「この病院では、正気が壊れる」第3話 ——境界に立つ者
※本作は実体験や取材をもとに再構成したフィクションです。
読後に少しでも「考えるきっかけ」になれば幸いです。
あのあと、しばらく耳鳴りが止まなかった。
九条の叫び声。
針が刺さる音。
そして——
一瞬で静かになった、あの光景。
⸻
あれが、“治療”。
⸻
そう言われても、納得はできなかった。
⸻
「引きずられるなよ」
荒木が、隣でぼそりと言った。
⸻
「……はい」
⸻
「お前みたいなタイプはな、すぐ持ってかれる」
煙草の匂いが、わずかに漂う。
⸻
「感情で見てるうちは、ここじゃ保たねえぞ」
⸻
言い返せなかった。
⸻
正しいのかもしれない。
でも——
⸻
「……それでも」
気づけば、口が動いていた。
⸻
「さっきの、あれは……」
⸻
荒木が、ゆっくりとこちらを見る。
⸻
「何だと思う?」
⸻
答えられない。
⸻
すると荒木は、ふっと笑った。
⸻
「分かんねえなら、まだマシだ」
⸻
それだけ言って、歩き出した。
⸻
⸻
その日の午後。
⸻
「神谷くん、ちょっといい?」
白石に呼ばれる。
⸻
「先生に顔合わせしておこうか」
⸻
「先生?」
⸻
「うん。橘先生」
⸻
その名前に、なぜか引っかかるものを感じた。
⸻
⸻
診察室の扉が開く。
⸻
中は、思ったよりも普通だった。
机、椅子、カルテ。
そして——
一人の医師。
⸻
「こんにちは」
⸻
穏やかな声だった。
⸻
白衣を着ているが、どこか“医者らしくない”。
⸻
「新しい子?」
⸻
「はい。神谷くんです」
⸻
「そう」
軽く頷く。
⸻
「どう?ここ」
⸻
いきなりだった。
⸻
「え……」
⸻
言葉に詰まる。
⸻
「まだ一日だけど、何か感じたでしょ」
⸻
その目は、優しかった。
だが同時に、見透かされているようでもあった。
⸻
「……普通じゃない、と思いました」
⸻
そう答えると、
橘は、少しだけ笑った。
⸻
「いいね。それ」
⸻
「普通じゃないって、気づけるのは大事だよ」
⸻
その言葉に、なぜか違和感を覚えた。
⸻
「でもね」
⸻
橘は、椅子にもたれたまま続ける。
⸻
「じゃあ、“普通”って何?」
⸻
——答えられない。
⸻
「さっきの騒ぎ、見た?」
⸻
一瞬、心臓が跳ねる。
⸻
「……はい」
⸻
「どう思った?」
⸻
言葉が出てこない。
⸻
橘は、それを見て頷いた。
⸻
「いい反応だね」
⸻
「すぐに答えを出さない方がいい」
⸻
「ここでは、“分からない”を持ち続けた方がいい」
⸻
その言い方が、妙に引っかかった。
⸻
まるで——
⸻
“理解するな”と言われているみたいだった。
⸻
そのとき。
⸻
鼻の奥に、あの臭いが広がった。
⸻
一気に。
⸻
さっきまでなかったのに。
⸻
「……っ」
⸻
思わず顔をしかめる。
⸻
橘が、じっとこちらを見ていた。
⸻
「どうしたの?」
⸻
「……いえ」
⸻
そう答えるが、
橘の視線は外れない。
⸻
「何か、感じてる顔してる」
⸻
心臓が強く打つ。
⸻
「……別に」
⸻
橘は、少しだけ笑った。
⸻
「そういうの、否定しない方がいいよ」
⸻
「ここではね」
⸻
その言葉が、妙に残る。
⸻
⸻
診察室を出たあとも、
あの視線が頭から離れなかった。
⸻
「どうだった?」
白石が聞く。
⸻
「……変わった先生ですね」
⸻
正直な感想だった。
⸻
白石は、少しだけ困ったように笑う。
⸻
「うん。でも、患者さんからは人気あるよ」
⸻
「……そうなんですか」
⸻
「距離が近いからね」
⸻
距離が近い。
⸻
それが正しいのか、分からなかった。
⸻
⸻
廊下を歩く。
⸻
ふと、足が止まる。
⸻
あの臭いが、また強くなった。
⸻
さっきよりも、はっきりと。
⸻
視線を動かす。
⸻
——いた。
⸻
廊下の端。
⸻
あの、踊る患者。
天野 光。
⸻
何もない空間を見つめている。
⸻
その視線の先。
⸻
“誰かがいる”かのように。
⸻
ゆっくりと、頭を下げる。
⸻
そして——
⸻
こちらを見た。
⸻
一瞬だけ。
⸻
目が合う。
⸻
笑った。
⸻
その瞬間。
⸻
臭いが、最大まで強くなる。
⸻
頭の奥が、軋む。
⸻
「……っ」
⸻
足がふらつく。
⸻
そのとき。
⸻
誰かの声が、すぐ横で聞こえた。
⸻
「それ以上、見ない方がいい」
⸻
荒木だった。
⸻
「……あの人」
⸻
言いかける。
⸻
荒木は、天野を見ずに言った。
⸻
「“見えるやつ”は、引きずられる」
⸻
低い声だった。
⸻
「お前、そっち側だな」
⸻
否定できなかった。
⸻
⸻
——この病院では、何かが“ズレている”。
⸻
そして。
⸻
——そのズレは、他人事じゃない。
⸻
最後まで読んでいただきありがとうございます。
この物語の背景や考え方は
X「こころの余白」で発信して
います
https://x.com/yohakumaind/




