねェが、別に悪ィことしてるわけじゃねェんだ。放っておいてイイんじゃねェの」
エリザは押し黙ると、ライムは諭すような口ぶりで言葉を続けた。
「男には一つや二つ、趣向やコダワリってもんがある。それは誰かがいると楽しめないってことだったりする。見て見ぬフリをし、一人の時間を作ってやるのが親・保護者ってモンだ」
するとエリザは「あっ!」と声をあげると、少し気恥ずかしそうに「なるほど……」と灰色の床板を見つめた。
「男の子、ですもんね……」
「……あのガキんちょも苦労するよ」
ライムは呆れた声をあげた。
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それから数時間――吹いていた風は、殴りつけるようなものに変わり、それを追うようにして降り出した雨は今、物音が聞こえないくらい建物を響かせていた。どこか遠くで雷も鳴っているようだ。
水膜が張る窓のすぐ側で、ジャミルは椅子の上ですぅすぅと寝息を立てていた。
部屋の灯りはない。そのすぐ近くには、サリーからもらったバスケットと空になった葡萄ジュースの瓶が置かれている。膝に広げたハンカチの上には、クッキーの粉が広がっていた。
そんな所に、一つ黒い影がジャミルに落ちた。
心地よさそうな寝顔に、ふっと笑みを浮かべると、背中と膝の下に腕を入れて持ち上げる。思っていたよりも重かったのか、一瞬驚いたように目を開いた。
起こさぬよう慎重に。近くのベッドに寝かせると、優しい手つきでそっと布団をかけてやった。
(まったく、奥方にはほとほと呆れさせられる……)
それは、ダリアであった。
ジャミルの可愛らしい寝顔を見ながら、その頭を撫でている。
何時間でも見ていたいが、長居してはならない――ダリアは静かに扉へと戻った。
(ジャミルの故郷は雨の多い国。この子にとって雨音は、母の子守歌のようなもの……いくら国が離れているとは言え、同じ大陸の出なら分かるべきだろうに! 昨日今日出会ったばかりのライムですら、気づいていたと言うのに! 何だ『扉の前に、予備のチリ紙を置いておくべきでしょうか……?』って! もしそうだとしても、使えるわけないだろうっ!)
気の使う場所を考えろ! と、肩を怒らせながら部屋を出ていった。




