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「この病院では、正気が壊れる」 第9話 ——こちら側の人間

その夜。



一睡もできなかった。



目を閉じるたびに、


あの光景が蘇る。



押さえつけられる身体。


刺さる針。



そして——


静かになる“人間”。




臭いが、消えない。



病院の外でも。



家でも。



鼻の奥に、残り続けている。




「……おかしい」



もう、誤魔化せなかった。




翌日。



病棟に入る。



臭いは、すぐに強くなった。




——近すぎる。




ナースステーション。



誰もいない時間帯。




「……来ると思ってたよ」




声。




振り向く。




橘だった。




いつもの穏やかな表情。




だが、どこか違う。




「顔に出てる」




軽く笑う。




「“見ちゃった人”の顔」




心臓が跳ねる。




「……何のことですか」




橘は答えない。




ただ、こちらを見ている。




「来なよ」




そう言って、歩き出す。




ついていく。




向かった先は、


例の資料室だった。




扉が閉まる。




その瞬間。




臭いが、強くなる。




だが今回は、


逃げたいとは思わなかった。




「……何なんですか、これ」




初めて、自分から聞いた。




橘は、少しだけ考えるようにしてから言った。




「どこまで気づいてる?」




試すような目。




「……同じことが、繰り返されてる」




「鎮静」




「記録には残らない何か」




言葉を選びながら、続ける。




「……それと」




「この臭い」




橘は、ゆっくり頷いた。




「いい線いってる」




そして、


静かに言った。




「それ、“現象”じゃないよ」




背筋が凍る。




「……じゃあ、何なんですか」




橘は、少しだけ笑った。




「“残り方”だよ」




意味が分からない。




「人ってさ」




「強いストレスとか、恐怖とか」




「そういうのを受けると、“痕”が残るんだよ」




「場所に」




言葉が、重く落ちる。




「……痕?」




「そう」




「ここで繰り返されてきたこと」




「押さえつけて、薬で抑えて」




「なかったことにする」




「その“ズレ”が、残る」




理解が追いつかない。




「……そんなの」




「ありえない、って思う?」




橘は、こちらを見る。




「じゃあ逆に聞くけど」




「君は、何でそれを感じてると思う?」




言葉が詰まる。




確かに。




なぜ、自分だけが。




「……壊れかけてるから?」




思わず、口に出ていた。




橘は、笑った。




「正解に近い」




その言葉が、怖かった。




「完全に正常な人間はね」




「気づかない」




「処理できるから」




「でも」




「処理しきれない人間は、感じる」




「ズレを」




そのとき。




臭いが、一気に強くなる。




今までで、最大。




頭が、軋む。




視界が、歪む。




そして——




見える。




処置室。




何人もの人間。




押さえつけられる患者。




叫び声。




針。




そして——




動かなくなる。




繰り返し。



繰り返し。



繰り返し。




「……やめろ……」




思わず、声が漏れる。




「見えてるね」




橘の声。




「それが、この場所に残ってるものだよ」




呼吸が荒い。




「……これが」




「現実ですか」




橘は、少しだけ考えてから言った。




「現実じゃない」




「でも、嘘でもない」




その言葉が、すべてを曖昧にする。




「……じゃあ、何なんですか」




橘は、静かに答えた。




「この病院の、“本当の姿”だよ」




沈黙。




頭が、追いつかない。




「……じゃあ」




絞り出すように言う。




「叔母も……」




橘は、答えなかった。




だが。




その沈黙が、


すべてを物語っていた。




「……どうする?」




橘が、静かに聞く。




「知ったままにするか」




「それとも——」




「“こっち側”に来るか」




その言葉が、


決定的だった。




理解する。




——戻れない。




もう、


元の自分には戻れない。




「……僕は」




言葉が震える。




それでも。




「知りたいです」




初めて、


はっきり言った。




橘は、少しだけ笑った。




「いいね」




「じゃあ、教えてあげる」




その瞬間。




臭いが、完全に“馴染んだ”。




違和感が、


消えた。




——それが、


一番恐ろしかった。




——僕はもう、“こちら側の人間”になりかけている。



最後まで読んでいただきありがとうございます。


違和感は、気づいたときには

もう戻れないところまで進んでいることがあります。


ここから先、

それまで見えていたものが変わっていきます。


もし感じたことがあれば、

一言でも感想をいただけると嬉しいです。


X「こころの余白|無理しない人間関係」で発信しています


https://x.com/yohakumaind/

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