「この病院では、正気が壊れる」 第5話 ——見てはいけない手順
※本作は実体験や取材をもとに再構成したフィクションです。
読後に少しでも「考えるきっかけ」になれば幸いです。
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夜勤明けの空気は、どこか鈍い。
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ナースステーションには、独特の疲労感が漂っていた。
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「昨日、また入ったらしいぞ」
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誰かの声。
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「誰?」
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「三号室のやつ」
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三号室。
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一ノ瀬の部屋だった。
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「……また?」
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「夜中に急に興奮してさ」
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「結局、鎮静?」
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「そ。セレアキ」
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軽い調子だった。
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まるで、日常の一部みたいに。
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胸の奥が、ざわつく。
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昨日の光景が、蘇る。
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針。
静止。
沈黙。
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「神谷」
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声をかけられる。
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振り向くと、黒田が立っていた。
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初めて、まともに目が合う。
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その目は、妙に冷たかった。
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「ちょっと来い」
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有無を言わせない口調。
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ついていく。
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病棟の奥。
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人の気配が少ない場所。
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「ここ、見たことあるか」
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指差した先。
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処置室だった。
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「……いえ」
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黒田は扉を開ける。
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「入れ」
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中に入る。
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その瞬間。
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臭いが、強くなる。
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今までで一番。
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思わず、顔が歪む。
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黒田は気にする様子もない。
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「どう思う」
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突然だった。
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「……何がですか」
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黒田は、机の上を軽く叩く。
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そこには、
注射器と薬剤が並んでいた。
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「これだよ」
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見慣れたラベル。
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セレネース。アキネトン。
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「昨日のやつ、見ただろ」
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何も言えない。
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「どう思った?」
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問い詰めるような視線。
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「……必要だとは思います」
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言いながら、自分でも違和感があった。
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黒田は、少しだけ笑った。
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「思ってねえ顔だな」
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図星だった。
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「いいか」
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黒田は、一本の注射器を手に取る。
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「現場はな、“綺麗事”じゃ回らねえ」
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薬液が、ゆっくりと押し出される。
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「暴れるやつをそのままにしてみろ」
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「他の患者が危ねえ」
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「スタッフも危ねえ」
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「だったらどうする?」
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「……抑えるしかない」
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「そういうことだ」
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黒田は頷いた。
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「それが“仕事”だ」
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その言葉に、
妙な重みがあった。
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そのとき。
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奥のベッドに、誰かがいることに気づいた。
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「……っ」
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一ノ瀬だった。
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横になっている。
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動かない。
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「……なんで」
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思わず声が出る。
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「夜中に入れた」
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黒田は、あっさり言う。
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「まだ抜けきってねえ」
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近づく。
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顔色が、明らかに違う。
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呼吸はある。
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だが——
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“いない”ように見えた。
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その瞬間。
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臭いが、さらに強くなる。
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頭が、ぐらつく。
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「……これ」
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言葉が出ない。
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黒田が、こちらを見る。
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「何だ」
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「……強すぎませんか」
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言ってしまった。
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沈黙。
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黒田は、しばらくこちらを見ていた。
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そして、ゆっくり口を開く。
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「じゃあ聞くけど」
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一歩、近づく。
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「お前、責任取れんのか」
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「……え」
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「鎮静しねえで、事故起きたら」
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「お前が責任取んのかって聞いてんだよ」
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言葉が、詰まる。
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「理想語るのは簡単だ」
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「でもな」
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「現場は“結果”で見られる」
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その言葉は、重かった。
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何も言えない。
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「……覚えとけ」
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黒田は、視線を外す。
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「ここで正しいのは、“問題を起こさねえこと”だ」
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それだけ言って、外へ出ていった。
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残された空間。
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一ノ瀬が、静かに横たわっている。
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さっきまで話していた人間とは思えない。
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「……これが」
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言葉にならない。
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——治療なのか。
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そのとき。
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一ノ瀬の指が、わずかに動いた。
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「……っ」
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目が、うっすらと開く。
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焦点が合っていない。
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だが——
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口が、わずかに動いた。
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「……Sie……」
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ドイツ語。
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「……見えて……」
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聞き取れない。
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ただ一つだけ、分かった。
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“まだ意識がある”。
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その瞬間。
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臭いが、最大まで強くなる。
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頭の奥が、軋む。
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——何かが、おかしい。
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強く、そう思った。
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——この病院では、“何か”がズレている。
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そして。
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——それは、見てはいけないものかもしれない。
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最後まで読んでいただきありがとうございます。
この物語の背景や考え方は
X「こころの余白|無理しない人間関係」で発信しています
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