「この病院では、正気が壊れる」 第7話 ——残された記録
その日も、眠れなかった。
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臭いが、残っている。
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病棟を出ても、
家に帰っても、
鼻の奥に、あの感覚が残り続けていた。
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「……おかしい」
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思わず呟く。
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ここに来る前は、
こんなことはなかった。
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翌日。
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病棟に入る。
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臭いは、やはりあった。
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だがそれ以上に、
“確信”のようなものがあった。
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——これは、気のせいじゃない。
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午前。
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ナースステーション。
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「神谷くん」
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白石だった。
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「少し、手伝ってもらっていい?」
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「……はい」
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「古い記録、整理したいの」
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古い記録。
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その言葉に、心臓がわずかに強く打った。
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案内されたのは、
普段使われていない資料室だった。
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埃っぽい空気。
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紙の匂い。
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そして——
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あの臭い。
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「……っ」
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思わず顔をしかめる。
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「どうしたの?」
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白石が不思議そうに見る。
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「……いえ」
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やはり、気づいていない。
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棚には、古いカルテが並んでいた。
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紙の束。
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年月を感じさせる色。
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「この辺り、昔の分だから」
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白石が指差す。
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「必要なやつだけ抜き出してくれればいいよ」
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一人になる。
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静かだ。
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ページをめくる。
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症例。
診断。
処置。
経過。
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どれも同じような構成。
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“正常に処理された記録”。
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その中で。
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指が、止まった。
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一つのカルテ。
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日付。
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二十年前。
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心臓が、強く打つ。
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名前。
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——見覚えがあった。
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母から聞いた名前。
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叔母。
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手が、震える。
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ページをめくる。
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【入院理由:幻覚・妄想・興奮状態】
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同じだ。
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あの話と。
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経過を追う。
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【夜間:興奮あり。鎮静施行】
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【数日後:症状変動あり。処置継続】
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【経過:安定傾向】
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そして。
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最後の記録。
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【急変。心停止。蘇生処置も反応なし】
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それだけだった。
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——短すぎる。
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あまりにも。
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「……これで、終わり?」
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思わず、声が漏れる。
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そのとき。
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臭いが、一気に強くなる。
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今までで、一番。
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頭が、ぐらつく。
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視界が、揺れる。
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その瞬間。
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——見えた気がした。
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庭。
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夜。
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誰かが、立っている。
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空に向かって、頭を下げる。
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そして——
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踊る。
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「……っ!!」
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現実に引き戻される。
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息が荒い。
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「……今のは」
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分からない。
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ただ一つ、分かる。
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——これは、記憶じゃない。
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そのとき。
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「何見てるの?」
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声。
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振り返る。
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橘だった。
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いつの間にか、後ろに立っていた。
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「……古い記録です」
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そう答えると、
橘はゆっくり近づいてくる。
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カルテを覗き込む。
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「……ああ」
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小さく、呟く。
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「懐かしいね」
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その言葉に、違和感が走る。
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「……知ってるんですか」
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橘は、少しだけ笑った。
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「ここ、長いから」
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曖昧な答え。
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「どう思う?」
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突然、聞かれる。
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「この記録」
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言葉に詰まる。
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「……足りない、と思います」
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橘は頷いた。
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「いいね」
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「気づけるのは大事だよ」
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そして、
少しだけ声を落とす。
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「でもね」
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「記録って、“残すためのもの”じゃないんだ」
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「“整えるためのもの”なんだよ」
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背筋が冷たくなる。
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「……整える?」
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橘は、微笑んだ。
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「矛盾を、消すためにね」
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その言葉が、重く落ちる。
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「じゃあ、現実は?」
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気づけば、聞いていた。
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橘は、一瞬だけ考えてから答えた。
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「残らない」
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静かな声だった。
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そのとき。
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臭いが、さらに強くなる。
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視界が、また歪む。
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橘が、じっとこちらを見る。
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「……見えた?」
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心臓が止まりそうになる。
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「……何がですか」
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橘は、少しだけ笑った。
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「いいよ」
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「無理に言わなくて」
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その言い方が、
すべてを分かっているようで、
恐ろしかった。
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——この病院では、
過去も“整えられる”。
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そして。
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——見えてはいけないものが、ある。
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最後まで読んでいただきありがとうございます。
「距離」が少し崩れるだけで、
見えていたものは簡単に変わってしまいます。
この先も、少しずつ違和感が重なっていきます。
もし感じたことがあれば、
一言でも感想をいただけると嬉しいです。
X「こころの余白|無理しない 人間関係」
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