「この病院では、正気が壊れる」第10話 ——その死の記録
その日、呼ばれたのは夜だった。
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人気のない時間。
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病棟は、異様なほど静かだった。
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「来て」
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橘が、それだけ言った。
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ついていく。
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向かったのは、
普段使われていない古い処置室だった。
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扉が閉まる。
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その瞬間。
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臭いが、完全に満ちる。
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もう、嫌悪感はなかった。
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ただ——
“そこにあるもの”として感じていた。
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「ここで」
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橘が、静かに言った。
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「昔、色々やってた」
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「……やってた?」
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橘は、机の引き出しを開ける。
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中から、古いファイルを取り出した。
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「正式な記録じゃない」
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そう言って、こちらに渡す。
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開く。
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そこには、
手書きの記録が並んでいた。
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日付。
症状。
処置。
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そして——
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見覚えのある名前。
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叔母。
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息が止まる。
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「……これは」
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「残されなかった記録」
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橘が答える。
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ページをめくる。
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【興奮持続。指示により鎮静増量】
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【セレネース追加投与】
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【反応鈍化あり】
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【隔離継続】
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手が震える。
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公式記録とは、まるで違う。
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そこには、
“過程”が書かれていた。
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「……なんで」
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声が震える。
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「なんで、これが残ってないんですか」
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橘は、少しだけ間を置いてから言った。
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「残す必要がないから」
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「……必要がない?」
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「問題になるから」
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あまりにも、あっさりとした答えだった。
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「医療ってね」
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橘は、静かに続ける。
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「“正しい結果”を出すことが優先なんだ」
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「過程じゃなくて」
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頭が、追いつかない。
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「……でも」
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「結果、死んでるじゃないですか」
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言ってしまった。
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沈黙。
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橘は、静かにこちらを見ていた。
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「じゃあ聞くけど」
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「それを“医療ミス”って証明できる?」
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言葉が詰まる。
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「できないよね」
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「じゃあ、それは“事故”になる」
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冷たい現実だった。
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「……そんなの」
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言葉にならない。
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そのとき。
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臭いが、さらに濃くなる。
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視界が、歪む。
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そして——
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見える。
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叔母。
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処置室。
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押さえつけられている。
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叫んでいる。
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「やめて!!」
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針。
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抵抗。
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薬。
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体が、動かなくなる。
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呼吸が、浅くなる。
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そして——
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止まる。
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「……っ!!」
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現実に戻る。
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呼吸が乱れる。
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「……今の」
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橘が、静かに言った。
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「それが、“残ってるもの”」
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頭が、真っ白になる。
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「……殺したんですか」
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思わず、言っていた。
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橘は、首を横に振る。
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「違う」
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「“殺してはいない”」
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その言葉が、
逆に恐ろしかった。
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「……どういうことですか」
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橘は、ゆっくりと言った。
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「誰も、“殺そうとはしてない”」
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「ただ」
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「止めようとしてるだけ」
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「症状を」
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「問題を」
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「現場を」
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一つ一つの言葉が、重い。
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「でもね」
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橘は、少しだけ目を伏せた。
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「それが重なったとき」
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「結果的に、壊れる人が出る」
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沈黙。
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「……じゃあ」
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震える声。
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「誰が悪いんですか」
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橘は、答えなかった。
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ただ、静かに言った。
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「それを決めるのが、難しいんだよ」
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その言葉が、
すべてだった。
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——この病院では、
誰も“悪くない”。
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——でも、
確実に“壊れていく人”がいる。
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そのとき。
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橘が、こちらを見た。
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「それでも」
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「ここで働く?」
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問い。
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逃げ場はない。
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心臓が、強く打つ。
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答えは——
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まだ、出ていなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
違和感は、少しずつ積み重なっていきます。
その先に何があるのか——
次で最後になります。
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