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『「君は何もしなくていい」と婚約者に言われたので、本当に何もしませんでした 〜王宮が三日で崩壊する間に、私は街で小さな図書館を開きます〜』

掲載日:2026/10/12

「君は何もしなくていい」と婚約者に言われたので、本当に何もしませんでした\

〜王宮が三日で崩壊する間に、私は街で小さな図書館を開きます〜


第一章 王太子殿下のありがたいご命令


「ロザリア、君はもう何もしなくていい」


王宮の温室に、王太子エドアルドの声が響いた。


秋の午後だった。


硝子越しの陽射しは柔らかく、鉢植えの薔薇が最後の花を咲かせている。


「いや、違うな。何もしなくていい、ではない。頼むから、余計なことは一切しないでくれ」


エドアルドは苛立たしげに前髪をかき上げた。


その腕には、男爵令嬢ミレーヌが寄り添っている。


「君はいつもそうだ。私が何かをしようとすれば、先回りして準備を整え、あれこれ口を出す。まるで私が一人では何もできないかのようではないか」


「そのようなつもりはございません」


「言い訳は聞きたくない」


エドアルドは片手を上げ、ロザリアの言葉を遮った。


「ミレーヌを見習いたまえ。彼女は慎ましく、私を信じ、いつも笑顔で支えてくれる。君にも少しは、そういう可愛げが必要だ」


「エドアルド様……」


ミレーヌが頬を染める。


「わたくし、難しいことはわかりませんけれど、殿下のお力を信じておりますわ。殿下ほど素晴らしいお方なら、きっと何でもおできになりますもの」


「そうだろう?」


エドアルドは満足げに頷いた。


「ロザリア。君は公爵令嬢なのだから、男を立てるということを覚えたまえ。今後、私の政務に関わることを一切禁ずる。書類にも、外交にも、宮廷の運営にも口を出すな」


ロザリア・ヴァルハイトは、静かに瞬きをした。


十歳で王太子の婚約者に選ばれて以来、十年間。


朝から晩まで王宮に通い、膨大な政務を支えてきた。


王太子が理解できない報告書を読み解き、複雑な利害関係を調整し、各国との交渉をまとめてきた。


それらをすべて、やめてよいという。


「……確認させていただいてもよろしいでしょうか」


「何だ」


「殿下に関する政務の補佐、決裁書類の整理、外交日程の調整、各部署との連絡、予算の確認。そのすべてから手を引いてよろしいのですね?」


「何度も言わせるな。そう言っている」


「今後、私が王宮に登城しなくとも?」


「構わん。必要になればこちらから呼ぶ」


「必要になった際にも、殿下のお許しなく動くことは控えるべきでしょうか」


「当然だ。私の命令を待てばいい」


ロザリアは閉じた扇子を胸元に添えた。


「承知いたしました」


あまりにも穏やかな返答だったため、エドアルドは少し拍子抜けしたらしい。


「……随分と素直だな」


「殿下のご命令ですもの」


ロザリアは優雅に一礼した。


「これまでお世話になりました」


「大げさなことを言うな。少し頭を冷やせばいいだけだ」


「ええ。そうさせていただきます」


顔を上げたロザリアは、微笑んでいた。


エドアルドが婚約者の顔に、これほど晴れやかな笑みを見たのは初めてだったかもしれない。


もっとも、彼はその意味を考えようともしなかった。


「行っていいぞ」


「失礼いたします」


温室を出たロザリアは、廊下を曲がったところで立ち止まった。


誰もいないことを確かめる。


それから、そっと両手で頬を押さえた。


「……まあ」


胸の奥から、笑いがこみ上げてきた。


「まあ、まあ……!」


十年間。


一度も口にできなかった言葉が、ようやく形になった。


「明日は、朝寝坊ができますのね」


その声は、秋風に溶けるほど小さかった。


けれどロザリアにとって、それはどんな祝福の言葉よりも甘美だった。


第二章 九時半の朝食


目を覚ましたとき、窓の外はすっかり明るくなっていた。


ロザリアは枕元の時計を見た。


九時半。


「……九時半?」


思わず飛び起きかけた。


いつもなら、とっくに王宮の執務室にいる時間だ。


今日の会議資料は。昨日の決裁書類は。外交使節への返答は。


頭の中で仕事が次々と浮かび上がる。


けれど、ベッドから足を下ろしたところで、昨日起きたことを思い出した。


『君はもう何もしなくていい』


「……そうでしたわ」


ロザリアは、もう一度枕に頭を預けた。


天蓋の薄布が、朝の風に揺れている。


しばらくすると、廊下から足音が聞こえ、控えめなノックが響いた。


「お嬢様、お目覚めでしょうか」


「ええ、マーガレット」


侍女が扉を開ける。


「おはようございます。お加減はいかがですか?」


「とてもいいわ」


「それは何よりでございます。お食事はどうなさいますか?」


「……朝食は、まだいただけるかしら?」


マーガレットは一瞬きょとんとしたあと、ぱっと顔を輝かせた。


「もちろんでございます!」


ロザリアはゆっくりと身支度を整え、食堂へ向かった。


窓辺の席には、白いクロスが掛けられている。


運ばれてきたのは、焼きたてのパンと、ふわふわのオムレツ。蜂蜜を添えたヨーグルトに、秋の果物。


銀のポットから注がれる紅茶が、ほのかに湯気を立てていた。


ロザリアはナイフを手に取った。


パンをひと口。


「……あら」


「どうかなさいましたか?」


「このパン、こんなに美味しかったのね」


マーガレットが不思議そうに瞬いた。


「いつもお召し上がりになっているパンでございますよ?」


「ええ。そうね」


ロザリアは笑った。


いつもなら、書類に目を通しながら急いで口に運んでいた。


冷めないうちにオムレツを食べ終えたことなど、何年ぶりだろう。


「マーガレット。紅茶のおかわりをお願いできる?」


「はい、喜んで」


窓の外では、小鳥が鳴いていた。


ロザリアは二杯目の紅茶を受け取り、まだ温かいパンに蜂蜜を塗った。


食べ終えても、席を立つ必要はない。


そのことに気づいて、もう一杯だけ紅茶を頼んだ。


食後、庭を歩くことにした。


公爵邸の庭は、すっかり秋の装いになっている。


小径の脇にはコキアが丸く茂り、夏の緑を少しずつ脱ぎ始めていた。


枝先から赤く色づき始めた株は、まるで頬を染めているようだった。


「まあ……」


ロザリアは足を止めた。


「こんなに可愛らしくなっていたのね」


「毎年、この時期になりますと色づきますから」


マーガレットが答える。


「ええ、そうだったわね」


ロザリアはしゃがみ込み、ふわふわとした枝先にそっと触れた。


柔らかな葉が、指先をくすぐる。


その隣では、まだ緑のままの株が秋風に揺れていた。


「全部が同じ日に赤くなるわけではないのね」


「日当たりによっても違うようでございます」


「そうなの」


庭師が小径の向こうからやって来た。


「お嬢様、おはようございます」


「おはよう。コキアを見ていたの」


「今年は綺麗に色づきそうでございますよ」


庭師は嬉しそうに言った。


「ところでお嬢様、このコキアの仲間には、実を食べるために育てるものもあるんです」


「食べる?」


「ええ。食用のホウキギでございます。実を加工したものは、とんぶりと呼ばれておりまして」


「とんぶり……」


初めて聞く名前だった。


「小さな粒が、口の中でぷちぷちするんです。畑のキャビア、なんて呼ぶ人もおりますよ」


「まあ!」


ロザリアは目を輝かせた。


「このふわふわした草の仲間から、そんな食べ物ができるの?」


「はい。ただし、こちらは観賞用ですから、食用のものは別に育てる必要がございます」


「それなら、いつか食べてみたいわ」


「食材を扱う店に、加工済みのものがあるかもしれません」


ロザリアは立ち上がった。


「マーガレット。今度、街へ出たときに探してみましょう」


「かしこまりました」


十年間、毎朝この庭を通り抜けて王宮へ向かっていた。


けれど、コキアがいつ赤くなり始めるのかも、その仲間の実が食べられることも知らなかった。


ロザリアは、赤と緑が入り混じる庭をもう一度眺めた。


「明日も、見に来ましょうね」


「はい、お嬢様」


午後、ロザリアは父の書斎を訪ねた。


昨夜、エドアルドから命じられたことはすべて報告してある。


ヴァルハイト公爵は、娘の顔を見るなり目を細めた。


「今日はよく眠れたようだな」


「はい。九時半まで眠ってしまいました」


「それは結構」


父は笑った。


「私は陛下に事情を伝えておいた。お前の業務についても、王宮側で正式に引き継ぐことになる」


「ありがとうございます、お父様」


「ところで、ロザリア」


「はい」


「これから、どうしたい?」


その問いに、ロザリアは少し驚いた。


これまで、何をすべきかは幾度となく尋ねられた。


けれど、何をしたいかと聞かれたことは、ほとんどなかった。


「……図書館を」


彼女は微笑んだ。


「私の図書館を、開きたいのです」


父は娘の顔をじっと見つめた。


そして、深く息を吐いた。


「そうか」


それだけ言って、頷いた。


「ならば、好きにしなさい」


ロザリアは笑顔で頷いた。


「はい、お父様」


第三章 綿レースの朝


翌朝、ロザリアは衣装部屋の前で立ち止まっていた。


壁一面に並んでいるのは、王宮へ着ていくためのドレスばかりだった。


重たい絹。


金糸の刺繍。


宝石を縫い込んだ袖。


どれも立派で、美しい。


けれど、これから本棚を拭きに行くには、少々大げさだった。


「マーガレット。もっと気軽に着られる服はないかしら」


「ございますとも」


侍女は嬉しそうに奥の衣装箱を開いた。


「こちらはいかがでしょう。以前、お嬢様がお選びになったものです」


取り出されたのは、柔らかな生成り色のブラウスと、くすんだ青色のスカートだった。


ブラウスの襟元と袖口には、細い綿レースがあしらわれている。


派手ではない。


けれど、近づいて見ると、小さな花模様が丁寧に編み込まれていた。


「……これ、覚えているわ」


ロザリアはレースに指を滑らせた。


「街の仕立て屋で見つけたのよね」


「はい。お嬢様が『可愛らしい』と仰って」


「でも、王宮には地味すぎると言われてしまって」


「そのまま仕舞っておりました」


ロザリアはブラウスを胸元に当てた。


「今日は、これを着たいわ」


「かしこまりました」


柔らかなブラウスの上に、薄い灰青色のカーディガンを重ねる。


襟元と袖口から、綿レースがほんの少し覗いた。


スカートの裾は足首が見える長さで、歩きやすい。


髪はきつく結い上げず、後ろでゆるくまとめた。


仕上げに、小さな真珠の耳飾りをつける。


「……どうかしら」


鏡の前で尋ねると、マーガレットは目を細めた。


「とてもよくお似合いです」


「王宮へは着ていけないわね」


「そうでございますね」


「ふふ」


ロザリアは袖口を持ち上げた。


白いレースが、手首でふわりと揺れる。


「なら、図書館へ着ていくにはぴったりね」


屋敷を出る前に、もう一度庭を通った。


コキアは昨日より少しだけ赤くなったように見えた。


ロザリアはしゃがみ込んで眺め、それから立ち上がった。


「行ってきます」


誰にともなく告げる。


秋の風が、レースの袖口をそっと揺らした。


その頃、王宮では。


「書類がないぞ!」


王太子執務室に、エドアルドの怒声が響いていた。


いつもなら、机の上には整然と書類が並んでいる。


急ぎの案件は赤い紐。


確認が必要なものは青い紐。


署名するだけのものは白い紐。


それぞれに簡潔な要約が添えられ、判断に必要な情報が一目でわかるようになっていた。


ところが、今日は何もない。


正確には、書類はあった。


隣室の保管庫に、山のように。


「どうして誰も整理していない!」


エドアルドの怒鳴り声に、書記官たちが顔を見合わせた。


「その業務は、これまでロザリア様が……」


「ロザリアがいなければ何もできんのか!」


「申し訳ございません」


「持ってこい! 私が処理する!」


ほどなくして、机の上に書類が積み上げられた。


エドアルドは一番上の一枚を手に取った。


『第五次エーテル循環炉の励起効率低下に伴う換装費用の追加申請』


「…………」


読み直した。


「……励起?」


その下には、細かな数字が延々と並んでいる。


「なぜこんな難解なものを持ってくる!」


「魔導具開発局からの正式な申請書でございます」


「要約は!」


「ございません」


「ならば作れ!」


「担当者を呼びますので、少々お待ちを……」


「遅い!」


エドアルドは書類を放り投げた。


次の書類を開く。


今度は騎士団の装備更新計画。


その次は、南部街道の補修予算。


さらに、穀物備蓄の調整案。


どれも数字と専門用語ばかりだった。


「……こんなものを、ロザリアは毎日読んでいたのか?」


ぽつりと漏れた言葉は、誰の耳にも届かなかった。


そのとき、扉が勢いよく開いた。


「殿下! 帝国特使団がお待ちです!」


「特使団?」


「本日十時から、通商協定の最終確認が予定されております!」


エドアルドは眉をひそめた。


「そんな話は聞いていないぞ」


「先週、ロザリア様から日程表が提出されておりますが……」


「私は見ていない!」


「しかし、殿下の署名が……」


「ええい、後にしろ!」


書記官は青ざめた。


「ですが、先方はすでに応接室に……」


「適当に茶でも出しておけ!」


そう命じられた書記官は、震える足取りで退室した。


帝国の特使を「適当に」扱う。


それがどれほど危険なことか、エドアルドだけが理解していなかった。


同じ頃。


「お嬢様! そちらの棚は私が運びます!」


「大丈夫よ、ハンス。これくらいなら持てるわ」


「いけません! 公爵令嬢のお手を煩わせるなど!」


「今の私は、図書館の館長になる予定の女ですもの」


ロザリアは楽しげに笑った。


職人街の建物では、朝から準備が進んでいた。


老執事ハンスが手配した職人たちが書架を運び込み、侍女マーガレットが窓を磨いている。


ロザリア自身も、エプロン姿で棚を拭いていた。


建物は、数年前に彼女自身の資産で購入したものだった。


公爵家から受け取った成人祝いの資金を元手に、商会への投資を重ねて増やしたお金。


王家からの援助は、一銅貨も入っていない。


白い壁には蔦が絡まり、南向きの大きな窓からは柔らかな光が差し込んでいる。


「お嬢様、本当に楽しそうですね」


マーガレットが微笑む。


「ええ、とても」


「王宮にいらした頃は、いつもお疲れでしたから」


ロザリアは布巾を動かす手を止めた。


「……そう見えていた?」


「はい」


マーガレットは少し迷ってから、続けた。


「笑っていらしても、どこか苦しそうでした」


ロザリアは窓の外を見た。


通りを行くパン屋の少年が、大きな籠を抱えて走っていく。


向かいの靴屋からは、金槌の音が聞こえた。


「そうね」


彼女は小さく頷いた。


そして、ふと自分の袖口を見た。


綿レースの小さな花に、窓からの光が落ちている。


「……この服、着てきてよかったわ」


「はい?」


「何でもないの」


ロザリアは微笑み、また棚を拭き始めた。


第四章 畑のキャビアと二日目の混乱


その翌朝。


ロザリアはいつもより少し早く目を覚ました。


といっても、七時半だった。


王宮に通っていた頃なら、すでに二時間近く働いていた時間である。


食堂では、温かいスープと焼きたてのパンが待っていた。


「お嬢様、今日は街の食材店へ寄られますか?」


マーガレットが尋ねた。


「ええ。昨日のお話が気になっているの」


「とんぶり、でございますね」


「そう。どんな味がするのかしら」


マーガレットは笑った。


「私も存じません」


「では、一緒に食べてみましょう」


朝食を終えると、ロザリアは昨日のブラウスをもう一度手に取った。


今日は、薄い若草色のベストを重ねることにした。


襟元から綿レースが少しだけ見える。


鏡の前で首を傾げる。


「昨日とは、ちょっと違うわね」


「春のような色合いでございます」


「秋なのに?」


「秋の庭にも、まだ緑は残っておりますから」


「それもそうね」


ロザリアは笑った。


街の食材店では、店主が大きな瓶を見せてくれた。


中には、深い緑色の小さな粒がぎっしりと詰まっている。


「こちらが、とんぶりでございます」


「まあ。本当に小さな粒なのね」


「食用に育てたホウキギの実を、茹でて皮を取り除いたものです。味は淡泊ですが、歯触りが面白いんですよ」


ロザリアは瓶を覗き込んだ。


「畑のキャビア、というのは、この見た目から?」


「そうでございます。ほら、光に当てると綺麗でしょう」


粒が、瓶の中でつやつやと光っていた。


「ひと瓶いただくわ」


屋敷へ戻ると、料理長が小皿に盛ってくれた。


薄く切った胡瓜と柔らかな豆腐に、とんぶりを添え、香草と少しの塩で味を整える。


ロザリアは小さな匙で口に運んだ。


「……あら!」


マーガレットが身を乗り出した。


「いかがですか?」


「ぷちぷちするわ!」


「まあ!」


「噛むたびに、小さな粒が弾けるみたい」


ロザリアはもう一口食べた。


「不思議ね。強い味はしないのに、つい次を食べたくなるわ」


「私もいただいてよろしいでしょうか」


「もちろんよ」


マーガレットもひと口食べ、目を丸くした。


「……本当でございますね!」


二人は顔を見合わせて笑った。


「今度、図書館でも出してみたいわ」


「読書の合間の軽食に、でございますか?」


「ええ。小さなパンに添えたら可愛らしいでしょう?」


「それは素敵でございます」


ロザリアは窓の外を見た。


庭のコキアは、今日も少しずつ赤くなっている。


その頃、王宮では。


「ドレスが届きませんの!」


王太子執務室にミレーヌの悲鳴が響いていた。


「明日の前夜祭で着る予定でしたのよ! 最高級の絹を使った、あのドレスが!」


「仕立て屋に催促すればいいだろう」


「しましたわ! でも、生地が国境の関所で止まっているんですって!」


「なぜだ!」


「輸入税の免除申請が承認されていないそうです!」


エドアルドは机を叩いた。


「そんなもの、役人に処理させろ!」


「その役人が、殿下の決裁待ちだと言っているのです!」


ミレーヌの目に涙が浮かぶ。


「エドアルド様なら、何でもできるのでしょう?」


「もちろんだ!」


「では、何とかしてくださいませ!」


エドアルドは返事に詰まった。


机の上には、昨日から処理できていない書類が積み上がっている。


さらに今日の分も届いていた。


「……少し待て」


「いつまでですの?」


「待てと言っている!」


ミレーヌはびくりと肩を震わせた。


その様子に、エドアルドは苛立ちを募らせた。


どうして誰も、自分の言うことを聞かないのだ。


これまでは、すべてが滞りなく進んでいた。


署名をすれば書類は片づき、命じれば準備は整い、宴は華やかに催された。


それが王太子というものではなかったのか。


そこへ、財務卿が飛び込んできた。


「殿下! 近衛騎士団の予算承認がまだ下りておりません!」


「また書類か!」


「明日の建国記念前夜祭に向けた警備配置が決められないのです!」


「去年と同じでいいだろう!」


「昨年とは参加する外交使節の数が違います! 警備区域も変更されております!」


「では適当に増やせ!」


「兵員の増加には追加予算が必要です!」


「だから、私が承認すると言っている!」


エドアルドは書類をひったくり、決裁印を押した。


財務卿が顔色を変えた。


「殿下、こちらは昨年度の廃止済み事業です!」


「……何?」


「日付も内容も確認されていないのですか!」


「私に恥をかかせる気か!」


「国の財政を預かる者として、見過ごせません!」


財務卿は書類を抱え直した。


「これ以上、確認のない決裁を通すわけにはまいりません。陛下にご報告いたします」


「勝手にしろ!」


扉が閉まった。


エドアルドは荒い息をついた。


ミレーヌが、おずおずと声をかける。


「……あの、わたくしのドレスは?」


エドアルドは答えなかった。


その頃、ロザリアの図書館には、小さな来客があった。


「ねえ、お姉ちゃん!」


開け放した扉から、少年が顔を覗かせた。


「ここ、本屋さんになるの?」


「いいえ。図書館よ」


「としょかん?」


「本を借りたり、ここで読んだりできる場所なの」


「お金、いる?」


「読むだけなら、いらないわ」


少年は目を丸くした。


「ほんとに?」


「ええ、本当よ」


少年の後ろから、二人の子どもが顔を出した。


「ぼくも入っていい?」


「わたしも!」


「もちろん」


ロザリアは微笑んだ。


「ただし、まだ準備中だから、危ないところには近づかないでね」


子どもたちは嬉しそうに頷いた。


窓辺に置いた絨毯の上に座り、絵本を開く。


「これ、読んで!」


差し出されたのは、海を渡る冒険者の物語だった。


「いいわよ」


ロザリアは子どもたちの隣に腰を下ろした。


「それでは、昔々のお話です――」


読み聞かせを始めると、子どもたちはたちまち夢中になった。


大きな嵐の場面では息を呑み、主人公が宝物を見つける場面では歓声を上げた。


最後の頁を閉じると、少年が言った。


「お姉ちゃん、明日も来ていい?」


「……ええ」


ロザリアは微笑んだ。


「明日もいらっしゃい」


「やった!」


少年は飛び上がった。


その勢いで、ロザリアの袖口に触れた。


「あっ、ごめん!」


「大丈夫よ」


「そのひらひら、かわいいね」


少年が綿レースを指さす。


ロザリアは思わず笑った。


「ありがとう。私も気に入っているの」


第五章 何もしない三日目


三日目の朝。


王宮は、かつてない混乱に包まれていた。


建国記念前夜祭を翌日に控え、各部署から悲鳴のような報告が相次いでいた。


料理長は、食材の調達が間に合わないと訴えた。


楽団長は、正式な出演依頼が届いていないと抗議した。


警備責任者は、予算の承認が得られず、配置計画を確定できないと頭を抱えた。


帝国特使団は、二日間にわたる不手際に憤慨し、協議の一時中断を通告した。


そして昼過ぎ。


ついにエドアルドは、国王の前に呼び出された。


「エドアルド」


玉座から響いた声は、ひどく低かった。


「これはどういうことだ」


「父上、私にも事情が……」


「事情?」


国王は机上の報告書を持ち上げた。


「外交日程の放置。予算承認の遅延。誤った決裁。前夜祭の準備不足。これだけの問題が、わずか三日で発生したのだぞ」


「それは、役人どもの能力が低いからで……」


「役人たちは何度も確認を求めている!」


国王の怒声が響いた。


「お前がその報告を退け、書類を放置したのであろう!」


エドアルドは口を閉ざした。


王妃が静かに尋ねた。


「ロザリアさんに、政務への関与を禁じたそうですね」


「……はい」


「なぜです」


「彼女が出しゃばるからです! 私の仕事にいちいち口を出し、私の威厳を損なうような真似を……」


「エドアルド」


王妃の声が震えた。


「お前は、あの子が何をしていたのか、本当に知らなかったのですか」


「書類の整理くらいでしょう」


長い沈黙が落ちた。


国王は目を閉じた。


王妃は、息子から視線を逸らした。


やがて国王が言った。


「ロザリア嬢は、外交交渉の草案を作成し、各部署の予算を精査し、お前が決裁できるよう資料を整理していた」


「……それは」


「お前が成果として誇っていた政策の多くは、彼女の提案によるものだ」


「そんなはずは……」


「では聞こう」


国王は一枚の書類を差し出した。


「この通商協定の第三条を説明してみよ」


エドアルドは書類を見た。


何度も自分の名前を記したはずの協定書だった。


しかし、条文の意味がわからなかった。


「……それは」


「説明できぬのか」


「細かな内容までは……」


「細かな内容?」


国王は書類を机に置いた。


「その条項ひとつで、国境都市の商人たちの暮らしが変わるのだぞ」


エドアルドは唇を噛んだ。


「……ロザリアが悪いのです」


その言葉に、国王は顔を上げた。


「何?」


「彼女がすべて先回りしていたから、私は自分で考える必要がなかったのです!」


王妃の表情から、最後の期待が消えた。


「……そう」


小さな声だった。


「そこまで言うのですね」


国王はしばらく息子を見つめていた。


「エドアルド。王太子としての職務を、当面停止する」


「父上!?」


「すべての決裁権を宰相に移す。お前には、これまでの失策について説明責任を果たしてもらう」


「お待ちください!」


「さらに、ロザリア嬢との婚約についても見直す」


「そんな!」


エドアルドの顔が青ざめた。


王太子の職務を停止される。


婚約を見直される。


その言葉が、ようやく現実味を帯びて迫ってきた。


「ロザリアを呼び戻します!」


彼は叫んだ。


「彼女さえ戻れば、すべて元通りになります!」


国王は答えなかった。


その沈黙を、エドアルドは許可と受け取った。


第六章 図書館の客人


その日の午後。


ロザリアは、新しく届いた本を棚に並べていた。


「これは歴史書、こちらは旅行記……あら?」


扉の鈴が鳴った。


「ごきげんよう、ロザリア嬢」


振り返った彼女は、目を見開いた。


「ユリシーズ殿下?」


そこに立っていたのは、ルミナス帝国の皇太子、ユリシーズだった。


黒髪に澄んだ青い瞳。


濃紺の外套をまとった長身の青年は、どこか楽しげに微笑んでいた。


「突然訪ねてしまってすまない」


「いいえ。ですが、なぜこちらへ?」


「君が図書館を開くと聞いてね」


彼は従者に合図した。


運び込まれた木箱の中には、美しい装丁の本が並んでいた。


「帝国の童話や旅行記だ。こちらでは手に入りにくいものを選んだ」


「まあ……!」


ロザリアは思わず本に手を伸ばした。


「こちらは『星を追う旅人』の初版本ではありませんか!」


「よく知っているね」


「子どもの頃、大好きだった物語です。ですが、帝国語の原書は読んだことがなくて……」


「ならば、ちょうどよかった」


ユリシーズは微笑んだ。


「君に読んでもらえれば、本も喜ぶだろう」


ロザリアは本を胸に抱いた。


「ありがとうございます。大切にいたします」


ユリシーズとは、以前から外交の席で顔を合わせていた。


最初の交渉では、彼はほとんど笑わなかった。


けれど、休憩中にロザリアが読んでいた本を見て、突然話しかけてきたのだ。


『その本を読んでいるのか』


『はい。帝国の歴史について、もっと学びたいと思いまして』


『……その著者は少々偏っている。別の本も紹介しよう』


それが、二人の最初の個人的な会話だった。


以来、交渉の合間には本の話をするようになった。


政治の話では決して妥協しない二人だったが、文学について語るときだけは、不思議と気が合った。


「ところで」


ユリシーズが室内を見回した。


「随分と素敵な場所だね」


「まだ準備中ですけれど」


「君らしい図書館だ」


「私らしい、ですか?」


「ああ」


彼は窓辺の小さな椅子に目を留めた。


「誰もが安心して座れる場所を、君は作ろうとしている」


ロザリアは少し驚いた。


「……わかりますか?」


「君はいつも、誰かが困らないように考えていたからね」


ユリシーズは静かに続けた。


「ただ、ここでは君自身も、安心して座ってほしい」


ロザリアは何も言えなかった。


彼の視線が、ふと彼女の袖口に落ちた。


「その服も、よく似合っている」


「……まあ」


ロザリアは思わず手首を見た。


綿レースの小さな花模様が、柔らかな光を受けている。


「ありがとうございます。今日は、少しだけおしゃれをしてきましたの」


「少しだけ?」


「ええ。図書館へ来るだけですから」


「だからこそ、だろう?」


ユリシーズは微笑んだ。


「好きな場所へ行くために、好きな服を選ぶ。素敵なことじゃないか」


ロザリアは袖口をそっと整えた。


「……そうですわね」


そのとき。


外から、激しい蹄の音が聞こえてきた。


第七章 戻りません


「ロザリア!」


扉が乱暴に開かれた。


エドアルドだった。


髪は乱れ、上着の襟は曲がっている。


その後ろには、困惑した近衛兵が数名立っていた。


「ここにいたのか!」


ロザリアは本を棚に戻した。


「ごきげんよう、エドアルド殿下」


「ごきげんよう、ではない!」


彼は室内を見回した。


「何だ、この場所は!」


「図書館でございます」


「そんなことは見ればわかる! なぜ君がこんなところで本を並べているんだ!」


ロザリアは不思議そうに首を傾げた。


「殿下が、何もしなくてよいと仰いましたので」


「だからといって、本当に王宮へ来なくなるとは思わなかった!」


「政務への関与を一切禁じる、とも仰いました」


「それは……!」


エドアルドは言葉を詰まらせた。


「言葉のあやだ!」


「まあ」


ロザリアは困ったように微笑んだ。


「王太子殿下のご命令を、私の勝手な解釈で曲げるわけにはまいりませんもの」


「屁理屈を言うな!」


エドアルドは机を叩いた。


「王宮が大変なことになっているんだぞ! 書類は山積み、外交交渉は中断、前夜祭の準備も進んでいない!」


「それは大変でございますね」


「君のせいだ!」


ロザリアは静かに彼を見つめた。


「……私の、ですか?」


「君が勝手に仕事を放り出したからだ!」


「殿下」


ロザリアの声は、穏やかだった。


「私は、命じられたとおりにいたしました」


「だから、それは……!」


「それに」


彼女は少しだけ目を伏せた。


「私がいなくなっただけで立ち行かなくなるのでしたら、もともと問題があったのではありませんか?」


エドアルドの顔が赤くなった。


「私を愚弄するのか!」


「いいえ。ただ、事実を申し上げております」


「戻れ!」


彼は手を伸ばした。


「今すぐ王宮に戻って、すべて元通りにしろ!」


その手がロザリアに触れる寸前。


「そこまでにしていただこう」


低い声が響いた。


エドアルドが振り向く。


ユリシーズが、二人の間に立っていた。


「……ユリシーズ皇太子殿下?」


「久しいな、エドアルド殿」


「なぜ、あなたがここに……」


「本を届けに来た」


ユリシーズは簡潔に答えた。


「それより、随分と騒がしい。ここは王宮の執務室ではないのだが」


「これは我が国の問題です!」


「その問題には、我が帝国との通商協定も含まれている」


エドアルドは黙った。


ユリシーズは続けた。


「私は今回の交渉について、君の国王陛下と直接協議することにした」


「……何?」


「ロザリア嬢がいなくなった途端、交渉が進まなくなった。その理由を確かめる必要がある」


「それは、彼女が……」


「彼女のせいではない」


ユリシーズの声が鋭くなった。


「交渉の責任者が、自分の署名した協定の内容を理解していなかった。それが問題なのだ」


エドアルドは唇を震わせた。


「……ロザリア」


今度は、先ほどまでとは違う声だった。


「頼む。戻ってくれ」


ロザリアは答えなかった。


「君が必要なんだ」


エドアルドは一歩近づいた。


「私が悪かった。君の仕事を軽く見ていたことは認める。ミレーヌとのことも、君が望むなら……」


「殿下」


ロザリアは静かに遮った。


「私が欲しかったのは、そのようなお言葉ではございません」


「では、何が欲しい?」


ロザリアは窓辺に目を向けた。


陽光が、並べたばかりの本の背表紙を照らしている。


昨日訪れた子どもたちが、通りの向こうから手を振っていた。


ロザリアは、そっと微笑んだ。


「以前の私でしたら、きっと答えられなかったと思います」


「ロザリア……」


「ですが、今はわかります」


彼女はエドアルドを見た。


「自分で朝を迎えて、自分で一日の過ごし方を決めること。好きな本を読み、好きな人たちと話し、疲れたら休むこと」


エドアルドは眉をひそめた。


「……そんなことが?」


「ええ」


ロザリアは頷いた。


「それから、今日はどんな服を着ようかと考えることも」


彼女は綿レースの袖口をそっと直した。


「私は、ここにいたいのです」


エドアルドは呆然とした。


「……王妃になれるんだぞ」


「はい」


「この国で、最も高貴な女性になれるんだ!」


「存じております」


「それなのに、こんな小さな図書館を選ぶのか!」


ロザリアは微笑んだ。


「ええ」


迷いのない返事だった。


「私は、こちらが好きですから」


エドアルドは何か言おうとした。


けれど、言葉が出てこなかった。


そのとき、外に馬車が止まった。


公爵家の紋章を掲げた馬車だった。


第八章 婚約の終わり


「ロザリア」


馬車から降りてきたのは、ヴァルハイト公爵だった。


その隣には、王国の筆頭宰相が立っている。


「お父様?」


公爵は娘に頷き、エドアルドへ向き直った。


「殿下。国王陛下より、正式なご裁可が下りました」


「……何の話だ」


宰相が封書を開いた。


「王太子エドアルド殿下の職務停止、ならびに継承権の審査開始についての勅命です」


エドアルドの顔から血の気が引いた。


「そんな……!」


「また、ヴァルハイト公爵家より提出された婚約解消の申し立てについて、陛下はこれを認められました」


「婚約……解消?」


「はい」


宰相は淡々と続けた。


「正式な手続きは追って行われますが、両家の婚約関係は本日をもって解消されます」


エドアルドはロザリアを見た。


「……君が、望んだのか」


ロザリアは頷いた。


「はい」


「なぜ……」


その声は、ひどく小さかった。


ロザリアは少し考えた。


怒りをぶつけることもできた。


十年間の苦労を並べ立てることもできた。


けれど、もうその必要はないように思えた。


「殿下」


彼女は静かに言った。


「どうか、これからはご自身のお仕事を、ご自身でなさってくださいませ」


それが、最後の言葉だった。


エドアルドは俯いた。


近衛兵に促され、馬車へ向かう。


振り返ることはなかった。


やがて蹄の音が遠ざかっていった。


ロザリアは、長く息を吐いた。


「……終わりましたのね」


「そうだな」


父が答えた。


「長い間、苦労をかけた」


ロザリアは首を横に振った。


「お父様」


「何だ?」


「今度、図書館へ本を読みにいらしてくださいませ」


公爵は目を丸くした。


それから、静かに笑った。


「ああ。ぜひ、そうしよう」


第九章 木漏れ日の下で


それから数日後。


職人街の一角に、小さな看板が掲げられた。


『木漏れ日図書館』


開館の日。


ロザリアは、朝から少し緊張していた。


「お嬢様、もう何度も看板を確認されていますよ」


マーガレットが笑う。


「だって、文字が曲がっていないかしらと思って」


「曲がっておりません」


「入口の花は?」


「綺麗に飾ってあります」


「紅茶は?」


「たっぷり用意してございます」


ロザリアは胸に手を当てた。


「……そう」


王宮で大きな式典を取り仕切ったときでさえ、これほど緊張したことはなかった。


けれど、それは嫌な緊張ではなかった。


「それから、お嬢様」


マーガレットが小さな鉢を差し出した。


「こちらも飾りましょう」


丸く茂った、小さなコキアだった。


枝先が、ほんのり赤く色づいている。


「まあ!」


ロザリアは嬉しそうに鉢を受け取った。


「お庭のもの?」


「庭師が、図書館に合うように育てた鉢でございます」


「可愛らしいわ」


窓辺に置くと、秋の陽射しが柔らかな葉を透かした。


緑と赤が入り混じる姿は、公爵邸の庭で見たものとそっくりだった。


「ここに置きましょう」


ロザリアは鉢の向きを少し変えた。


「……これで、準備ができたわ」


今日の服は、生成り色のブラウスに、落ち着いた葡萄色のスカート。


その上から、柔らかな薄茶色のカーディガンを重ねていた。


襟元と袖口からは、いつもの綿レースがほんの少し覗いている。


「その組み合わせも、素敵でございますね」


マーガレットが言った。


「ありがとう」


ロザリアは袖口を整えた。


「このレース、すっかり好きになってしまったわ」


「では、また仕立て屋に参りましょう」


「ええ。今度は、違う模様のものも見てみたいわ」


そのとき、外から元気な声がした。


「お姉ちゃん!」


扉の向こうには、先日読み聞かせをした少年が立っていた。


「今日から入っていいんだよね!」


「ええ。もちろんよ」


「友達も連れてきた!」


少年の後ろには、何人もの子どもたちがいた。


さらに、買い物帰りの女性や、仕事の合間に立ち寄った職人たちも集まっている。


ロザリアは扉を大きく開けた。


「ようこそ、木漏れ日図書館へ」


子どもたちが歓声を上げて駆け込んでくる。


書架の間に、楽しげな声が響いた。


窓辺では、年配の男性がゆっくりと本を開いている。


母親に連れられた小さな女の子が、絵本の表紙を指さして笑っていた。


「お姉ちゃん、これ読んで!」


「ええ、少し待ってね」


「ねえ、この草、赤くなるの?」


別の子が窓辺の鉢を指さした。


「そうよ。もう少し秋が深まったら、もっと赤くなるの」


「ほんと?」


「ええ。一緒に見ていきましょうね」


「うん!」


そのとき、入口の鈴が鳴った。


「こんにちは、館長殿」


顔を上げると、ユリシーズが立っていた。


「まあ、殿下」


「今日は一人の客として来た。席は空いているだろうか」


「もちろんですわ」


ロザリアは微笑んだ。


「ただし、当館では身分による特別扱いはございません」


「それは困ったな」


ユリシーズは大真面目な顔をした。


「では、皇太子でも本を借りるには利用登録が必要なのか?」


「ええ。お名前とご連絡先をお願いいたします」


「帝国の皇宮でも?」


「もちろん」


ユリシーズは小さく笑った。


「厳格な館長だ」


「規則ですもの」


二人は顔を見合わせ、笑った。


「ところで、ロザリア」


ユリシーズは少し声を落とした。


「帝国から、新しい本が届いた」


「まあ、またですか?」


「迷惑だったかな」


「いいえ、とても嬉しいです」


「なら、よかった」


彼は窓辺の席に目を向けた。


「……今度、私にもおすすめの本を選んでくれないだろうか」


「ユリシーズ様に?」


「ああ。君の好きな物語を読んでみたい」


ロザリアは少し考えた。


それから、一冊の本を棚から取り出した。


「では、こちらを」


「どんな話だい?」


「旅人が、長い旅の果てに、自分の帰る場所を見つけるお話です」


ユリシーズは表紙を見つめた。


「……なるほど」


本を受け取ると、穏やかに微笑んだ。


「楽しみに読ませてもらうよ」


ロザリアは窓辺の席を示した。


「どうぞ、こちらへ」


「君は?」


「私は、まだ少しお仕事がございますので」


「そうか」


ユリシーズは椅子に腰を下ろした。


「では、終わるまで待っていよう」


「お待たせしてしまうかもしれませんわ」


「構わない」


彼は本を開いた。


「ここは、待つ時間さえ楽しそうだからね」


昼下がり。


窓から差し込む光が、床に柔らかな模様を描いていた。


子どもたちは絨毯の上で絵本を広げ、職人たちは休憩を終えて仕事場へ戻っていく。


マーガレットが、小さな皿を運んできた。


「お嬢様、こちらもご用意できました」


小さく切ったパンの上に、白い柔らかなチーズと、つやつやした緑の粒が載っている。


「まあ、とんぶりね!」


「はい。料理長が、図書館で食べやすいようにと」


ロザリアは一つ手に取った。


「ユリシーズ様も、いかがですか?」


「これは?」


「畑のキャビアと呼ばれる食べ物ですの」


「畑のキャビア?」


「ええ。食用のホウキギの実から作るそうです」


ユリシーズは興味深そうに眺めた。


「君は本だけでなく、食べ物にも詳しいんだね」


「いいえ。つい先日、初めて知ったばかりです」


ロザリアは笑った。


「食べてみてくださいな。ぷちぷちするんです」


ユリシーズはひと口食べた。


少し驚いた顔をしたあと、ゆっくりと頷いた。


「……本当だ」


「でしょう?」


「これは面白い」


ロザリアは嬉しくなって、自分もひと口食べた。


窓辺のコキアが、風に揺れている。


「この草の仲間の実なのですよ」


彼女が鉢を指さすと、ユリシーズは目を細めた。


「なるほど。見た目だけではわからないものだね」


「ええ」


ロザリアは頷いた。


「知らないことが、まだたくさんありますわ」


「それは楽しみだ」


ユリシーズは本を開き直した。


「君なら、これからいくつも見つけそうだ」


ロザリアは返事の代わりに微笑んだ。


受付から、少年の声がした。


「お姉ちゃん! この本、借りてもいい?」


「もちろんよ」


ロザリアは立ち上がった。


カーディガンの袖口から、白い綿レースがふわりと覗く。


「お名前を教えてくれる?」


少年は胸を張った。


「トム!」


「はい、トム。大切に読んでね」


「うん!」


本を抱えた少年が、嬉しそうに駆けていく。


その背中を見送っていると、また扉の鈴が鳴った。


ロザリアは新しい貸出帳を開いた。


窓辺では、ユリシーズが頁をめくっている。


小さなコキアの枝先は、陽の光を受けて赤く透けていた。


「いらっしゃいませ」


ロザリアは顔を上げた。


「今日は、どんな本をお探しですか?」


――完――



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― 新着の感想 ―
婚約者の言葉を文字どおり受け取り、何もしないことを選んだロザリアの行動が面白かったです。王宮が崩壊する一方で、彼女が自分の居場所を築いていく展開も楽しめました。 ただ、結末はやや説明が多く感じました。…
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