白塔 外伝 〜砂漠迷宮に誓う、二人の絆〜
アフタル大陸の砂漠地帯に口を開ける、ルベルの地下ダンジョン。場所はカカラド共和国に位置する。
この世界で最も有名で、いまだ誰一人として最深部に辿りついていない“未完の迷宮”だ。
何故そこまで冒険者が集まるのか――理由は単純。
魔石が取れ、運が良ければ魔道具まで拾えるからだ。魔道具はどれも希少で、高値がつく。一攫千金を求めて、世界中から冒険者たちが押し寄せる。
だが、ここはただの金脈ではない。
他のダンジョンと決定的に違うのは、出てくる魔物の強さだ。数えきれない冒険者が、この迷宮に潜ったまま二度と戻らない。ルベルの地下ダンジョンは、“富と死”が同じくらい転がっている場所だった。
今日もまた、新しい二人の冒険者が、その入り口に立っていた。
一攫千金のためか。
強くなるためか。
それとも、ささやかな夢と約束のためか。
それを知るのは、彼ら本人だけだった。
⸻
「おいノルク! ここが世界で最も有名な“ルベルの地下ダンジョン”だ!!」
「兄さん、はしゃぎすぎ。……でも、本当に大きいね。入り口も、変に迫力ある」
「見ろ見ろ、どんどん冒険者が入っていくぞ! 俺たちも早く潜ろうぜ!」
「その前に、探索許可証。迷宮管理庁で許可もらわないと入れないよ」
「あ! そうだった! よし、さっさと貰いに行こうぜ!」
砂の坂道を、兄弟は転げ落ちるように駆け下りる。
「うっわ……。すげぇなここ、人も店も多すぎだろ」
「だね。冒険者がたくさん来て、お金を落とすから、宿も店も潤ってるって聞いたよ」
「だよなー。でも、暑い。これはマジでキツい」
「兄さん、氷飴でも買ってくる? 体冷やした方がいいよ」
「お、いいな! ノルクはここで待ってろ、俺が買ってくる!」
「えっ、いいよ兄さ……って、もう行っちゃった」
ノルクは一人になり、改めて周りを見渡す。
獣人族、リザードマン、ドワーフ――さまざまな種族が行き交い、砂と汗と鉄の匂いが混ざり合っていた。
「ノルク! 待たせたな! ほら、キャッチ!」
「わっ……ありがとう、兄さん」
軽く放られた袋をノルクは上手くキャッチし、そのまま中の氷飴を頬張る。
「暑いところで食う氷飴、うんめぇぇぇ!」
「ほんとだ……! 冷たくて、甘くて、おいしい!」
二人が夢中で噛み砕いたせいで、氷飴はあっという間になくなった。
「よし。それじゃあ迷宮管理庁だな。許可証もらわねーと。……どこだっけ?」
「兄さん……ルベルの地下ダンジョンの横に白い建物あったでしょ? あそこが迷宮管理庁だよ」
「あれか! よし、行くぞノルク!」
二人は駆け足で白い建物へ向かった。
⸻
「結構並んでるな〜。いつ順番回ってくるんだよこれ」
「まぁまぁ。兄さん、ここは室内だからまだマシだよ。外より涼しいし」
小一時間ほど待って、ようやく二人の番がやってきた――その瞬間。
横から、柄の悪い男がふてぶてしく割り込んできた。
「えっと、僕たちの番なんですけど……」
「あん? なに? いたの気づかんかったわ」
「いや、気づかないはおかしいですよね? それと、大人なんですから順番は――」
「おいノルク。順番なんていいよ。面倒に巻き込まれる」
「チビのくせに偉そうじゃねぇか? ああ? やんのかコラ」
もう一人のガラの悪い男も詰め寄り、二人を取り囲む。ノルクは歯を食いしばって睨み返す。周りの冒険者がざわめき、受付嬢も困ったように視線を泳がせる。
その空気の中で、ケインが一歩前に出た。
「いやぁ〜、すいませんね。俺の弟がさ。ほら、これやるからさ、機嫌直してくれよ」
そう言って、ケインは男たちに金を差し出す。
「兄さん!? 何してるの!? こんな奴らに金なんて――」
男たちは金をひったくり、鼻で笑った。
「ケッ、こんなはした金、足りねぇなぁ。坊主。俺らはテメェらなんかよりダンジョン潜って、この国に貢献してんだよ。たかが順番抜かされたくらいでピーピー喚いてんじゃねぇよ」
「……」
「俺らにボコられたくなかったら、金貨三枚くらいよこせや」
「いや〜、そんな大金持ってねぇんだよ。だから、これで勘弁してくれって」
「はあ? 知るかボケ! いいから持ってこいやぁ!」
ノルクは今にも飛びかかりそうな姿勢になる。
「兄さん……もう我慢の限界だ……」
ケインはそんなノルクの頭に手を置いた。
「――あのさ。あんま調子乗るなよ? バカかテメェら」
「……あ?」
「こんなくだらねぇ口喧嘩して時間潰すよりさ、さっさとダンジョン潜って稼いだ方が早えだろ。もう一度言う。金渡したろ。とっとと失せろ、雑魚」
「……っ!」
「なんだとコラァ!!」
雑魚と言われた瞬間、二人のチンピラが一斉に殴りかかる――が。
ケインの右フック。
ノルクの鋭いハイキック。
それだけで、二人の男は床に沈んだ。
「やっぱり兄さんも、溜まってたんだね」
「そりゃそうだろ。あんだけボロクソ言われたらな」
何事もなかったかのように、二人は受付に進み、探索許可証を受け取る。
「――よっしゃーー!! これでルベルに入れる! 行くぞノルク!」
「うん。行こう!」
⸻
ダンジョンの入り口に立つと、“巨大”という言葉がぴったりの闇がそこにあった。
「近くで見ると、本当にでっけぇな……!」
「だね、兄さん」
「まずは一層から小手調べだ。様子見ながら行くぞ!」
しばらく進むと、数匹のゴブリンが現れた。
「よし。肩慣らしがてら、順番に仕留めるぞ」
「了解、兄さん」
ゴブリンたちの稚拙な攻撃を、二人は軽くかわし、首元へ剣を走らせる。あっという間に、ゴブリンの群れは地に伏した。
「余裕だな」
「ね。もっと強いのが出るかと思ったけど、そうでもないね」
「この調子で体力続く限りゴブリン狩るか。魔石、山ほど稼げるぞ」
「いいね。僕も気合い入ってきた」
陽が沈むころまで狩り続けた二人は、地上へ戻り、宿に入った。
夜、ノルクが寝返りを打つと、窓辺に座るケインの背中が見えた。
「兄さん……まだ起きてるの?」
「お、起こしちまったか?」
「ううん。たまたま目が覚めただけ。ふぁぁぁぁ……」
「欠伸長ぇな。……なぁ、ノルク」
ケインは窓の外の星空を見たまま、ぽつりと言葉を落とす。
「やっと、ここまで来たな」
「だね。スタンピードで村が滅んで……色々あって、なんとか耐えて、ここに辿りついた」
「俺たちが“兄弟”になったのも、こんな夜だったか」
「そうだね。周りが静かで、星がきれいで……二人でお金出し合って買った安い酒で乾杯して、“義兄弟になろう”って」
「懐かしいな……。あとはここルベルで稼いで、城壁都市ムガンの“白煌光騎士団”に二人で入る。スタンピードのとき、俺たちを助けてくれたからな。ちゃんと恩返ししねぇとな」
「うん。兄さんと一緒に、あの騎士団に入る。……明日は三層くらいまで潜ってみる?」
「いいな。それくらいなら余裕だろ。じゃ、さっさと寝て、明日に備えるぞ」
二人はそのまま、朝までぐっすり眠った。
⸻
「スッキリしたぜぇぇ!! よし、行くぞダンジョン!」
「行こう! 僕も昨日からウズウズしてた!」
二人は一気に三層を目指す。
他の冒険者から教えてもらった隠し通路のおかげで、迷うことなく進めた。
「岩の裏に隠し通路とか、聞いてなきゃ絶対気づかねぇよな」
「ほんとだよ。けど、おかげで三層まで来れた。……行こう、兄さん」
三層は湿った空気と、おぞましい気配に満ちていた。
道中、ゴブリンやスケルトンが現れるが、二人は危なげなく斬り伏せて進んでいく。
そんなときだった。
「だれか〜……誰かいませんかぁ〜……。足をひねってしまって……ポーション、分けてほしいです〜……」
か細い女の声が、洞窟の奥から響いてきた。
ノルクとケインは足を止め、互いに目を合わせる。
「兄さん……今の、聞こえた?」
「……ああ。こっちだな」
声のする方へ駆けていくと、岩に腰掛け、足をさすっている人族の女性がいた。
肩で息をし、苦しそうに顔をしかめている。
ノルクは迷わず駆け寄り、ポーションを差し出した。
「だ、大丈夫ですか?」
「ええ……助かるわ。ありがとう」
女性がポーションを受け取った、そのときノルクは違和感に気づいた。
――霧。
足元を這うように、薄い煙のようなものが広がっている。
「兄さん……。なんか、この場所……変だ。変な匂いもするし、霧まで――」
「なに言ってんだ? 霧なんか出てねぇぞ?」
ケインは首をかしげる。
ノルクが女性へ視線を戻すと、彼女がこちらを見て、微笑んでいた。
ぞわり、と背筋に嫌なものが走る。
「兄さん!! 罠だ――っ……? あ……体が……動かな……い、兄……さ……」
「ノルク!? おい、ノルク!!」
女性が、甲高い笑い声をあげた。
「キャハハハハ! 大丈夫よ〜? ただちょーっと、寝てもらうだけ」
「なんだと――」
ケインが身構えた瞬間、背後から細い鋭い痛みが走る。
振り返る間もなく、首筋に吹き矢が刺さっていた。
「っ……クソ……」
「じゃあ、おやすみなさ〜い」
意識が、闇に引きずり込まれていった。
⸻
ぽた…ぽた…と、水滴の音がする。
「……く……。兄さん……? どこ……?」
重たい瞼をこじ開けると、そこは薄暗い洞窟の一角だった。
手足には冷たい金属の感触はなく、ただ身体が重い。ノルクは頭を押さえ、ふらりと立ち上がる。
――と、その瞬間、視界が歪んだ。
「う……な、なんだ、これ……頭が……」
ズキズキと脳を刺すような痛みが走り、ノルクは思わず膝をついた。
そして、不自然なほどの“明るさ”が、視界を満たしていく。
「……眩しい……」
恐る恐る目を開けると、そこには見覚えのある景色が広がっていた。
「ここ……村だ……。僕の……前に住んでた……」
砂ではなく、柔らかい土の匂い。
村の家々、畑、風。すべてが懐かしい。
ノルクの身体は、何かに導かれるように動き出し、子どもの頃よく遊んでいた空き地へ足を向けていた。
「どうして……」
前方から歩いてくる男の姿に、ノルクは目を見開く。
「ベンおじさん……!」
ノルクは手を振るが、返事はない。近づいて肩に触れようとしたが――指先は虚空をすり抜けた。
「……え」
もう一度、もう一度と試すが、結果は同じだった。
声も届かず、身体も触れない。
「……幻、なのか……」
歩き続け、空き地に出たところで、ノルクはある少女を見て息を呑む。
「ユラン……」
初恋の相手。
誰にでも優しく、笑顔が可愛い少女。
その周りに、子どもたちが集まってくる。そして――
そこには、小さな自分と、小さなケインもいた。
「……この日、覚えてる。兄さんとユランと一緒に森に行って、蜂蜜を取りに行った日だ」
景色が切り替わる。
笑いながら蜂蜜を分け合う自分たち。
また場面が変わり、次々と楽しい思い出が映し出される。
「楽しかったな……」
暖かい記憶が続いたあと、ふっと空気が変わる。
ノルクは息を呑んだ。
そこは、村の大きな木の上。夕焼けに染まる空。
枝に腰掛ける少年と少女。
ユランと、小さな自分――。
「ユラン、よく登ってこれたね。ここ、ちょっと怖くない?」
「全然平気だよ。ケインと、暇なときよく登ってるもん。高いとこから景色見てると、気持ちいいんだよ?」
「そっか……ケインと、か……」
「ノルク? どうしたの? 元気ない?」
「そ、そうかな……。あのさ、ユラン。ユランって……す、好きな人、いる?」
「え? 急にどうしたの?」
「いや、その……ケインと仲いいから……ケインのこと好きなのかなって」
ユランは少しだけ考えたあと、首を振った。
「わたし、ケインのことは好きじゃないよ? 友達としては好きだけどね」
「……そう、なんだ。そっか、そっか!」
「じゃあノルクは? さっきから変だよ。もしかして――好きな人、できた?」
喉がからからに乾いた。
ノルクは唾を飲み込み、拳を握りしめる。
「ぼ、僕は……ず、ずっと……ユランのことが……す、す……好きなんだああああ!!」
大声が出て、木に止まっていた鳥が一斉に飛び立った。
ユランは目をぱちくりさせ、ノルクを見つめていた。
「ご、ごめん! 急だったよね! 今の忘れ――」
木から降りようとしたノルクの腕を、ユランが掴んだ。
「え、ユラン……?」
「ノルク、ありがとう。すっごく嬉しい。わたしも……ノルクのこと、好きだよ。これからもよろしくね」
⸻
「……この時のことは、今でも覚えてる。嬉しくて、嬉しくて、しばらくずっとニヤニヤしてた」
しかし――その幸せは、長く続かなかった。
場面が変わる。
今度は、村の陰で大人たちがひそひそ話をしている。
『おい、アイツの母親、売春婦だったらしいぜ。しかも、その前は奴隷だとよ』
『うわ、マジかよ』
『捨てられたのか、逃げたのか。あんなのと関わったら村の評判が落ちる』
ノルクは、子どもの自分の肩が小さく震えているのを見つめる。
「……母さんの肩にあった刻印。あれが“奴隷紋”だって、あとになって僕は知った。
夜中に帰ってきて、泣きながら、それでも朝には笑って“おはよう”って言ってくれる人だった」
景色がまた変わる。
石を投げられ、罵られる自分と母親。
友達だと思っていた子どもたちの視線は冷たく、口から出るのは汚い言葉だけになっていた。
ただ、一人を除いて――。
「おーい、ノルク! ノルクのお母さーん! 見てこれ! いい肉と野菜、持ってきたぞ!」
「ケインくん、いつもありがとうねぇ」
「ケイン……ありがとう」
「礼なんていらねーよ。それよりノルク! 森で“三耳ウサギ”見つけたんだよ! 飯食ったら一緒に探しに行こうぜ!」
「……僕のことはいいよ。ケインまで印象悪くなる」
「はぁ? 俺、誰だと思ってんだよ。この村の領主の息子だぞ? 俺を悪く言う奴なんていねぇよ。それに――」
ケインは真っ直ぐ、ノルクを見ていた。
「ノルクと、ノルクのお母さんは、人を殺したわけでもなんでもねぇ。なんで石投げられなきゃいけねぇんだよ。そんなのおかしいに決まってんだろ」
「でも……」
「うだうだ言うな。行くぞ。今日は三耳ウサギ仕留めて、ノルクん家で鍋だ!」
「……うん!」
ノルクは、自分と母がその言葉に何度救われたか、数えきれないことを知っていた。
⸻
その温かい記憶を切り裂くように、新しい場面が浮かぶ。
ユランが、泣きそうな顔で立っていた。
「ノルク……ごめん。もう会えないの。パパとママが、もう会うなって……」
「え……なんで? 僕、何もしてないよ」
「ノルクは悪くない。ノルクのママも、とってもいい人。でもね、ノルクに会うと、パパとママが村の人から悪く言われちゃうの……。だから、もう会えないの。ごめんね」
ユランはノルクの手を振り払うように背を向けた。
「ユラン!」
叫んでも、彼女は振り返らなかった。
⸻
再び場面が変わる。
家で泣き崩れる母の姿。
『ノルク……ごめんね。お母さんのせいで……こんな……ごめんなさい……』
『母さんは、何も悪くないよ! だからそんなこと言わないで!』
石を投げられ、罵られながらも、それでも母は笑おうとしていた。
そして――
村の噂話が、どこから広まったのか。
背後から、声が聞こえた。
「おかしいと思わなかったか?」
振り返ると、もう一人の“ノルク”が立っていた。
暗い笑みを浮かべ、自分を見下ろしている。
「おまえの母さんは、誰にも言ってない。なのに、なんで“奴隷の子”だってバレた?」
「それは……」
「教えてやろうか? ――広めたのは、おまえの“兄さん”だよ」
「兄さんは、そんなこと――!」
「じゃあ、見てみればいい」
景色が変わる。
木の上でユランと自分が並んで座っていた、あの告白の場面。
「ほら。そこ、“木の陰”に誰がいる?」
木の裏側に、小さなケインが立っていた。
二人を睨むように、じっと見つめている。
「このあと、どうなったか知ってるだろ。
“奴隷の子”って噂が広がって。村中が、おまえらを叩き始めた」
「じゃあ……兄さんが……?」
「理由は簡単。ケインもユランが好きだった。おまえとの仲を裂くために、全部ぶちまけたのさ」
ノルクは、言葉を失っていた。
「憎いだろう? 大切な人を全部奪ったのは、“兄さん”だ。
――やり返そう。せっかく剣も持ってるし、殺しちゃえよ。そうすりゃ、この胸のモヤモヤも消える」
黒い影が、耳元で囁く。
「早くしろよ。ケインを殺せよ」
そのとき。
ノルクは、ふと問いかけるように口を開いた。
「……兄さんって、ユランに“命をかけて守る”って言ってた?」
「言ってたさ」
「“何があってもユランを優先して助ける”って、言ってた?」
「言ってた。だから、ケインは――」
「――兄さんが、そんなこと言うわけないだろ!!」
ノルクの怒声が、記憶の景色を震わせた。
「兄さんは、いつだって僕のために剣を振ってくれた。
笑って、励まして、毎日、家に来てくれた。
スタンピードのときも、命がけで僕と母さんを守ってくれた。
そして“弟”として、僕を認めてくれた。この世界でたった一人の、兄さんだ!」
ノルクの右手には、いつの間にか剣が握られていた。
「そんな兄さんを、悪く言ってんじゃねぇぇぇぇ!!」
黒い影を、ノルクは迷いなく貫いた。
影が消え、視界が真っ白に弾け飛ぶ。
⸻
次に目を開けたとき、ノルクは椅子に縛られて座っていた。
まだ頭は重いが、目の前で剣戟の音が響いている。
「あなたは、やっぱり全然“洗脳”されなかったわね」
艶やかな声。
先ほどの女――ミランダが薄く笑っていた。
「洗脳、だと?」
ケインが、ミランダの前に立ち、剣を構えている。
「“深層断ちの小杯”。
この魔道具から出る霧は、心に溜まった憎しみや憎悪を刺激して、記憶をえぐり出すの。
心が荒んでない人には、ただの空気。でも、あなたの弟さんは霧が見えていたみたいよ?」
「……だから、あんなクソみたいな幻見せて、兄弟同士で殺し合わせるつもりだったってことか」
「そういうこと。ここは“ダンジョン”。中で誰が死のうと、魔物のせいってことにできる。ねぇ、最高じゃない?」
奥で椅子に座っていた男が、心底楽しそうに笑った。
「ここは冒険者しか来ないしなぁ。誰が殺したかなんて分からない。
兄弟? 恋人? 家族? いいねぇ……この小杯の霧を吸った連中が、目を覚ましたときの“惨劇”がたまらない」
「……最低だな」
「褒め言葉だ。さあ、次はお前の番だ、兄貴。弟に殺される気分はどうだ?」
ノルクは、ゆっくりと立ち上がる。
その姿に、男は期待に満ちた目を向けた。
「さあ、弟くん。お兄ちゃんを――」
「トレンス・エンシス(激流剣)」
ノルクの声が、静かに響いた。
剣先に水のマナが集い、一気に放たれる。
激流のような斬撃が渦となり、ミランダの首を薙ぐ。
一瞬、誰も何が起きたか理解できなかった。
次の瞬間、ミランダの首が宙を舞い、音もなく床に落ちた。
「ノルク……おまえ……」
「兄さん、大丈夫?」
奥にいた男の顔色が、一気に変わる。
「そ、そんな……バカな……。小杯の霧を断ち切った……!? お前は憎しみが強かったはずだ……!」
ノルクは、剣を握りしめたまま、静かに言った。
「許せない過去は、確かにある。
でも、その過去があったからこそ、僕は“大切な人を守る”って決めた。
兄さんと一緒に歩む、夢への道を。誰にも、踏みにじらせたりしない」
その言葉に、男は後ずさりして透明な円盤を掴む。
「……緊急事態だ。全員、今すぐ来い!!」
円盤に怒鳴ると、両手を広げて笑い出した。
「いやぁ、まいったまいった。まさかこんな冒険者がいるとはね。
ノルクくん、だったか? よくミランダを倒した。強いなぁ」
「急に何だよ……」
「警戒、解かないで。兄さん」
そのときだった。
奥の岩壁が青く光り、その前に次々と人影が現れた。
およそ二十人ほどの武装した男たち。
さっきまで“ボス”と呼ばれていた男の背後に整列する。
「形勢逆転だな。くくく……。――野郎ども!! こいつら半殺しにしろ! 拷問は俺がやる!!」
「了解だ、ボス!」
剣を構え、ケインとノルクににじり寄る。
「おいノルク。ここ切り抜けたらさ、すぐ白煌光騎士団に入れるかもな」
「なら、絶対に生き残らなきゃだね。兄さん」
その時――。
ボスの背後で、ボンッ、と爆ぜる音がした。
「な、なんだ!?」
男たちが振り返ると、岩壁の向こうから、ゆっくりと歩いてくる人影があった。
肩まで伸びた蓬色の髪。
白い肌。細い体躯。
だが、その姿を見た瞬間、ケインもノルクも、全身に鳥肌が立つのを感じた。
「おいおいおいおいおい……。なんだここはぁ? ガラクタだらけじゃねぇか。ケッハハハハ!」
「お、おまえ……どこから――」
「しゃべるな。ガラクタが」
その瞬間。
ボスの胸に、ぽっかりと穴が空いた。
誰も、動きが見えなかった。
「……今の、見えたか?」
「ごめん、兄さん。全然……」
蓬色の髪の男は、楽しそうに周囲を見渡す。
「なぁなぁ。ちょっと聞きてぇんだけどよ。人を操る魔道具って、知らねぇか?」
「そ、それは……」
「おせーな」
ひと言。それだけで、男の首が飛んだ。
あまりにも無慈悲な殺しに、残りの手下たちは一斉に逃げ出そうとする。
「おいおいおいおい。次逃げたら、目ぇえぐるぞ」
ケインは、その隙を見逃さなかった。
「ノルク。あいつらが持ってる小さい石、さっきの円盤の鍵じゃねぇか?」
「わからないけど……でも、奥の部屋に、何かあるのは確か」
「一か八かだ。手下から石奪って、あの奥の部屋まで走るぞ。あのヒョロガリ、今はガラクタしか見てねぇうちにな」
「わかった。兄さん」
二人は同時に駆け出した。
ちょうどそのタイミングで、手下たちが蓬色の男に恐る恐る剣を向ける。
「ナイスタイミング……!」
「石、取れた!」
「よし、そのまま奥の岩に――」
どごぉおん、と、洞窟全体が揺れるほどの突風が吹き荒れた。
「くっ……なんだ、この風……!」
「兄さんっ!? だいじょ……ぶ……?」
しばらく続いた暴風が止み、周囲を見渡したときには、ヒョロガリの男以外の手下は全員、バラバラになって転がっていた。
「ったく、ガラクタ共が無駄な悪知恵働かせやがってよ」
蓬色の男は舌打ちすると、ぐるりと首を回した。
その視線が、ケインとノルクを捉える。
「ノルク!! 走れ!! ラーピス・スキンデンス(裂石剣)!」
ケインが地面を斬りつけると、床が縦に裂け、鋭い石柱が突き上がる。
蓬色の男の前に石の壁が立ちふさがり、一瞬の時間を稼いだ。
「兄さん!」
「ノルク、先に行け! 後で追いつく! 振り返るな!」
ノルクは奥の岩へ走り、そこに置かれた円形のプレートに石をかざす。
石が眩く光り、プレートに触れた瞬間――視界が反転した。
気づけば、そこは静かな水面のそば。
洞窟のどこか、別の場所のようだった。
「ここ……どこ……。兄さんのところに、戻らなきゃ……」
そのとき、遥か向こうから轟音が響き、さっきまでいたはずの場所が崩れ落ちていくのが見えた。
「……嘘だ……。兄さん……?」
ノルクは膝から崩れ落ち、握っていた石を取り落とした。石はもう、光らなかった。
⸻
一方その頃。
「ケハハハハ! ガラクタがよ、俺を足止めしたつもりか?」
「うるせぇよ、ヒョロガリ。足止めだなんて思っちゃいねぇさ。
ただ、ノルクが無事にどこかへ移動できりゃ、それでいい」
「なんだと? まさか“転送装置”があるのか……!」
「もう、さっきので崩れて使えねぇけどな」
「ガラクタガラクタガラクタァ!!」
蓬色の男は、両腕を広げて笑った。
「まぁいいや。目的は転送装置じゃねぇし。――テンプス・ウェントールム(風の時)」
世界から音が消えた。
ケインは剣を構えたまま、違和感に眉をひそめる。
「……今、なにを――」
答えは、来なかった。
視界が回転し、床が迫る。
最後に見えたのは、自分の身体だった。
首のない、自分の身体が、そこに立っていた。
「ノルク……生きろよ……。お前は、昔から辛い思いたくさんしてきたんだからよ……。これからは、楽しい記憶で上書きしろ……」
言葉にはならない願いだけが、虚空に溶けていった。
⸻
「クソッ……兄さんのところに戻らないと……!」
ノルクは、転送された先の洞窟をひたすら走っていた。
自分がどこにいるのかもわからない。出口も見えない。
それでも――
「兄さんは、生きてる。絶対、生きてる……!」
それだけを胸に、ノルクは暗い迷宮の中を走り続けた。
兄弟として。
友として。
自分を救ってくれた、たった一人の“兄さん”を信じて。




