第7話
……誰しもが知っていることだとは思うけども、信用っていうのは積み上げるのには途方もない時間がかかるのに、失うのは本当に一瞬だ。
ましてやゼロの状態から誰かの信頼を得るなんていうのは、とてつもなく困難なことなんだろう。
今日の昼休みに輝夜さんが見せた、あのほんの一瞬の動揺と、その後の必死な取り繕いようを思い出す。
青葉ヶ丘高校の「かぐや姫の生まれ変わり」……学内でその異名を知らぬ者はいないほどの、まさに美人の代名詞であり、みんなの憧れの的である輝夜さん。
そんな彼女にとって、その完璧なイメージ……その輝きをわずかでも失うことは、きっと耐え難いほどの恐怖を伴うことなのだろうな、と思う。
別にオタク趣味が少しばかり露見したからといって、あの圧倒的な美貌が損なわれるわけではないだろうけど。
でも、「みんなの憧れの対象」としての春川輝夜という偶像においては、たとえ小さなものであっても、傷がつくことになるのかもしれない。
彼女への純粋な憧れが、失望や、あるいは意地の悪い嘲笑に変わるかどうかは、それを受け取る人それぞれの心の持ちよう……個人の資質や、どんな風に育てられてきたかにも関わってくるのだろうとは思う。
しかしもともと輝夜さんに対して、嫉妬とか、やっかみとか、良くない感情を持っていた人たちにとっては、これ以上ない格好の攻撃材料になるのは、残念ながら間違いないだろうな。
悪意のある人ほど、なぜか時間だけは有り余っているようにも思える。他人の粗探しをしたり、根も葉もない噂を広めたりする暇があるのなら、もっと建設的なことに時間を使えばいいのに……なんて思うのは、私が終わらせても終わらせても次から次へと仕事が降ってくる、しがないコンビニバイトだからだろうか。
(それにしても昼休みの輝夜さん、私が適当な相槌を打ってるのをいいことに、何気ない調子でめっちゃアニメのネタ、振ってたなあ……)
あの昼休みの会話は結局、私がひたすら聞き役に徹する形でどうにかこうにか進んでいった。
もともと自分から積極的に話せるような面白いネタなんてほとんど持ち合わせていない私にとって、相手の話を黙って聞き、表情を読み、相手が気持ちよく話せるように相槌を打つ、というのは、それほど難しいことではなかった。
――皮肉なことに日々のコンビニバイトで培われた理不尽なクレーマーや、延々と終わらない身の上話をするお客様への対応スキルが、まさかこんな形で活用される日が来るとは思いもよらなかったけれど。
妹の彼方ちゃんから聞きかじった程度の、浅いアニメやゲームの知識しか持ち合わせていない私の的外れであろう相槌やツッコミにも、輝夜さんは、まるで長年オタクトークを共有できる相手を探し求めていたかのように、自分がオタクであることがバレてしまうかもしれないギリギリのラインの話題を堰を切ったように、それはもう延々と熱っぽく語り続けていたのだった。
しかし普段、彼女と親しげに話しているクラスメイトたちは、その様子を遠巻きに見ていたけれど、特にそれを指摘したり、茶化したりするような素振りは見せなかった。
……やっぱりクラスの、いや、学校の頂点に君臨するヒエラルキーのトップには、たとえそれがどんなに熱のこもったオタクトークであろうとも、誰も何も言うことは憚られるということなのだろうか? それとも、単に興味がなかっただけ……?
ふと顔を上げると、都会の喧騒と明るさの中でも、夜空には思ったよりもたくさんの星が瞬いていた。
「星が綺麗……」
ぽつりと、誰に言うでもなく呟く。なんだか、それだけで何かの告白の言葉みたいに聞こえてしまうのは、昔読んだ小説の影響だろうか。
「月が綺麗ですね」という言葉は、かの文豪・夏目漱石が「I love you」をそう訳しなさいと教えたという(真偽はともかくとして有名な)逸話から広まったと言われているけれど。
でも月だけじゃない。こうして仕事が終わった後の、心地よいとは言えないまでも確かな疲労感の中で見上げる星空はまた格別な趣があるように感じられる。
それは、単に一日が終わったという解放感が見せている幻なのだろうか。それとも、この場所から見える星々が、今夜は特別に美しく輝いているのだろうか……?
……もしかしたら、実は輝夜さんは本当にかぐや姫の生まれ変わりで、今は遠い月の仲間たちと、あの無数に瞬く星の光を使って、秘密のモールス信号でも送受信してたりして? 『チカチカ…コチラカグヤ…チキュウノオタクブンカ、サイコウ…チカチカ…』みたいな。
いやいや、さすがにそれは飛躍しすぎか。この広い宇宙の彼方、無数の星々が輝く銀河系の片隅に位置する青く美しい惑星、地球。
そこには、我々人類を含め、様々な生命体が存在している。人類は、科学技術の進歩によって、宇宙への憧れを少しずつ現実のものに変えようとしてきた。
宇宙船を開発し月面着陸を成し遂げ、今も遠く離れた惑星を探査し続けている。でも、もし本当に、恒星間を自由に航行できるような、高度な知性を持った宇宙人の存在があるとしたら、彼らは一体、何のために広大な宇宙を旅しているのだろう?
未知の資源を求めて? 新たな居住地を探して? それとも、かつての大航海時代のヨーロッパ列強みたいに、他の未開な(と彼らが勝手に判断した)惑星を征服し、植民地にするため…? もしそうだとしたら、いつか地球も……って、それはもうハリウッド映画で語られそうな、壮大な話になるよね。
あ、ちなみに私は、そういう壮大な物語が始まったとしても、真っ先に逃げ惑う名もなきモブ市民Aなので、地球の危機とかそういう大変なことは、どうかアメリカとか屈強なヒーローの皆様にお任せしたいです、はい。陰ながら応援しております。頑張れUSA!
……うん。やっぱり輝夜さんには、このまま普通の人間のままでいてもらおう。彼女に関わったら急に壮大なSF譚が始まったなんていう超展開は、私のちっぽけなキャパシティでは到底処理しきれない。絶対に勘弁願いたい。
そんなとりとめもない、現実逃避のような妄想を頭の中で繰り広げながら、私は家路を急ぐ人波に紛れて一人、夜道を歩いていた。
夜というだけで、なんとなく周囲の視線が気になって足早になってしまうのは、きっと私だけではないはずだ。
別にこの雑踏の中、私のような地味な女子高生に、わざわざ興味ありげな視線を向ける人なんて、誰もいないって分かっているのに。
いつもならただ流れる景色の一部として見過ごしてしまうような、何の変哲もない帰り道の風景。たくさんの人々が、それぞれの目的地に向かって忙しなく行き交う、ありふれた雑踏の中の一コマ。
しかし今夜に限っては――なぜか私の視線は、前方を行く一人の見慣れない女の子の後ろ姿に、まるで磁石に引き寄せられるかのように、釘付けになってしまっていた。
雑踏の中でもそこだけ柔らかな光を放っているかのように際立って見える。息を呑むほどの可憐な少女。
まるでこの世界の物理法則から解き放たれたかのような、ふわりとした、どこか非現実的なまでの存在感を纏っている。
見覚えがあると思ったのは決して偶然目が合ったからでも、声をかけたいという下心からでもなく――そこにいたのが紛れもなく、私のクラスメイトである、柊小鞠さんだったからだ。
私の視線に気づいたのかそれとも単なる偶然か、あるいは……何か別の、私には窺い知れない目的があってのことか。ふわふわとした、春の綿毛のような柔らかな雰囲気を纏った柊さんはこちらに気づくと、驚いたように少しだけ大きな目を見開き、それからゆっくりとした、どこかためらいがちな足取りで、私の方へと歩み寄ってきた。
教室の中にいるだけでまるでそこだけ小春日和のような、温かく穏やかな空気を振りまく柊小鞠さん。
彼女はいつも、慈母のような穏やかな笑みを浮かべていて、その優しい、鈴を転がすような声で話しかけられるだけで、ささくれだった心さえも自然と和んでいくような気がする。
まるで、彼女自身が天然のマイナスイオンでも発生させているかのよう。肩まで届くくらいの、ゆるやかなウェーブがかかった彼女の柔らかな髪は、街灯の頼りないオレンジ色の光を受けて、天使の輪のように淡く輝いて見えた。
――梅雨が近づいてきて湿気が多くなると、あの天使の輪みたいに綺麗な髪も、少しだけ残念な感じに広がっちゃったりするのかな、なんて、全くの他人事ながら心配になってしまうけれど……まあ、彼女ほどの超絶美少女属性の前では、湿気ごとき物理法則は無効化されるのかもしれない……いや、そんなわけないか。
「夏野さん」
優しい声で、私の名前が呼ばれる。
「あ、柊さん。こんばんは」
私がぎこちなく返すと柊さんは、はにかむように小さく微笑んで、こちらに向かってそっと手を振った。
あんまりというか、人生でほとんど誰かに手を振るなんていう行為をしたことがない私は、それが正しい手の振り方なのかどうか全く分からないけれど、とりあえず見様見真似でちっちゃく、控えめに、自分の手を振り返してみる。
実は陽キャの間では『手を振る』という行為は『汝に決闘を申し込む』という、血で血を洗う抗争開始の合図を表していて、この数秒後に私が彼女によって、その可憐な見た目からは想像もつかないような秘技で華麗に惨殺される可能性もゼロではないのかもしれないけれど……。
でも「わー」って感じで、こんなにも愛嬌溢れる天使のような笑みをたたえた相手の行動を、ガン無視するなんていう非人道的な行為は「私はそう思わないなあ」という確固たる信念を持っていたとしても「そう思いますぅ~(棒読み)」とパートさんに適当に返答するスキルしか持たないこの夏野遥には到底不可能だった。
ぎこちない挨拶とさらにぎこちない手の振り返しが終わると、短い沈黙が流れた。先に口を開いたのは、私の方だった。
「あの……柊さん。どうして、こんなところに? もしかして、この近くに何か御用でも……?」
私の問いかけに柊さんは一瞬、視線を足元のアスファルトに落とし、指先をもじもじとさせながら、言い淀んだ。
「や……その、ちょっと、要件があって……その……夏野さんに、ね」
最後の言葉は、ほとんど消え入りそうな、囁くような声だった。
私に……? 柊さんが? あの、誰にでも分け隔てなく優しくて、いつもクラスの中心で天使のように微笑んでいる柊さんが、わざわざこの私に用件……? まさか……やっぱり、私は、ただの陰キャというだけでなく、その中でも特に近づいてはいけないオーラを放つ、地獄の釜でコトコトじっくり煮込まれたかのような、超ド級のヤバい陰キャだと思われていて、ついにクラスを代表して『あまり学校に近寄らないでほしい』とか、そういう恐ろしい最後通告をしに来たとか……!?
私の内心の恐怖などもちろん知る由もない柊さんは、頬をほんのりと桜色に染めながら、困ったように、そしてどこか自嘲気味に笑った。
「ご、ごめんなさいっなんだか、わたし……まるでストーカーみたいなことしてるって、思われちゃいますよね。バイトが終わるのを、こうしてこっそり待ってるなんて……」
その言葉に、私は全力で、むしろ前のめりになるくらいの勢いで首を横に振った。
「い、いえいえいえ! とんでもないです! 柊さんほどの超絶美少女になら、クラスの大半の男子生徒……いえ、たぶん女子生徒だって、むしろストーカー行為を大歓迎すると思いますよ!? 『え、私のことストーキングしてくれてるんですか!? 光栄です! ありがとうございます!』って!」
クラスではプリントの受け渡しとか、掃除当番の確認とか、そういう極めて事務的な会話しか交わしたことのない、我々二人。
片方はしがないコンビニバイトに夜まで明け暮れ、もう片方はそのバイトが終わるのを、こんな人通りの多い雑踏の中で健気に待っている。
そんな状況に違和感を覚えるなと言う方が無理だろう。だって普通は仕事帰りにわざわざ待ち合わせするなんて、よっぽど親密な恋人同士か、あるいは天文学的な確率の偶然が重ならない限り、まずありえないシチュエーションなのだから。
……まあ、しかし。その明らかな状況の不自然さも、目の前の相手が、非の打ち所のない『超絶美少女』という、あらゆる理屈や常識を吹き飛ばすほどの強力な属性を持っているという、ただその一点の前では、なぜか霞んで、些細なことのように思えてしまうから不思議だ。やはり美少女は正義?
とはいえ、この状況が万が一にもエスカレートして、柊さんが勝手に私の家に上がり込んで待ち伏せしたり、私の部屋の天井裏に隠しカメラを仕掛けたりするような、本格的かつ悪質なストーカー行為に発展するようなことがあれば話は全く別。
愛すべき可愛い妹彼方ちゃんの安全のためにも、そうなった場合には、私は心を鬼にして、躊躇なく警察に通報するしかないだろう……まあ、その前に、私が無事に第一発見者となれるようなシチュエーションが、まず想像できないけれど……。どう考えても、私の方が先に何かされている可能性の方が高そうだ…。
そんな物騒な妄想を繰り広げる私の前で、柊さんはまだ、何か言い出しにくそうに、もじもじと視線を彷徨わせているのだった。




