第8話
次の日。
「店長すみません、今日も早く上がっていいですか?」
僕は急いで病院へ向かった。
病室に着くと咲間さんのベッドに先生が来ており、右手の様子を診ていた。
「予想以上の成果ですね、もしかしたらほとんどの機能回復も見込めるかもしれません」
「本当ですか?」
「ええ。もともと麻痺の程度も軽い方でしたから十分に可能性はあります」
祖母は嬉しそうに笑う。
「よかったわねシオンちゃん!」
「…はい」
咲間さんが困り気味な笑顔で答えると、先生は「明日も頑張りましょう」と病室を後にした。
椅子に座り彼女に尋ねる。
「右手の調子良いみたいだね」
「はい。やっと人差し指まで動かせるようになったんです。脚の方も最近は回復傾向で」
「そっか」
後ろの祖母に目配せしてカーテンを閉めてもらう。
そして、昨日思い出したことを咲間さんに話した。
「咲間さん、君に話したいことがあるんだ」
「なんでしょう?」
彼女は不思議そうな顔をしている。
「僕と…初めて会った日のこと覚えてる?自販機の前で会うよりも…ずっと前」
「え…?」
「僕が高校生の時だったかな」
咲間さんは左手で口元を押さえ、驚きの表情を見せた。
「思い出して…くれたんですか?」
「うん。ごめんね、ずっと忘れたままで」
「……いいん…です。私だって…あの日のことずっと胸の奥にしまってましたから」
彼女は手をそっと胸に当てる。
「あの日私、本当に死のうとしてたんです。でも圭吾さんに止められて『もう少しだけ』って思えて…それがなかったら…私は階段から落とされる前に全部終わらせてたかもしれない」
涙がぽたりとシーツに落ちた。
「だから謝らないでください。それよりも伝えたかった…ありがとうって、ずっと」
僕は言葉を探した。でも、どんな言葉も軽く感じて、喉の奥で詰まってしまう。
だから代わりに、ゆっくりと手を差し出した。
「約束覚えてる?1月30日の合格発表の日。僕は公園で待ってた。でも君は来なくて…すごく心配したんだ」
「……ごめんなさい。あの時、私はもう」
「分かってる。いいんだ」
言わせないよう、僕は静かに続ける。
「だから、再会できた今こそ約束を果たそう。これから二人で」
「……っ」
咲間さんの瞳がはっきりと揺れ、涙が止まらなくなる。
「うぅ…!」
「これから、お母さんのこと全部忘れちゃうぐらい素敵な思い出を作ろう。楽しいことや綺麗なもの。今しか見られないものを沢山集めてさ」
彼女は左手で顔を覆い、肩を震わせながらそれでも確かに笑っていた。
「ずるい……そんなこと言われたら…私」
その姿を見た今なら分かる、僕が伝えなければならないこと。
「ごめんね…僕があの日ちゃんと伝えていれば。逃げてほしいとか警察に行こうとかじゃない。ただ君に…『生きてほしい』って。その一言を」
咲間さんは顔を上げる。その顔は涙でぐしゃぐしゃなのに、どこかあの日の夕焼けみたいな眩しさを感じた。
「……大丈夫です。圭吾さんの思い、ちゃんと伝わってましたから」
震える右手で、僕の手を握り返す。
「だから今……こうして生きてる」
「うん」
手にはまだ完全な力は戻ってない。
だがそれでも確かな温もりがあった。
「これから一緒に歩いてこう。遅くても、何度立ち止まってでもいいから」
「時間がかかるかもしれませんけど…それでもいいですか?」
「もちろん」
その時、カーテンの向こうから祖母の声が聞こえた。
「あらあら、二人とも。おばあちゃんまで泣いちゃうじゃない」
「……ばあちゃん、聞いてたの?」
「当たり前でしょ。孫がこんなに良い子でわたし嬉しいわ」
咲間さんはいつものようにどこか寂しけな顔をしていたが、それでも僕と祖母を交互に見て優しく微笑んでいた。
「本当に、ありがとうございます」
◇
夜。鏡の世界。
「シオン、来たよ」
シオンはいつものように中庭に立っていた。
「あぁ…来たんだ…」
しかし何か様子がおかしい。
バタリッ!
彼女は僕を見るなり地面に倒れ込んだ。
「お…おい!」
駆け寄って体を抱えると、その体はボロボロで、氷のように冷たかった。
「一体何が!?」
「今日のは…随分手強かったね…でも、その分対価も多く払われたみたい…」
「まさか……」
周囲を見ると怪物の破片があちこちに散らばり、地面や草木にも激しく争ったであろう痕が残されていた。
「もう…戦い終わったの?」
「うん。私も弱くなったね…これも圭吾さんがあの子の心を癒してくれたおかげ。母親から逃げたいって願いが弱まってる証拠だよ」
「一体…どれだけの対価が払われたんだ?」
「んー…右手親指が終わって腕が全部帰ってきた…あとは右足の中指まで帰ってきたかな」
(失ったの間違いだろ)
そう思った瞬間、シオンの右腕はバシャリと黒い液体に変わり流れ落ちた。
「明日からどう戦ったもんかねー」
「……」
無くなった右腕を見て、彼女を支える手が力んでしまう。
「そんな深刻な顔しないでよ、右腕がないなら足で。足がないなら頭で倒せばいいんだから」
「……この戦い、本当に咲間さんの体が治って終わりなの?こんな姿見せられて…とてもそんなふうに思えないよ」
「どうだろうね…でもまあ、最後までやり切るしかないんじゃない?」
シオンは笑った。
「ねえ圭吾さん」
「なに?」
「もし私がいなくなったら…悲しい?」
「え…そんなの当たり前だろ」
その言葉に、彼女は「そっか…」と立ち上がり右脚をふらつかせる。
小指から中指まではもう動かないのだ。
「おっと…」
「大丈夫?痛む?」
「ううん、痛くはない。どちらかといえば……ちょっと『寂しい』かな」
「?」
シオンは噴水の縁に腰掛け、黒い水面に自分の姿を見る。
「私は今まで、咲間シオンの心の一部でしかなった。でも圭吾さんが来てくれて名前まで持っちゃって。ようやく私って一人の存在になれた気がしたのに、それが消えてくのは…ちょっと寂しい」
彼女は自分の胸に手を当てた。
「でも…それでも私はやり切るよ。たとえこの体が消えて私が居なくなったとしても、あの子が笑えるならそれでいいから」
シオンに会って以来その声は初めて震えていた。
僕は一歩近づき、左手をそっと握る。
「いなくなるなんて言うなよ…」
「え?」
「君がいなくなったら、すごく寂しい」
彼女は目を丸くして、柔らかい笑顔でプッと笑う。
「バカだなあ、本気にしないで。私はあの子の心の一部だよ?消えるわけないじゃん。多分ちょっと形が変わるだけ」
脚をピンと伸ばし伸びをする。
「うーん…でも流石に今日は疲れたなー」
「あ、そうだ」
僕はカバンから水筒を取り出し飲み物を注ぐ。
「氷を入れてきて正解だった。こっちの世界では温かくなってる」
「なにそれ?」
「ミルクティーだよ。咲間さんと病院で再会した時、自販機で買おうとしてたから」
「はい」コップを渡すと、シオンは「ありがとう…」と受け取りゆっくり口をつけた。
「おいしい?」
「うん。ちょっと濃いけど、なんだか懐かしい感じ」
「懐かしい?ミルクティーが?」
「うん。あの子の母親がね、勉強の合間によく作ってくれてたの」
シオンは母親のことを話した。
「まだ小学生の頃のこと。温めたミルクをハーブティーに入れて、ちょっとだけ砂糖を加えるのがお決まりでね。甘すぎず、それいて香り深い、優しい味だった」
「へぇ…」
「まあ、教育が過激になるにつれて作らなくなったけどね。「甘いものは集中力を下げるー」とか言って。でも、あの味だけは今も覚えてる」
彼女はミルクティーを飲み干す。
「変だよね…あんなひどい目に遭わされたのに優しかった記憶だけはこんなに覚えてるなんて」
「シオン…」
「でも…それももういい。もうすぐあの子は母親の悪夢から解放されて、それで全部が終わるんだから」
再び立ち上がろうとして、右脚が力なく崩れる。
「あ……」
慌てて抱きとめると、シオンの左腕が僕の背中に回った。
「ねえ圭吾さん…ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ…わがまま言ってもいい?」
「うん」
「……一度だけでいいから、私をぎゅって抱きしめてほしいの。昔…優しかった母さんがしてくれたみたいに」
僕は答えの代わりに、そっと腕に力を込めた。
そして寒さの和らいだ風の中、シオンは目を閉じ掠れた声で笑った。
「ありがとう圭吾さん…これで私…もう少しだけがんばれる」




