第6話
地獄への道は善意で舗装されているなんて言葉もあるけれど。本当に厄介なのは、人を騙そうとする人間ほど人当たりの良い、人の善意に付け込むような笑顔を浮かべて近づいてくることだ。
見るからにあからさまに悪人面で「お前を騙してやるぞ」と言わんばかりの口調と声色で甘い言葉を囁いてくれたらこちらも自衛のしようがあるというものなのに。現実はそう単純じゃない。
……だからといって、出会う人すべてを疑いのフィルター越しに見るのは、あまりにも寂しくて窮屈な生き方だ。できればそんなことはしたくない……それでも、どうしてもそうしなければ自分を守れないような状況に陥った時には、もう、仕方ないって無理やり笑って、足にぐっと力を入れて、ただ前に進むしかないんだろう。
「――では、薩長同盟を斡旋し、後の大政奉還にも影響を与えたとされる、この土佐藩出身の浪士は?」
小室先生の張りのある、しかしどこか眠気を誘う単調な声が、私の意識を日本史Bの授業へと強引に引き戻した。
前の席の生徒の背中越しに、黒板に書かれた「海援隊」という文字だけが妙に目に飛び込んでくる。海援隊……海援隊といえば……。
私はほとんど反射的にしかし妙な確信をもって、すっと右手を挙げ、先生に指名されると、自信に満ちた声で答えてしまった。
「はい! 武田鉄矢です!」
「授業に集中しろ」
先生はそう告げると、おもむろにいかに坂本龍馬が日本の夜明けを告げる明治維新設立の立役者となったのか、その偉業について滔々と説明を始めた。
やってしまった……よりにもよって、日本史の授業で武田鉄矢なんて……『贈る言葉』は名曲だけれども、残念ながらまだ江戸時代末期には発表されていないし、3年B組金八先生も放送してはいない……。
江戸時代末期にも、もちろん古来より伝わる歴史の顛末を記した書物くらいはあっただろうし、もしかしたら坂本龍馬も、その後の三菱財閥の創始者となる岩崎弥太郎も、そういう知識を持っていたのかもしれないけれど……。少なくとも、彼ら自身が『よし、俺は歴史書に名を残す偉人になってやるぞ!』なんて野心を持って活動していたわけではないはず。
織田信長だって、豊臣秀吉だって、徳川家康だって、後世まで自分の名前と栄光を残そうとするために生きていたわけではなくて、ただ、その時代、その場所で、自分がやらなくちゃいけないと信じたことを、必死にやり続けた結果として、今、私が生きているこの時代に、知るべき重要な知識として、その名前と業績が燦然と残っているのだろう。
そう考えれば、今の私のこの赤っ恥な発言の結果、仮に私のあだ名が期間限定で「武田鉄矢」になろうとも、それは悠久の人類の歴史の中では、本当にちっぽけな、瞬きほどの点に過ぎないのだ。そうだ、気にする必要なんて、まったくもって、これっぽっちもないのだけれども……。
※
「死にたい」
「まあまあ落ち着きなさいな」
そんな自己完結と強がりも虚しく、昼休みを迎えた私の心は、依然として鉛のように重かった。
チャイムが鳴り教室が一気に賑やかになる。各々がグループを作り、楽しげにお弁当を広げ始める中、私はいつも通り、自分の席でひっそりと持参した地味な弁当箱の蓋を開ける。
普段ならこの時間は私にとって、ただ黙々と食事をし誰と会話を交わすでもなく、時間が過ぎ去るのを待つだけの孤独で静かなインターバルだった。
しかし、今日に限っては、全く、全く状況が違っていたのだ。
教室の、いや、この学校のヒエラルキーの、おそらくは最上位に君臨するであろう彼女――春川輝夜さんが、どういう風の吹き回しか、私の隣の席……本来は青山さんが座っている席の椅子を引き「少しの間、こちらの席をお借りしても良いかしら?」と、それはもう優雅な所作で尋ねているではないか。
突然の、そしてあまりにも予想外の申し出に、青山さん、そして一緒にいた赤井さん、木村さんの三人組は、一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったように目を丸くした後「も、もちろんです! どうぞどうぞ!」「ええっ、春川さんが隣に!?」「むしろ、ずっとここにいてくれてもいいくらい!」と、若干、声が裏返るほど興奮気味に、口々に熱烈な歓迎の言葉を述べていた。その様子は、まるで神様か何かをもてなすかのようだ。
「それにしても、先ほどの日本史、つまらない授業中に、貴女がなかなか見事なボケをかましてくれたおかげで、そうね……きっかり30秒くらいは、退屈をしのげたわ。感謝するわね」
その言葉は一見褒めているようでいて、どこか上から目線というか、女王様が下々の者の芸を評価するような、そんなニュアンスが感じられなくもない。
「うわぁい、ありがとうございますぅ」
私は全ての感情を消し去った、完璧な棒読みで返す。
「この先、数日間は私のあだ名が『武田鉄矢』で固定されそうな、あの赤っ恥大公開イベントのおかげで、校内でもご高名溢るる春川さんの貴重な30秒間の退屈しのぎができましたなんて、わたくし、幸せのあまり天にも昇る気持ちでございますぅ~」
私の小芝居に春川さんは特に気にした様子もなく「そう」とだけ短く頷いた。
輝夜さんは食べ終えたサンドイッチの包み紙を、まるで折り紙でもするかのように丁寧に小さく畳みながら、ただ一言。
「それ」
とだけ呟いた。
……それ? 『それ』とは、一体何のことだろうか? 彼女の意図が全く掴めず、私は思わず首を傾げた。
鈍すぎると言われがちな私の勘でなくとも、さすがにこの『それ』だけで意図を汲み取るのは、超能力者でもない限り不可能だ。
もしかして、これが今、巷で噂の『パリピ』の間だけで通じる特殊なコミュニケーションだったりするのだろうか? 『それな~』みたいな感じで、『それ』だけで万事OK的な? うん、分からん、全く分かない……。
私が一人で混乱の渦に巻き込まれていると、輝夜さんは呆れたように、ふう、と小さなため息をついた。
「……察しが悪いのね?」
そして少しだけ意地悪そうな、からかうような響きを声に乗せて、こう続けたのだ。
「春川さんなんてそんな他人行儀な呼び方はしないで輝夜と、下の名前で呼んでちょうだいって言っているのよ、遥」
「おお……」
思わず、間の抜けた声が漏れた。
下の名前で、呼ばれた……? 高校に入学してから、そんな風に誰かから呼ばれたのはこれが初めてだった。家族以外では。
春川さんの大胆な距離の縮め方に私の心臓は驚きと戸惑いで、先ほどよりもさらに激しく跳ね上がり、顔が熱くなるのを感じた。
え、えええ!? 陽キャって、みんなこんなに急に距離詰めてくるものなの!? 彼女は出会って(まともに話したのは昨日が初めてだけど)半日も経たないうちに、下の名前呼びを要求してくるなんて……! このコミュニケーション能力の高さ、というか距離感の掴み方すごい……!
あ、でも春川さん、オタク趣味持ってるんだった。じゃあ陽キャイコールではないのかな? でもこの人懐っこさと行動力は一体……?
混乱しながらも、私はここで彼女の提案を無下に断る勇気もなく、かといってすぐに「輝夜」と呼び捨てにするのもハードルが高すぎる。
私は逡巡の末、最大限の勇気を振り絞って、少しだけどもるように、彼女の名前を呼んだ。
「じゃ、じゃあ……輝夜さん」
そう呼んでみると彼女は満足そうに頷き、そして次の瞬間、何か面白いことを思いついた子供のように少し意地の悪い、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「ふふ。ありがとう、遥……でも、なぜかそう言われると、すごく『告らせたい』感が強めじゃない?」
このネタアニメは確か3期まで放送されて大ヒットしたし、原作コミックも28巻くらいまで出てる超人気作品だけど……このクラスで果たしてどれくらいの人が元ネタを理解できるかな?
いや、待てよ、平野紫耀さん主演で実写映画化もされてたから、意外と知名度は高いのかも? だからセーフ? 今の、セーフ? わりと今の、輝夜さんの発言、一般人からしたらただの不思議ちゃん発言だけど、分かる人が聞いたら完全に『同類』認定されるレベルの、結構な失言というか、オタク丸出し発言っぽいけど……周りは誰も特に気にしてない感じだから……平気、なのかな? 大丈夫?




