落ちこぼれと捨てられた兄、助けてほしいと言われてももう遅い
「もう限界よ。ナールの足を引っ張る人間を養う余裕はないわ」
母の声は、冬の夜気より冷たかった。
王都から少し離れた下町の屋敷――いや、ゲニーにとっては屋敷ではなく檻だった場所の玄関で、母は腕を組み、父は眉一つ動かさずに立っていた。玄関の外には雨上がりの泥が光っている。灯りに照らされて、そこがこの家の“外”であることだけがやけに鮮明だった。
「努力では才能差は埋まらん。現実を知れ」
父が淡々と言う。叱責というより、判決の読み上げに近い。
ゲニーは言い返さなかった。言い返す言葉は、幼い頃に使い切ってしまった。声を上げるたびに“みっともない”“恥さらし”“ナールの前で騒ぐな”と押し潰され、ついには、反論する気力そのものが萎えていったからだ。
母が足元を指さした。そこに、粗末な麻袋が二つ転がっている。中にはゲニーの服が数枚と、擦り切れた教科書、そして工具の入った小箱。彼がこの家で持ち得た“すべて”だった。
弟のナールが、玄関の内側に立っていた。長身で、艶のある黒髪。王都最大級の魔法学園で常に上位、という噂にふさわしい、整った顔立ち。だがその瞳は、兄に向けるにはあまりに薄かった。そこにあるのは憎しみではない。虫を見るような無関心だ。
「兄さん、存在が無駄なんだよ」
ナールは、まるで天気の話でもするみたいに言った。
母が頷く。
「そう。あんたがいるだけで家の格が下がる。……ほら、荷物」
父が無言で麻袋を蹴り、玄関の外へ転がした。泥にまみれていく袋を見て、ゲニーの喉が小さく鳴った。
「名前を使うな。家の恥だ」
父が追い打ちをかける。
ゲニーは、最後に一度だけ母を見た。母は目を合わせない。まるで、視線が触れたら汚れるとでも言うように。
そして母は、極めつけを吐き捨てた。
「生まれてこなければよかったのに」
言葉が、胸の奥に落ちていく音がした。痛みというより、何かが“切れる”音だった。
ゲニーは玄関を跨いだ。外気が肌に刺さる。背後で扉が閉まる気配がしたが、振り返らなかった。振り返ると、まだ何かを期待してしまいそうだったからだ。
――これで終わりだ。
家族という名の牢獄は。
雨上がりの道を歩き出すと、足裏が泥を踏んで嫌な音を立てた。その音だけが、彼が生きている証拠のように聞こえた。
王都の空は高く、冷たい風が石畳を撫でていた。人々は忙しなく行き交い、馬車が通り過ぎるたびに乾いた音が響く。ゲニーは、その喧騒の中に身を放り込んだ。
最初の夜は、橋の下だった。濡れた石の匂いが鼻に残る。腹は空き、指先はかじかむ。それでも眠れない。扉が閉まる音が、何度も耳の奥で反響した。
翌朝、ゲニーは仕事を探した。宿屋に入れば、汚れた外套を見られて追い返された。商会に行けば、門前払い。
「魔法学園? 底辺の? ……悪いが、うちは王都で商売してるんだ」
それが“丁寧”な拒絶だった。
昼過ぎ、最後に足を運んだ小さな商会で、老人が彼を見上げた。看板には『ラドン雑貨商会』とある。店先は狭いが、壊れた魔道具や古びた器具が所狭しと並び、修理工房の匂いが漂っていた。
「仕事を……ください。掃除でも、荷運びでも」
ゲニーが頭を下げると、老人はしばらく黙っていた。じっと、彼の目を見る。逃げ場のない沈黙に、ゲニーは何か言い足そうとして口を開きかけ――やめた。言い訳は、家で嫌というほど嫌われた。
老人がようやく言った。
「お前さん、人の話を最後まで聞いているな」
ゲニーは瞬きをした。
「……え?」
「さっきから、焦って口を挟まん。目をそらさん。礼も言える。……それだけで雇う理由になる」
胸の奥が、じわりと熱くなった。肯定されたのは、いつ以来だろう。
「……ありがとうございます」
声が震えた。老人は鼻を鳴らして、工房の奥へ顎をしゃくった。
「今日から住み込みだ。余計な期待はするな。ここは楽園じゃない」
ゲニーは、深く頭を下げた。期待なんて、もう捨てたはずだった。それでも、その言葉は、暗闇に灯る小さな火のようだった。
ラドン雑貨商会での日々は、楽ではなかった。朝は誰より早く起きて床を磨き、荷を運び、壊れた魔道具の分解を手伝い、夜は帳簿の写しを取った。指先は傷だらけになり、背中は痛み、眠気は容赦なく襲ってくる。
それでも、ゲニーは礼を言った。指示を復唱し、分からないことは聞き、失敗したら原因を記録した。彼の魔力は少ない。派手な攻撃魔法など使えない。だが、補助の小技――温度調整、微細な魔力の流れの制御、細い糸のような術式の編み込み――そういう地味な技術なら、努力で積み上げられる。
ある日、商会に貴族の使いが来た。壊れた結界用の小型魔道具を抱え、眉間に皺を寄せている。
「明日までに直らねば、主人がお怒りだ。――急げ」
職人たちは顔を見合わせた。複雑な術式で、通常なら三日はかかる。
ゲニーは一歩前に出た。
「……分解して、術式の損傷箇所を先に特定すれば、時間を短縮できます。僕がやります」
職人の一人が眉を上げた。
「おい、無理するな。お前の魔力じゃ――」
「魔力は要りません。必要なのは、見落としをしない目と、手順です」
彼は手袋をはめ、工具を並べ、静かに分解を始めた。術式の糸は絡まり、傷つき、断裂している。ゲニーはため息ひとつつかず、一本一本を辿った。
深夜。ようやく損傷箇所を見つけ、最小限の補修で繋ぎ直す。魔力を注ぐ量は少なくていい。むしろ少ない方が、術式に余計な負担をかけない。
翌朝、使いは驚いた顔で魔道具を受け取った。
「……本当に直っているのか?」
「試験用の結界で確認してください。出力は一割落としています。その分、安定します」
使いは半信半疑で試験し――目を見開いた。
「……お前、名は?」
「ゲニーです」
「覚えておく。――いや、主人にも伝える」
その日から、商会に“指名”が増えた。派手さはないが、確実で、誠実で、トラブルを起こさない。ゲニーの仕事は、いつの間にか“頼めば安心”になっていた。
そして何より、彼は人の間を繋いだ。貴族の無理な要求をそのまま職人に投げず、言葉を選び、条件を整理し、双方の落とし所を作る。誰かを立て、誰かを傷つけず、問題を片付ける。
ラドン老人は、ある晩、酒を飲みながら言った。
「お前さんの魔法は小さい。だが、お前さんの“人”は大きい」
ゲニーは笑った。初めて、自然に笑えた気がした。
ラドン商会で働き始めてしばらくした頃、ゲニーはふと、指先の傷を見つめながら思い出すことがあった。
ナールの誕生日会だ。屋敷の広間に貴族や教師が集まり、父は胸を張り、母は嬉しそうに笑っていた。ゲニーは自分の小遣いと夜更かしで、壊れやすい灯りを長持ちさせる小さな魔道具を作った。ナールの勉強に役立つと思ったからだ。
「はい、ナール。……おめでとう」
差し出した瞬間、ナールは一度も受け取らず、指先でつまむようにして落とした。
「ダサ。こんなの、恥ずかしい」
母は笑いながら拾い上げ、ためらいなくゴミ箱に投げ入れた。
「ほら、邪魔。場の空気が冷えるでしょ?」
父は低い声で言った。
「お前は祝う側じゃない。片付けをしてろ。――客の前で兄を名乗るな」
ゲニーはその夜、広間の床を拭きながら、泣かない練習をした。泣けば、また“みっともない”と言われるから。
学園でも同じだった。父母は教師に圧力をかけ、「ナールと同列に扱うな」と言い、ゲニーは実技で前に出ることすら許されなかった。補助魔法で仲間を支えれば「目立とうとするな」と叱られ、失敗すれば「やっぱり無能」と笑われる。
それでもゲニーは、諦めなかった。諦めなかったのは、偉いからではない。諦めたら、本当に自分が“いない方がいい”人間になってしまう気がしたからだ。
だから今、誰かが「君のおかげで助かった」と言ってくれるだけで、胸の奥に温かいものが灯る。
それは、あの家では一度も手に入らなかった光だった。
それから三年。
ゲニーは王都の中心街にある大商会『グレイウッド交易』の応接室に立っていた。ラドン商会が下請けとして繋いでくれた縁が、いつしか彼自身の縁になったのだ。交渉役として雇われ、今では幹部補佐にまで上り詰めている。
豪奢な絨毯、磨かれた家具、窓の外には王都の尖塔が見える。昔なら震えていただろう。だが今のゲニーは、落ち着いて呼吸をしていた。
扉の向こうから、騒がしい足音が近づく。
――来た。
受付の者が困った顔で入ってくる。
「ゲニー様、あの……面会を強く求める方々が……」
「通して」
ゲニーは短く言った。逃げる理由はない。会わない理由もない。彼の中で、もう決着はついている。ただ、最後の確認をするだけだ。
扉が開き、三人が入ってきた。
母は痩せ、頬がこけていた。父は背筋が曲がり、かつての威圧は影もない。弟のナールは――目の光が死んでいた。上質な衣服のはずなのに、どこかみすぼらしく見えるのは、本人の自信が剥がれ落ちているせいだろう。
応接室の静けさが、三人を余計に惨めに見せた。
母が最初に口を開いた。
「……元気、だった?」
その声は震えている。ゲニーは答えない。代わりに、椅子を勧める。最低限の礼儀だ。
父が座るや否や、周囲を見回して言った。
「……立派になったじゃないか」
褒め言葉の形をした探り。ゲニーは淡々と返す。
「要件は?」
父の眉がぴくりと動く。
「単刀直入に言う。家が危ない」
母が慌てて続ける。
「支援も切られて……借金が……。お願い、ゲニー……」
ナールは黙っている。視線を床に落としたまま。
父が言う。
「お前なら、どうにかできるだろう」
ゲニーは静かに首を傾げた。
「つまり、助けてほしいってこと?」
母が頷く。
「家族なんだから当然でしょ?」
沈黙が落ちた。三人は、その沈黙を“ため”だと思ったのかもしれない。ゲニーが悩んでいる、迷っている、と。
だがゲニーの胸の中には、迷いではなく、遠い感覚だけがあった。雨の匂い、泥の冷たさ、扉が閉まる音。あの夜の記憶が、硝子の向こう側みたいに透けて見える。
父が苛立ち始めた。
「……なんだ、その態度は」
母が眉を寄せる。
「まさか、まだ昔のことを根に持ってるの?」
父の声が跳ね上がる。
「俺たちはお前を育ててやったんだぞ!」
母も叫ぶ。
「そうよ! 衣食住を与えて、学園にも通わせたじゃない!」
「感謝はないのか!」
「この恩知らず!」
言葉が飛び、唾が飛び、醜く吠える。ゲニーは目を細め、ただ見つめた。三年で学んだのは、怒鳴り声に同じ熱量で返しても、何も変わらないということだ。
その時、ナールが小さく言った。
「……兄さん、家族だろ」
ゲニーは一瞬だけ目を閉じた。家族。あの言葉を、どれほど欲しかったか。だが今、その言葉は、借金の担保のように聞こえる。
ゲニーはゆっくりと息を吐いた。
「助ける?……もちろん構わないよ」
母の顔がぱっと明るくなった。胸に手を当て、涙を浮かべる。
「ほら、やっぱり私の子ね」
父も鼻で笑う。
「最初からそう言えばいいんだ」
ナールの目に、わずかな光が戻った。希望。依存。救い。そういう類の光だ。
ゲニーは、その光を見て、かすかに苦笑した。
「でも、それならそこにいる天才様に頼めばいいじゃないか」
空気が凍った。母の笑顔が割れ、父の口が半開きのまま止まる。ナールの目が見開かれた。
ゲニーは穏やかに続ける。
「俺は恥なんだろ?」
誰も否定できない沈黙が落ちた。ゲニーは言葉を重ねる。
「努力しても無駄な落ちこぼれ。存在が迷惑。家の価値を下げる人間だよ?」
母の声が震える。
「……あれは、言葉のあやよ」
父が机を叩く。
「そんな昔のこと――!」
ゲニーは静かに言葉を被せた。
「君たちは王都の笑い者として、これから生きていけばいいよ」
父が立ち上がった。
「ふざけるな!」
母が泣き叫ぶ。
「冷たい子!」
ナールも立ち上がり、声を荒げた。
「兄さん、言い過ぎだ!」
ゲニーは一歩だけ後ろへ下がった。視線はもう、家族を見るものではない。
「俺は、お前たちの期待通り、消えたはずだった」
静かな声が、応接室の空気を切る。
「だから、もう関係ない」
母の涙が頬を伝い、父の拳が震え、ナールは唇を噛んだ。
ゲニーは三人を見渡し、淡々と告げた。
「じゃあな――出来の良い家族達」
扉へ向かう。背後でナールの声が震える。
「……兄さん!」
ゲニーは振り返らない。扉が閉まる音が、すべてを終わらせた。
それから半年。
ゲニーの名は、王都の商いの世界で“調整役”として知られるようになった。派手な魔法は使えないが、派手な魔法よりも難しいことをやる男――人を繋ぎ、争いを収め、利益を生む。グレイウッド交易は、彼の存在で取引の幅を広げ、王宮への納入ルートにも食い込んだ。
ある日、王都の大通りを歩くと、露店の店主が笑顔で頭を下げた。
「ゲニーさん! この前はありがとう。あんたが一言入れてくれたおかげで、税の件が丸く収まったよ」
別の貴族の御者も帽子を取る。
「ゲニー様。旦那が“あなたがいれば安心だ”と申しておりました」
ゲニーは軽く手を上げ、歩く。石畳の音が心地いい。昔、泥の音が生きる証拠だった。今は、踏みしめる音が未来の証拠だ。
同じ頃。
下町の市場で、三人の影が縮こまっていた。
母は、古びた外套の襟を握りしめ、俯いて歩く。父は周囲を睨むが、睨み返されると視線を逸らす。ナールは帽子を深く被り、誰とも目を合わせない。
囁き声が背中に刺さる。
「あの家族だ」
「天才ナールの家の末路らしい」
「兄を追放したんだって?」
「信じられないよね。恩を仇で返すって、ああいうのを言うんだ」
笑い声。子供の指さし。
「ねえ、あれが出来の良い家族?」
母が息を呑み、顔を覆う。父は歯を食いしばり、拳を握る。ナールは、足を止めかけて――結局、何も言えずに歩き出す。
その少し先、ゲニーの馬車が通り過ぎた。窓の内側から見えるのは、忙しそうな王都の景色。ゲニーは書類を読み、次の交渉の段取りを頭の中で組み立てている。ふと、窓の外で誰かが目を逸らした気配がしたが、彼は気に留めなかった。
もう、振り返らないと決めたからだ。
馬車が進む。王都の空は高い。ゲニーは小さく息を吸い、胸の奥で言葉を結んだ。
――才能じゃない。誰を大切にしたかが、人生を決める。
その答えを、彼はもう知っていた。
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