6.いざ買収交渉へ
宿屋を出て、エリザたちはライムと共に娼館へ向かっていた。あれから五日、珍しく灰色の雲が空を覆う日のことである。
流石のエリザも緊張しているのか、そんなに長くない距離にも関わらず、何度もジャミルに飲み物を要求していた。
ジャミルもまた同じである。語弊があるが、通い慣れたはずの娼館なのに、今日だけはどこか異様な空気が漂っているのを肌で感じていた。
「――ブアーラの方ですね? ようこそいらっしゃいました」
入り口に立つお姉さんも緊張しているようだ。
奥方はすっと頭を下げただけで、そのまま中へと入ってゆく。ここで初めて『神の平和を』との挨拶をしないことに気づいた。
いやむしろ、ここで神の加護を祈る挨拶は相手への冒涜なのかもしれない。何しろ相手は――
「ジャミル。いくら相手が悪魔とは言え、そこまで硬くならなくていい。お前は〈聖剣の作り手〉、相手からしても厄介な存在だ。背を丸めていると、悪魔はそこにつけ込んでくるぞ」
「は、はいっ!」
ダリアの言葉と共に背筋を伸ばすと、ライムは壁に爪を立てながら言葉を発した。
「女たちもつけ込むぞ。硬くするのはイチモツだけ、おどおどキョドキョドしてっと、ここのケモノたちは一斉に飛びかかるからな。貪られるようなプレイがいいってんなら別だがよ」
壁に四本の溝を残しながら、ライムの高笑いが響く。
ジャミルはここに来た時のことを思い出した。あの時は怖くてたまらなかったけれど、ズボンの下は硬く勃起してしまっていたのだ――。その時のことを思い出し、頭をぶんぶんと振った。
対談、もしくは商談の席は、娼婦たちが商売で使う棟の、二階に上がってすぐ横の部屋に設けられていた。
黒っぽい引き戸の扉を前に、エリザは小さく息を吸い、ゆっくり吐く。それを二度繰り返すと、意を決して錫色の取っ手に指をかけた。ガラリ……と揺れる音が響くと、真っ先に橙色の光が出迎えた。
橙と黄色のグラデーションが描かれた床に、放射線状に伸びる灰色の線が一本、入り口に向かって延びている。
わずかに目線を上げると、赤い角が二本生えた女性の姿が浮かんでいた。
「ようこそ――異国の者よ」
「お、お初にお目にかかります。私は――」
「名乗らずとも分かっておるぞ、エリザ・ハキム・シナン――いや、エリザ・ストラ・ベイカーと呼んだ方がよいか」
エリザが息を呑んだのが、ジャミルにも分かった。
「オレ様も知ってるぞ! 性悪女・ジャヒー。アンラ・マンユの愛人にして母だ、な? な?」
「……まったく面倒くさい輩がいたものよ。管轄の問題がなくば、関わり合いになりたくなかったわ」
大量の燭台を背にしているせいか、肌が橙色に染まり、胸と股間だけを隠す鎧の赤色が、いっそう煌々と輝いている。
「お主らの言う天使と、我々が敵と見る天使と同じであれば、話は別じゃがの」
「ハッハッハッ……お前らの敵、マジ厄介」
「ふん。まぁさっさと話を済ませようぞ。妾も暇ではないからの」
ジャヒーはエリザに目を向けると、視線で後ろのテーブルに着くよう促した。
相手は上座に、エリザは下座に腰をかける。
「――して、この娼館を買いたい、とのことじゃったな」
「はい。まずこの町の領主は、町に病を広め私腹を肥やそうと画策していることが分かりました」
うむ、とジャヒーは頷く。
「彼は天族側――こちらの魔族が敵と見る側から感染者を招き入れ、あろうことか娼婦を媒介者に選びました。つまり、ここの女性です。同じ女として、そのような行いは決して許すことも、看過することもできません」
「同感じゃ。――だから、お主の財力を持って、ここを救おうと?」
「ええ、その通りです。しかし病気は北部で広まりを見せている……ここで領主の企てを阻んだところで、一時的な気休めにしかならないでしょう」
相手は何も言わなかったが、エリザは言葉を続ける。
「ここに我々がやって来たのは、病を治す薬を預かっていたためです。そして薬の効能・結果を得ることができ、その配合の解析もほぼ完璧にまで至っております。――となれば、ここで次に出てくる問題は、薬草の確保です。一部は仕入れるとしても、すべてを集めるとすれば時間も手間もかかる。……なので、我々は、その薬草栽培のための用地も買い上げるつもりでいます」
ほう、とジャヒーは片眉を上げた。そして肘掛けに置いた手を口元にやると、指先でトントンと唇を叩き始めた。その間は何一つ音を立てず、他の者も沈黙を保ち続けた。
「確かに――」長い沈黙を押し破る、低い淡々とした声が響く。
「領主のことはどうでもよいが、侵略を図った者どもの行動は目に余る。何らかの入れ知恵をしておったようじゃしの。ここで一つ、鼻を明かしてやるのも手じゃろう」
顔を戻すと、エリザの目をじっと見つめた。
「しかし、タダではない」
「承知しております」エリザは凛として答えるが、ジャヒーは「金ではない」と首を振った。
「と、言いますと……?」
「ここは家でもある。ここを売ることは即ち、女たちもまとめてそちらに譲ると言うことじゃ」
「ええ……その通りですね」
「食うに困った者が、娼館の門戸を叩く。風雨を凌ぐため、身を寄せ合うだけで我らは戸を開かぬ。相応の覚悟を持った者だけが踏み入れられる。ここは言わば、“女の聖地”・“女の砦”じゃ。そこで暮らすことは、特別な糸で繋がられた家族とある。それは即ち、妾の“娘”ということ――建物は売れても、金で娘は売れん。なので、そなたに預けても大丈夫じゃとの証が欲しい」
「証、ですか……?」
そうじゃ、と言うとジャヒーはじっとジャミルを見つめた。
「娘を一人、そなたにくれてやろう」
「……へ?」
ジャミルは間抜けな声を上げてしまった。
それはジャミルだけでなく、エリザやダリアも同じであった。
「ヒトは、婚姻によって繋がりを証明するじゃろう?」
「え、えぇ……まぁそうですが」
「まぁ形式上の物で構わん。正直なところ、キナ臭くなりそうじゃし、少し西方に移動せねばならんと思っておった。そちらで引き取ってもらえるのならば超したことはない」
するとライムは、「アシガ近くにいる、ドゥルジもつれて行ってちょーだい」と言うと、ジャヒーは「蛇の血が欲しいと言っておったが、あやつそんな近くにおったのか」と驚いた声をあげ、「約束しよう」と、口にした。
「で、ガキんちょにやる女って、やっぱアイツか?」
「うむ。多分、そなたが思っている者じゃ――今、つれてこさせておる」
「ちょ、ちょっと!? 話が勝手に進んでいるけれど――」
ジャミルは堪らず声を張り上げたが、突然開かれた扉に絶句してしまっていた。
白い光を背にして立っていたのは、サキュバスのお姉さんと白い貫頭衣を着た少女、
「な、ナイマ……?」
頬を朱に染めたナイマがそこに立っていたのである。
どういうことだ、と多分ダリアさんが代弁してくれたけれど、本当にどういうことか分からない。
「管轄が違う。住む世界が違う者を騒動に巻き込むと、色々と揉めごとの火種になりかねェんだよ」
「管轄が違う……って、えぇっと、サキュバスのお姉さんと、ここのジャヒーさんのってことですよね……?」
「ああそうだ」
ジャミルの頭に、サキュバスとジャヒー、そしてナイマの人物像が浮かび上がった。
大きく陣営分けをすると、ナイマの居場所はどこになるのか?
そもそもどうして、ナイマの人物像が入ることになるのか?
答えはなんとなく頭に浮かんでいるけれど、言葉にしたくないものだ。
「ま、まさかナイマさんって……その、そちら側……?」
「半分な。サキュバスと人間の間に出来ちゃった子だ」
ナイマはそれに小さく頷く。
ジャミルは救いを求めるような目をエリザ、ダリアに向けたが、どちらも、『どうにもならない』と言うかのように、小さく首を振るだけであった。




