雁字搦め
中途採用で入社し、この印刷会社で過ごした年月は八年を数える。そして社内改革の名の元二交代制などというものが、二月半ばから施行される。
季節は冬インフルエンザが蔓延し、それどころではない。今日もかなりの人間がインフルエンザで休んでいる。
朝機械の暖気運転をしていると視界の片隅にチラチラと現場ではあまり姿を見ない上司らしき人間の姿が見える。イヤな予感がしたので、気のせいだと自分に言い聞かせ仕事に集中するも気配が一向に消えない。用件の察しはつく、あまりいい話ではないことは確かだ。
気配がすぐ後ろに迫ってきてるが、振り向く事は絶対にしない。振り向けば最後、このまま通り過ぎてくれるのを待つが気配が動くことはなかった。
「この機械は三人とも出てくれてるか、すまんがちょっと頼みがあるんやけど」
そらきた、ここは一つ恩を売っておくか。といっても相手が恩を感じていなければ意味がないけど。
「はい、なんでしょう」
「休み多て人手がな足りんねや」
やっぱりな。インフルエンザでやられたか、中には便乗した奴もいるだろうな。
「新人でいいから貸してやってくれへんか」
新人か妥当と言えば妥当な選択だな。行った先でヘマやられたら俺の面子に関わるし、という葛藤が心の中で渦巻いた。本当は新人が手伝いに行った先で何しようが俺にはなんの関係もない。これを建前に今日は一日遊ぶか。
「そうですね、今日は仕事軽いですから俺がいきましょう」
その瞬間俺を含め四人が氷ついた。しばしの沈黙の後やっと、サブオペレーターを勤めてくれてる森本が口を開いた。
「何言ってるんですか、機長はどうするんですか」
一応この機械の機長を勤めている俺。それが他の機械の下働きなど誰も想像などしていなかっただろう。通るとは思えないが通れば今日一日機長という責任から逃れられる。
「もうすぐ二交代始まる。想像はついてる思うが森本が機長になるのが妥当や、そうであってほしいと俺は願っている。だから今日はその練習やと思ってもらいたい」
その芝居じみた言葉を聞き「嘘付けや」という目で森本と新人の梅田がみているが、上司はうんうんと頷いている。こいつらには俺の本心がバレているが、上司さえ丸めこめばなんの問題もない。
「そうやな、もうすぐ二交代で森本君にも経験積んでもらわんとな」
勝った……一応現場上がりの上司で現場の状況を分かってもらえること多いが、いかんせん頭が悪く人の意見に流されやすい。事務所でも、いいように扱われていることだろう。今回はその頭の悪さが、俺にとってプラスに働いたようだ恩に着る。
「わかりました、どこの機械にいきましょう」
「そうかやな……」
上司と雑談しながら、その場から離れた。
その時チラッと後ろを見た。森本の口が「嘘つけ」と言っていた。
行く先々で不思議な顔をされた。機長クラスの人間が手伝いなど滅多にないことなのだから。その日は、あっち行き後輩をイジリこっちに帰ってきては先輩のご用聞き。肉体的には辛かったが精神的には、ここ最近味わったことない清々しかった。
こんな日続かないかなと思いながら仕事に精を出していたら、定時を告げるブザーが鳴った。そうしたら手伝っていた機械の機長が、
「今日はここまでにしときます。ありがとうございました」
俺に気遣ったのか、それとも鬱陶しいかったのか今となってはわからないが、珍しく定時で終わった。
油だらけの手を洗い帰り支度すると、後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。
「仕事終わったんですか、ちょっと教えてもらいたいことが……」
森本だ。これは厄介な事が機械に起きている、そう直感した俺は一瞥もくれず更衣室に向かってダッシュした。
「えっ嘘なんで逃げるんですか、待ってください!聞こえてるでしょ!」
聞こえているさ、そんな事確認している暇があるなら追ってこい。そのまま更衣室に逃げ込んだ俺は私服に着替え、異常が起きているであろう機械に向かった。
冗談も兼ねて逃げたが、本当は今日一日は自分で頑張って欲しいというのが理由だ。
とりあえず機械の前まで来てみたが、誰もいない。時計を見ると定時を軽く過ぎている。「休憩かな」と思いつつ日報を見ると、俺は思わずつぶやいた。
「全然進んでないやん、あいつら何しとんねん……」
原因は何か探るため日報と予定表に液晶とにらめっこしている所に森本達が帰ってきた。
「何してねん、全然進んでないやん!」
俺は声を張ってしまった。森本は少々ビクつきながら、遅れの原因の説明をしだした。
「すいません、どうしてもうまい事いかんで」
専門的な説明は省いて、遅れの原因は簡単な機械操作で解決する事だった。
「頼むで、もうすぐ回さんなあかんねやから」
「すいません」
正直俺は人に命じるのも命じられるのも嫌いだ。
いろんな事にがんじがらめの世の中から解放されるには、どうすればいいんだろう。