「この病院では、正気が壊れる」 第8話 ——踏み込んだ先
その夜。
⸻
眠れなかった。
⸻
臭いが、消えない。
⸻
病院を出ても、
鼻の奥に残り続けている。
⸻
——近い。
⸻
何かに、
近づきすぎている。
⸻
⸻
翌日。
⸻
病棟に入った瞬間、
臭いが強くなった。
⸻
昨日までとは違う。
⸻
濃度が、違う。
⸻
⸻
ナースステーション。
⸻
黒田がいる。
⸻
その姿を見た瞬間、
確信した。
⸻
——聞くなら、今だ。
⸻
⸻
「……黒田さん」
⸻
⸻
「何だ」
⸻
⸻
「少し、いいですか」
⸻
⸻
沈黙。
⸻
⸻
「……来い」
⸻
⸻
案内されたのは、
見慣れない扉だった。
⸻
⸻
重い扉。
⸻
⸻
黒田が無言で開ける。
⸻
⸻
その瞬間。
⸻
⸻
臭いが、“変わった”。
⸻
⸻
いや——
⸻
⸻
“濃くなった”。
⸻
⸻
思わず、息が止まる。
⸻
⸻
獣のような臭い。
⸻
湿った空気。
⸻
そして——
⸻
逃げ場のない、こもった異臭。
⸻
⸻
「……っ」
⸻
⸻
「初めてか」
⸻
⸻
黒田が言う。
⸻
⸻
言葉が出ない。
⸻
⸻
「ここは保護室だ」
⸻
⸻
淡々とした声。
⸻
⸻
並ぶ扉。
⸻
⸻
小さな窓。
⸻
⸻
中を、覗く。
⸻
⸻
狭い空間だった。
⸻
⸻
最低限の設備しかない。
⸻
⸻
床は簡素で、
生活のためのものが、わずかにあるだけだった。
⸻
⸻
排泄のための場所も、
簡単に区切られているだけだった。
⸻
⸻
——ここで過ごす。
⸻
⸻
その現実が、
じわじわと理解できてしまう。
⸻
⸻
「……ここで生活してるんですか」
⸻
⸻
「そうだ」
⸻
⸻
あまりにも、あっさりした答え。
⸻
⸻
そのとき。
⸻
⸻
奥から、
鈍い音が響いた。
⸻
⸻
——ゴン。
⸻
⸻
何かを叩く音。
⸻
⸻
空間全体に、反響する。
⸻
⸻
「……誰ですか」
⸻
⸻
黒田は、少しだけ間を置いて言った。
⸻
⸻
「長いこと、ここにいるやつだ」
⸻
⸻
「……どんな人なんですか」
⸻
⸻
「問題を起こした」
⸻
⸻
短い答え。
⸻
⸻
「危険な部類だ」
⸻
⸻
それ以上は言わない。
⸻
⸻
そのとき。
⸻
⸻
臭いが、
一気に強くなる。
⸻
⸻
頭が、軋む。
⸻
⸻
視界が、歪む。
⸻
⸻
その一瞬。
⸻
⸻
——見える。
⸻
⸻
同じ空間。
⸻
⸻
別の人間。
⸻
⸻
押さえつけられている。
⸻
⸻
叫び。
⸻
⸻
そして——
⸻
⸻
静止。
⸻
⸻
繰り返し。
⸻
繰り返し。
⸻
繰り返し。
⸻
⸻
「……っ!!」
⸻
⸻
現実に戻る。
⸻
⸻
呼吸が荒い。
⸻
⸻
そのとき。
⸻
⸻
「……お前」
⸻
⸻
声。
⸻
⸻
奥の扉の向こう。
⸻
⸻
人影。
⸻
⸻
「見えてるな」
⸻
⸻
心臓が跳ねる。
⸻
⸻
「……何が」
⸻
⸻
声が震える。
⸻
⸻
沈黙。
⸻
⸻
そして。
⸻
⸻
「同じだ」
⸻
⸻
低い声。
⸻
⸻
「お前も」
⸻
⸻
「ここに来る」
⸻
⸻
意味が分からない。
⸻
⸻
だが——
⸻
⸻
理解したくなかった。
⸻
⸻
「……何を言ってるんですか」
⸻
⸻
影は、わずかに動く。
⸻
⸻
こちらを見ている。
⸻
⸻
「順番だ」
⸻
⸻
その言葉が、
異様に重く響く。
⸻
⸻
「ここに来るやつは、みんな同じだ」
⸻
⸻
「最初は“見る側”」
⸻
⸻
「次は——」
⸻
⸻
「“やる側”になる」
⸻
⸻
息が止まる。
⸻
⸻
そのとき。
⸻
⸻
黒田が一歩前に出る。
⸻
⸻
「喋りすぎだ」
⸻
⸻
冷たい声。
⸻
⸻
沈黙。
⸻
⸻
それ以上、声はしなかった。
⸻
⸻
「……行くぞ」
⸻
⸻
黒田が言う。
⸻
⸻
振り返る。
⸻
⸻
もう一度だけ、
奥を見る。
⸻
⸻
そこには、
ただ“影”があった。
⸻
⸻
扉を出る。
⸻
⸻
臭いが、わずかに薄れる。
⸻
⸻
だが、
消えない。
⸻
⸻
「……どう思った」
⸻
⸻
黒田が聞く。
⸻
⸻
答えられない。
⸻
⸻
ただ一つだけ、
はっきりしたことがある。
⸻
⸻
——この場所は、“終点”じゃない。
⸻
⸻
——“途中”だ。
⸻
⸻
そして。
⸻
⸻
——自分も、その流れの中にいる。
⸻
⸻
最後まで読んでいただきありがとうございます。
違和感は、最初はほんの小さなものです。
ですが、それを見過ごしたときに
何が起きるのかは、誰にもわかりません。
ここから先、少しずつ状況が変わっていきます。
もし感じたことがあれば、
一言でも感想をいただけると嬉しいです。
X「こころの余白|無理しない 人間関係」で発信しています
https://x.com/yohakumaind/




