「この病院では、正気が壊れる」最終話 ——順番
あの部屋のことを、
誰も話さなかった。
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保護室。
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存在は知っている。
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だが、
触れない。
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それが“正しい”空気だった。
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あの日から。
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臭いは、
完全に馴染んだ。
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もう、
違和感はない。
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病棟に入る。
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いつも通りの朝。
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「おはようございます」
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自然に言葉が出る。
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誰も、何も変わらない。
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変わったのは、
自分だけだった。
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ナースステーション。
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黒田が、こちらを見る。
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ほんの一瞬。
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頷いた。
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それで、分かった。
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——認められた。
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「神谷くん」
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白石の声。
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「保護室、手伝ってもらえる?」
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一瞬だけ、
時間が止まる。
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だが——
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「……はい」
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迷いはなかった。
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二重扉の前。
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手をかける。
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重い。
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開ける。
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臭いが、押し寄せる。
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だが、
もう止まらなかった。
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中に入る。
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並ぶ鉄の扉。
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鈍い音。
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誰かが、叩いている。
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「三番、対応入る」
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黒田の声。
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足が動く。
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観察窓。
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中を見る。
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患者が暴れている。
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叫び。
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「離せ!!」
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見慣れた光景。
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「押さえろ」
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身体が動く。
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迷いはない。
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腕を固定する。
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抵抗。
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だが、
問題にならない。
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「指示のセレアキ!」
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声が飛ぶ。
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準備。
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針。
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一瞬だけ、
患者と目が合う。
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恐怖。
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かつての、自分。
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——それでも。
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「入れます」
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自分の声だった。
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針が刺さる。
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体が跳ねる。
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そして——
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静かになる。
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沈黙。
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「……OK」
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処置完了。
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手を離す。
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患者は、
動かない。
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それでいい。
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それが、“正しい”。
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そのとき。
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視線を感じた。
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奥の部屋。
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あの部屋。
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鉄格子の向こう。
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あの男。
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沈黙していたはずの存在。
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だが。
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こちらを見ている。
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はっきりと。
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目が合う。
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時間が止まる。
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そして——
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わずかに、
口が動いた。
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「……来たな」
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低い声。
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誰にも聞こえていない。
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「順番だ」
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心臓が、強く打つ。
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動けない。
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「次は、お前だ」
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息が止まる。
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「……何の話だ」
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声に出していた。
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だが。
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誰も反応しない。
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黒田も、
白石も、
何も聞こえていない。
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ただ自分だけが、
その声を聞いている。
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男は、
ゆっくりと笑った。
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そして。
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何も言わなくなった。
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沈黙。
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元に戻る。
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まるで、
最初から何もなかったかのように。
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「神谷」
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荒木の声。
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「どうした」
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「……いえ」
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首を振る。
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問題ない。
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何も問題ない。
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ナースステーションに戻る。
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画面を開く。
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記録。
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指が動く。
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【興奮状態あり。指示により
セレネース1A・アキネトン1A混筋注施行。
以後、安静。問題行動なし】
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入力完了。
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一瞬だけ、
止まる。
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だが——
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そのまま、確定を押す。
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それで終わり。
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ふと、
顔を上げる。
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廊下の奥。
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天野 光が、
いつものように立っている。
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空を見ている。
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ゆっくりと頭を下げる。
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そして——
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踊り出す。
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その光景を、
ただ見ている。
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何も感じない。
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何も思わない。
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ただ、
理解している。
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——この病院では、
正気が壊れる。
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そして。
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——壊れたことに、気づかなくなる。
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——順番に。
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最後まで読んでいただきありがとうございます。
この作品は、
私が実際に見てきたこと、
そして忘れられない出来事をもとにしています。
ここまで読んでくださった方に、
何か一つでも残るものがあれば嬉しいです。
▶ X「こころの余白|無理しない人間関係」
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