第11話
深夜、病室のベッドで咲間シオンは目を覚ました。
右手の人差し指をゆっくり曲げてみる。
まだ少し震えるけれど、たしかに動く。
窓から差し込む朝の光が、彼女の紫の髪を優しく照らす。
「……お母さん」
小さく呟いて目を閉じる。
その日、彼女は母親が公園のブランコを押してくれる夢を見た。
◇
僕は現実世界へ戻る。
すると、それまで出入りしていたあの鏡はガシャンと音を立て、まるで役目を終えたみたいに砕け散った。
今思えば、この鏡は僕に贖罪の機会すら与えていてくれたのかもしれない。
砕けた鏡を一つ拾って言う。
「ありがとう」
◇
「一杯500円!?えーと…じゃあこのアメリカーノを」
数ヶ月後、僕は喫茶店のソファーでコーヒーを飲んでいた。
「大丈夫かな…」
時計を見ながら不安を募らせる。
するとガラス越し、横断歩道の向こうに立つ一人の少女が目に入った。
少し伸びた髪に、ポニーテールを解いたロングヘア。
それは歩けるまでに回復した咲間さんの姿だった。
「ここだよ」と手を振る。
するとチリンチリンとドアベルを鳴らし、彼女は入店して来た。
「ふー、歩くのはまだ少し慣れませんね。あーすみません、このミルクティ…いえダージリンティーを一つ」
向かいの席で紅茶を注文する咲間さんに緊張しながら尋ねた。
「お母さん…どうだった」
「ええ。随分変わってましたけど、会えました」
「そっか。話はできた?」
「…はい」
彼女は今日、禁錮中の母親へ面会に行った。自分の気持ちに整理をつけたいと言って。
「最初は……何も言えませんでした。ただ、向かい合って座るだけで、胸が苦しくて。でも最後に一言だけ言えました」
「何て?」
「……『ありがとう』って。昔の優しかったお母さんに」
僕は息を飲む。
「そしたらお母さん、泣きながら『ごめんね』って言ってくれた……それで、もう十分でした」
咲間さんは窓の外を見て、穏やかに微笑む。
「もう会いに行くことはないと思います。でも、今日会えてよかった。おかげで全部終わった気がしますから」
その顔にもう寂しさはなく、ただ静かで澄んだ表情がそこにあった。
「……よかった」
僕はは小さく呟いて、胸の奥で何かが溶けるのを感じた。
「それじゃ、行きましょうか」
手を繋いで二人で店を出る。
夕焼けが喫茶店のガラスを染め、そこに映る僕たちにあの日の公園を思い出させた。
咲間さんは僕の肩にそっと頭を預ける。
「圭吾さん」
「ん?」
「今でも時々、お母さんの夢を見るんです。その日の朝は少し胸が痛いような…でも、それでいいんですよね」
僕は彼女の髪を撫でながら、静かに答えた。
「うん。それでいいと思う」
咲間さんは小さく頷いて、目を閉じる。
その瞬間、冬の冷たい風が通り抜けて僕たちの体を震わせた。
それでも前に向かってゆっくり歩く。
「不完全でも歩き続ける」
僕たちはそう決めたのだから。




