1.お告げと始まり
大人の真似事をしているだけだ。
頬を赤く染めるメイド姿の少女を前に、ジャミルはそう思った。
「あ、あのっ……」
つかの間の沈黙を置き、やっと絞り出すように声を出した。
だが、それ以上の言葉は出てこない。対する少女の方も、「はい……っ」と、上ずった声で返事しただけだった。
褐色の肌に、アーモンド型の茶色の瞳。ぷっくりと膨らんだピンク色の唇を軽く結び、ジャミルの言葉を期待している。
ジャミルがブアーラ国にやってきて約六年目――少女とは、他の仲間とは違った交流を深めてきた。
この大陸では、十二歳頃から伴侶について考え始める。少女が〈ヒジャブ〉と呼ばれる布で髪を隠すようになり、ジャミルは思い切ってみたのだが。
広い邸宅の中庭。水色の池のほとりには、二羽のツグミがさえずり合う。
ジャミルは何とか言葉を発しようとするが、喉から肝心な音が出てこない。舌の根が気道を塞ぎ、息苦しさだけがそこにわだかまった。
早く言わなければと気持ちだけが逸る。落ち着かせるため、肩を小さく上下させたその時――
「ジャミル」
突然、後ろから呼ばれ「いッ!?」と、頓狂な声をあげた。その声に、ツグミが飛び立った。
「だ、ダリアさん……?」
おそるおそる振り返ると、柱の横に、顔まで黒い布で隠した者が立っていた。
「奥方が呼んでいる」
「え、あ、あの……」
もう少しだけ待って、と懇願を込めた目で訴える。
しかしそれも空しく、ダリアと呼ばれた者は「早くしろ」と、無慈悲に言い放つ。
ジャミルはそれに肩を落とすと、申し訳なさそうな表情をしながら少女に向き直った。
「ルディナ、ごめん……行かなきゃ」
「う、ううん……お仕事だもん、仕方ないよ」
ルディナと呼ばれた少女は、口元に優しげな笑みを浮かべた。しかし落胆の色は隠せていない。
ジャミルは急ぎ足でダリアの下に向かった。
一度だけ振り返ると、ルディナも振り返っていた。はにかんだような笑みを浮かべ、『頑張って!』と口だけを動かし、再び反対側の建物に向かった。
「うぅ、せっかく……」ジャミルは力なく頭を垂れた。
「私も女だ。木の股から生まれたわけではない。これでもルディナことを考え、待ってやった方だぞ? ここ一番で迷い、決心を鈍らせるような心では、女を振り回すだけだと判断したのだ」
「うっ……」
厳しい言葉に、ジャミルはぐうの音も出なかった。
ダリアの言う通り、漠然とした不安や迷いが渦巻き続け、言葉が切り出せなかったのだ……。
一つため息を吐き、気持ちを切り替える。そしてダリアに目を向けた。
「それで、奥様の用事とはいったい……?」
「知らん」ダリアさんは前を向いたまま、素っ気なく返す。
「用向きを訊ねるのが、執事の仕事だろう。私は奥方様の警護役だ」
そう続けながら屋敷の中に入った。
ダリアがここにきたのは、ジャミルが屋敷に来てから約半年後のこと。元々は凄腕の冒険者だったらしいが、深くまで知る者はいない。
常に〈ニカーブ〉と呼ばれる面覆いで顔を隠し、物々しいオーラを纏っていたため、誰もが近づくの恐れていた。……が、いざ蓋を開けてみると、その風貌・口ぶりからは想像もつかぬほどの世話焼きであった――。
幼い頃からずっと面倒見てくれていたおかげか、ジャミルにとってダリアは、姉のような存在となっている。
薄暗い廊下を並んで歩き、この屋敷の主人が待つ“謁見の間”の前に立った。
しかし、ダリアはすぐにノックせず、ジャミルの顔をじっと見た。
――身だしなみのチェックをしろ
それを察したジャミルは、自分の身体に目を落とした。
ウェストコートやスラックスに汚れはないか。シャツのボタンは。袖口に汚れはないか。タイも曲がっていないか。粗漏がないか念入りに確かめた。
大丈夫です。ジャミルは自信満々の目を返した。
……すると、ダリアの手が首裏に伸び、シャツの後ろ襟をくっと引っ張った。そこがよれていたらしい。
「奥方。ジャミルをお連れしました」
ダリアが引き締めた声で言うと、古い木扉の向こうから『どうぞー』と、ずいぶんと気の抜けた返事が返ってきた。
「失礼します――」
ジャミルたちは慎ましく扉をくぐる。
細長い部屋の奥に主人が座し、その傍らに奥方が佇んでいた。褐色肌の旦那様は困り顔を浮かべているのに対し、白い肌の奥方は朗らかな顔をしている。
これは普段通りの光景なのだが、今日の旦那様は、よりいっそう困っているように見えた。
「旦那様。何かございましたか?」
用向きは奥方からだが、ジャミルは執事として具合を訊ねた。
長く勤めていた執事からバトンを渡されたばかりであるものの、仕えるあるじの気持ちを掬する術は既に心得ている。
「うむ……」
旦那様は沈んだ声で、小さく頷く。
しかしそれ以上は語らず、目を向けられた奥方が口を開いた。
「ジャミル、私と一緒に冒険しに行きましょう♪」
「分かりまし――って、えぇぇっ!?」
聞き間違いかと思ったが、横にいたダリアさんも目を丸くしていた。
「冒険者はお金がかかる、と耳にしたのです♪」
「ちょ、ちょっとお待ち下さい!? は、話がよく見えません……!」
すると今度は、旦那様がやっと重い口を開いた。
「――昨夜。私の夢の中に、神がお越しになられたのだ」
「神様……ですか?」
こちらも突拍子もない言葉に、ジャミルはつい怪訝な顔で聞き返してしまった。
この国は地続きの大陸だが、人口の三分の二が同じ神を信仰し、また信心深い。
しかし、それと冒険に出る理由がまったく繋がらない。
「浮いているのか、立っているのか分からない、真っ暗な世界の中に私はいた。そして畏れ慎ましい声で、『ムフタールよ。お前さんは豊かな財を築いているが、そのすべてを把握しているか?』と、仰られたのだ……。そして、『このままゆけば、汝の家が転覆することになるだろう』と、続けられた――」
そこで飛び起き、すぐに調査を始めたと言う。
「そして今朝、調べてみて分かったのだ」
「まさか、本当に神様の――」
「金庫の重みで、この屋敷が傾いているらしい」
「転覆って、物理的な意味なのですか……?」
警告は警告ですが……と、ジャミルは漏らした。
ここ・ミッディージア大陸の多くでは、神の律法がそれぞれの国の礎となっている。道徳の遵守をすることで、平穏と調和がもたらされる。そしてその中の一つに、『贅沢や財を貯め込むことを良しとしない』旨の教えがあるのだ。
富者には『貧者や孤児、神のために勤める者たちに施しを与えよ』との義務があり、ジャミルはてっきり、そちらを怠っていたのだと考えていた。
「お金を使わないからですよ」
今度は奥方が咎めるように言う。
「う、うぅむ。使うところは使っているつもりなのだが……」
外観からは分からないが、この家は、“金持ち”との言葉では足りないほどの金持ちである。
この“謁見の間”も臨時に設けられたもので、元々はダイニングだ。元々あった“謁見の間”は、今現在、地下室からあふれ出した金貨袋を保管する、“第二金庫”と化している。
こうなった理由は、先の言葉通り『お金を使わない』ことにあった。他にも理由があるが、根本的な問題はここなのだ。
旦那様の名誉のため先に述べるが、決してケチなどではない。
必要な出費であれば出し惜しみはしないし、建物の修繕や材料の仕入れ、職人への補助など、正当な理由で申請すれば、ちゃんと支給される。――平たく言えば、無駄遣いしないのだ。
ジャミルはやっと奥方の言葉が理解できたものの、まだ分からない部分があった。
どうして冒険するのか、である。
「奥方、どうして冒険にゆきたいのです」
それを代弁するかのように、ダリアが鋭い目を向けた。
「昔ほどではありませんが、冒険はそんな甘っちょろいものではありません。野盗や狼だけでなく、〈天と魔の大戦〉の際に現れた魔物ども――今は数を減らしているとはいえ、今日生きた冒険者でも明日は分からないような日々を送っています」
ダリアはまくし立てるように、更に言葉を続けた。
「奥方の仰る通り、確かに金はかかりますよ。ギルドで金を得ても、右から左に流れてゆく日々ですから。……が、それを奥様自身が行おうと言うのは安直すぎやしないかと思います。まぁ今日に始まったことではありませんが……。金を使いたいのなら、基金に寄付すべきではないでしょうか」
「ふふっ、危険なのは私も重々承知していますよ。そう遠くまで行くつもりはありませんし、近くのスタルクの街とかなら問題ないでしょう? それに主人ももう、これに承諾してくれていますし~」
目を向けられたムフタールは、渋々といった様子で頷いてみせた。
「物見遊山でも、魔物と戦うことは避けられませんよ」
「うちにはダリアの他に、とっておきの存在――〈剣の作り手〉・ジャミルがいるではありませんか♪」
いきなり手を向けられたジャミルは、「へ?」と、目をぱちくりとさせた。
ダリアはそれに「やはりか……」と、呆れた様子で頭を抑えた。
「勇者・デシーヴの聖剣〈ディバイン〉――魔族軍の将を討った際、剣は折れてしまいましたが、それは聖なる光を込める容れ物にすぎない。それを込められるのは、聖剣の力を授けられた〈剣の作り手〉と呼ばれる者だけ。その持ち主こそが、うちの子・ジャミルなのですから!」
奥方の熱弁に、ジャミルは狼狽するしかなかった。
確かにその通りだった。……だが、この力が原因で、“奴隷”としてやって来ることになったのだ。
これは、先にダリアさんが述べた〈天と魔の大戦〉が大きく関係している。
【遙か昔、ハーディーと呼ばれる邪神がいた。
邪神は地上を我が物にせんと化け物を率い、ミッディージア大陸に降り立った。侵略・強奪を繰り返す極悪非道な者ども。
神は剣を作り、天からこれを投げ落とす。
『剣の力が持ち手を選ぶ』
その剣を拾いし青年・デシーヴ。鞘を抜くとたちまち光があふれ、光の狼煙をあげた。
驚くデシーヴの下に、美しい天使が舞い降り『神に認められし勇者よ』とひざまずく。『それは神より与えられし聖剣〈ディバイン〉――邪神・ハーディーを斬れる唯一の武器であります』
元々は平凡な青年だったデシーヴは世界のため旅立ち、様々な苦難を乗り越え、愛する者と出会い、そして人々のために戦った。そして勇者デシーヴは、自らの命と引き換えに、ついに邪神を討つ――】
おとぎ話としても人気の英雄譚である。
ジャミルはこの話が載った本を何度も読み返し、そのたびに胸を躍らせていた。
――僕もデシーヴのようになりたい
そんな子供の願いが叶っただろうのか、七歳の誕生日を迎えた夜――なんと、手にしていたフォークとナイフが、ぼんやりと光り輝いたのだ。
ジャミルはこれを喜んだが、両親はたちまち青ざめた。
『教会の説く“平和と安寧”は眉唾物だ。ミッディージア大陸の書物・伝記と大きく食い違い、またそちらの方が生々しい説得力がある。息子を協会に差し出せば、彼らの道具にされかねない』
共に歴史研究家でもあった両親は、教会側――つまり天族への疑問を抱いていた。
そして、本来は教会に届け出るべき使命を無視し、ムフタールに息子を託したのがコトの真相であった。
そんな事情であることをまるで知らないジャミルは、ここに来てからずっと泣き通しの彼を優しく面倒見ていたのが、正面にいる奥方・エリザと、横に立つダリアなのだ。
「ね? どうかしら、ジャミル?」
この機会でなければ使えませんし、とニコニコしながら続けた。
形式上とは言え、自分は奥方の“奴隷”であり、奥方の執事である。それにこの国は、女だけで旅をすることは固く禁じられており、最低でも一人は近親者か身内の者を同行させねばならない決まりがある。
その上、夫・ムフタールの承諾まで得ているとなれば、選べる選択肢は一つしかない。
「奥方の、仰せのままに――」
ジャミルは胸元に左手を当て、深々と頭を下げた。