「この病院では、正気が壊れる」 第2話 ——理解してはいけない
※本作は実体験や取材をもとに再構成したフィクションです。
読後に少しでも「考えるきっかけ」になれば幸いです。
その日の夜も、ほとんど眠れなかった。
目を閉じると、あの光景が浮かぶ。
空に向かって一礼し、踊る女。
母の話と、完全に重なっていた。
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気づけば、朝だった。
眠った感覚はほとんどない。
鏡の中の自分は、目の下に薄く影を落としていた。
「……大丈夫だ」
そう呟いてみるが、説得力はなかった。
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病棟に入った瞬間、あの臭いが戻ってきた。
鼻の奥にまとわりつく、あの違和感。
昨日より、少し濃い。
思わず呼吸を浅くする。
だが——
誰も、何も言わない。
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「顔、悪いぞ」
荒木だった。
壁にもたれながら、こちらを見ている。
「寝てねえだろ」
「……少しだけ」
「嘘つけ」
間髪入れずに言う。
「ここで寝不足はやめとけ。判断ミスる」
そう言って視線を逸らす。
「まあ、勝手にしろ」
冷たいようで、完全には突き放さない。
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「今日は軽く患者対応入ってみる?」
白石が声をかけてくる。
「無理なら見学でもいいけど」
「……やります」
逃げたくなかった。
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案内されたのは、静かな個室だった。
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「ちょっと特殊な人でね」
白石が小さく言う。
「特殊、ですか?」
「うん。頭がいいの」
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扉が開く。
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「Good morning.」
流暢な英語。
思わず足が止まる。
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「おや、新顔ですか」
今度は日本語。
整いすぎた笑顔。
どこか、不自然だった。
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「一ノ瀬 蓮さん。今日の調子はどうですか?」
白石が柔らかく声をかける。
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「Welche Sprache bevorzugen Sie?」
ドイツ語。
意味は分からない。
だが——試されている。
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「今日は、どの言語で話しましょうか」
くすりと笑う。
「医療とは、コミュニケーションでしょう?」
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その瞬間。
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臭いが、強くなった。
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一気に、鼻の奥に広がる。
逃げ場がない。
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「……どうしました?」
一ノ瀬が、こちらを見る。
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「あなた、面白いですね」
立ち上がる。
距離が近づく。
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「“見えていない顔”をしている」
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心臓が跳ねる。
意味は分からないのに、
なぜか、核心を突かれた気がした。
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「……失礼します」
白石が間に入る。
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部屋を出た瞬間、息を吐いた。
気づかないうちに、呼吸を止めていた。
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「気にすんな」
背後から、荒木の声。
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「頭いいやつほど、ああいう壊れ方する」
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「……壊れてるんですか、あの人」
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荒木は、少しだけ笑った。
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「じゃあ聞くけど」
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「お前と、あいつ。どっちが“正常”だと思う?」
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言葉が出なかった。
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そのとき。
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ガンッ!!
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金属音。
何かが倒れる音。
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「やめろ!!」
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叫び声。
空気が一変する。
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荒木の顔が変わった。
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「……来たか」
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走る。
反射的に、後を追う。
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廊下の先。
看護師たちが一人の患者を押さえつけていた。
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「離せ!!お前らは監視対象だ!!」
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九条だった。
手には破れた本。
六法の一部だ。
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暴れている。
必死に抵抗している。
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「押さえろ!!」
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数人が体を固定する。
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「指示のセレアキ!」
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鋭い声が飛ぶ。
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すぐに、注射器が手渡された。
透明な薬液が、わずかに揺れる。
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「やめろ!!それは——!!」
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九条が叫ぶ。
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腕を押さえつけられる。
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逃げ場がない。
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その瞬間。
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臭いが、爆発する。
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視界が歪む。
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「やめろ!!」
気づけば叫んでいた。
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なぜ止めようとしたのか、自分でも分からない。
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「神谷!!」
荒木の怒声。
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「下がれ!!」
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強く引かれる。
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次の瞬間。
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針が、突き立てられた。
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体が跳ねる。
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そして——
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動きが、止まる。
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さっきまで暴れていた人間が、
嘘みたいに静かになる。
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抵抗が、消える。
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——静かすぎる。
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まるで、
スイッチを切られたみたいに。
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「……ほらな」
荒木の声が、低く落ちる。
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「これが“治療”だ」
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その言葉が、重く沈む。
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——それは、治療というより
“制御”に近かった。
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気づけば、
臭いは消えていた。
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最後まで読んでいただきありがとうございます。
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