覚悟
……駄目だ。
これは駄目だ。
しりとりを幾度繰り返しただろう。
時間の感覚はあいまいになり、辺りにはガラクタや動物が入り乱れている。
猫だの犬だのが、出て来た食べ物を奪い合っている。
鶏や牛の鳴き声がして、おかげで寂しくはないが頭はおかしくなりそうだ。
これら全て、俺が見ている幻覚なんじゃないかという気すらする。
戦場でもそうだったが、極限状態では、自分の中に軸が要る。
それは神仏のお守りでもいいし、故郷の想い人でもいい。
気の置けない戦友たちでもいい。
それが何も無い人間はヤケを起こす。
どうでもよくなる。
そして死ぬ。
俺には何がある?
寒村の農家の8男、継ぐべき家も、舞い込む縁談もなく、ごく自然に軍に志願した。
そして戦場で重傷を負い、傷痍軍人となったが、廃兵院に入るほどではない。
俺はまだ働ける……自分でそう思っていたが、なかなか雇口はない。
いまだに日露戦争の影響で男手は足りないはずだと思っていたが、そんな予想を吹き飛ばすほどの不況ということだ。
恩給は実家にほとんど送っている。
地元では結核が流行っていて、親族の多くがこれにやられてしまった。
母も長く伏せっているが、俺の体では介護するのも現実的ではなく、金を送るのがせめてもの孝行……と言いたいが、罪悪感の穴埋めなのかもしれない。
結局、何年もその場しのぎのような仕事で食いつなぎ、ようやく手にしたまともな職が、この雑誌記者だ。
……そうだ。
俺は記者なのだ。
それを、軸にする。
いまだ出てもいない雑誌。その編集者。
それでも、俺にはそれしかないのだ。
それを失った瞬間、俺はこの暗黒に飲まれる気がする。
いまやランプや街灯で明るくなった周囲だが、明るさという意味じゃなく、ここが、ぽっかり空いた暗闇に感じるのだ。
地獄に落ちる寸前の穴の上にいるような、強い違和感。
帰ることもどうでも良くなって来る、脳の麻痺。
シベリアの睫毛も凍る極寒の中で、戦友が肩を揺らしてくれたあの時そっくりだ。
あの時、絶対に帰ると思ったからまだ生きているのだ。
俺は、帰るぞ。
今度も帰る。
「かき」
電話先から、マチコの声がする。
なぜマチコと呼ぶのか。
それは、「名札」で落ちてきた札に書かれていたのがマチコだったからだ。
神仏の類ではなさそうだし、怨霊の類なのかもしれない。
それで気が楽になったのはある。
怨霊になど、付き合ってられない。
「記者!」
相手が何を返すとか関係ない。
俺は雑誌記者だ。
それをぶつけてやる。
「やそう」
「裏取り!」
「りし」
「取材!」
「いか」
「書き物!」
「のうか」
「カメラ!」
頭を回転させ、記者に関係あることだけを返す。
そうすることで、正気を保つ。
利子なんて気の利いた言葉を知っているのは意外だったが、案外子供は親の言葉を聞いているものだからな……。
マチコの人物像に近づいている気がするが、それより、今は自分の事だ。
「ラジオ」
「押川春浪!」
「うじこ」
「校正!」
「いえ」
「江戸川乱歩!」
「ぽ……」
ポから始まる日本語はほとんどない。
ほとんどが外来語だが、マチコはどのくらい知っているのか。
「ポケット」
そう来たか。
ぼとりと床に現れたのは、雑誌『ポケット』だった。
博文館が出している大衆向け雑誌だ。
なかなかいい趣味じゃないか。
博文館と言えば、『新青年』を出している、俺たちがもっとも意識をしている版元だ。
『ポケット』を手に取り、表紙を眺める。
……俺も、生きて帰ったら、こんな雑誌を作ろう。
腹の中でふつふつと沸き起こる熱。
やる気、というと陳腐だが、もう一段、腹が決まったような感覚。
全く根拠はないが、このしりとりの決着は近い気がした。
「徳富蘆花!」
「かい」
「泉鏡花!」
相手がどう思うなんか知ったことか。
同じ文字を平気で返す。
「……かき」
少し気圧されたかのように、マチコが返した。
俺は帰る。
そして俺は書くのだ。
「記事!!」
「じしん……あっ」
俺の勢いに圧されたのか、マチコはついに間違えた。
「ん」がついたら終わり。
しりとりの絶対の決まり事。
ゆえに、世界は急速に白みを帯びていく。
しりとりで出現した、雑多なものが白い光の中に消えていく。
俺は勝ったのだ。
俺は帰ってきた――
「え?」
白い光の中から、視力が戻って来たとき、俺は信じられないものを見た。




