「この病院では、正気が壊れる」第6話 ——記録の中の正しさ
※本作は実体験や取材をもとに再構成したフィクションです。
読後に少しでも「考えるきっかけ」になれば幸いです。
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その日の夜も、眠れなかった。
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目を閉じると、
一ノ瀬の顔が浮かぶ。
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動かない身体。
わずかに動いた指。
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そして——
“まだ意識がある”という、あの感覚。
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——あれは、本当に適切だったのか。
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答えは出ない。
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翌朝。
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病棟に入る。
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臭いは、すぐに来た。
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昨日よりも、さらに濃い。
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逃げ場がない。
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「顔、死んでるぞ」
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荒木だった。
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「……寝てません」
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「だろうな」
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それ以上は言わない。
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ただ、少しだけ視線を外して言った。
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「無理すんなよ」
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意外だった。
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午前。
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ナースステーション。
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「一ノ瀬さん、今朝はどう?」
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「落ち着いてます」
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「興奮なし?」
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「はい。問題ありません」
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その会話を聞いた瞬間、
違和感が走る。
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“問題ない”。
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昨日の状態で?
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「記録、入力しといて」
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「はい」
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画面を見る。
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一ノ瀬 蓮。
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昨夜の経過。
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【夜間:興奮状態あり。指示により
セレネース1A・アキネトン1A混筋注施行。
以後、安静。問題行動なし】
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指が止まる。
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——あれだけのことが、
たった数行で終わっている。
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まるで、
“処理が完了しました”とでも言うみたいに。
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——違う。
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何かが、違う。
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「どうした」
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黒田だった。
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「……いえ」
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画面から目を逸らす。
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「見てたろ」
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低い声。
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「……何をですか」
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黒田は、少しだけ笑った。
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「記録だよ」
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逃げられない。
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「何か違うって顔してるな」
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図星だった。
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「……昨日の状態、あれでいいんですか」
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言ってしまった。
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沈黙。
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黒田は、ゆっくりと椅子に腰掛ける。
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「じゃあ聞くけど」
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こちらを見る。
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「何て書く?」
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言葉に詰まる。
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「“過剰鎮静の疑いあり”って書くか?」
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何も言えない。
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「“意識レベル低下あり”って書くか?」
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その通りだった。
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「書いたらどうなる」
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「……問題になります」
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「そういうことだ」
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黒田は、あっさり言った。
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「現場はな、問題を増やす場所じゃねえ」
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「処理する場所だ」
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その言葉が、重く落ちる。
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「でも」
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気づけば、口が動いていた。
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「それって……」
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黒田は、遮るように言った。
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「理想だろ」
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視線が刺さる。
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「正しさなんてな、立場で変わる」
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「医者、看護師、患者、家族」
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「全員違う」
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「その中で、どれを選ぶかだ」
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何も言えなかった。
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そのとき。
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「神谷くん」
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白石だった。
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「ちょっと来て」
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個室。
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一ノ瀬の部屋だった。
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ベッドの上。
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起きていた。
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昨日とは違う。
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だが——
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目が、違う。
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「……こんにちは」
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声が、少し遅れている。
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「今日は……静かですね」
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「ええ」
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「とても……静かです」
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その言い方に、違和感がある。
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「……大丈夫ですか」
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一ノ瀬は、ゆっくりこちらを見る。
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そして、微笑んだ。
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「ええ」
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「とても“管理されている”感じがします」
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心臓が跳ねる。
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その瞬間。
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臭いが、一気に強くなる。
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頭の奥が、軋む。
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「あなたも」
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一ノ瀬が、小さく言った。
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「気づいてますよね」
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息が止まる。
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「何に、ですか」
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一ノ瀬は、少しだけ笑った。
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「記録と現実の、ズレに」
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言葉が出ない。
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「でも」
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「それを書いた瞬間、あなたも“そっち側”です」
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その言葉が、深く刺さる。
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——そっち側。
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「……どういう意味ですか」
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一ノ瀬は答えなかった。
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ただ、天井を見ていた。
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その視線の先に、
何かがあるかのように。
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「……ここは」
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「面白い場所ですね」
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その言葉が、
なぜか恐ろしく感じた。
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——この病院では、
“正しさ”が記録される。
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——そして、
“現実”は消されていく。
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最後まで読んでいただきありがとうございます。
この物語の背景や考え方は
X「こころの余白|無理しない人間関係」で発信しています
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