第二章 17話
二学期の中間テストの結果が貼り出された掲示板の前は、生徒たちの歓声とため息で騒がしかった。
そんな喧騒の中でこれまで絶対的王者として君臨してきた才女が、その座から引きずり下ろされる瞬間が訪れた。
「どう? 恐れ入ったかしら!」
勝どきを上げるように、小鞠さんが得意満面に胸を張る。その視線の先で、膝から崩れ落ちたのは――青葉ヶ丘高校の至宝と名高い春川輝夜さんだった。
事の始まりは、一週間ほど前に遡る。
体育祭の熱狂も冷めやらぬまま、気づけば十月も半ば。少し気の抜けたような、のんべんだらりとした空気が教室に漂い始めた頃、担任の安西先生が教壇から「そろそろ中間テストが近いけど。準備は進んでるかなー?」と、我々に発破をかけた。その一言で弛緩していたクラス全体の空気がピリッと引き締まる。
いや、もちろんテストの日程くらい生徒手帳にも書いてある(輝夜さんが教えてくれなければ永遠に得られない知識だった)し、頭の片隅では認識していた。
けれど、改めて先生から強調されると「ああ、そうだった、しっかりしなきゃ」という気分になるのだから、我ながら単純。
とはいえ、私もある程度前から夜の予習復習には自然と力が入っていた。
なぜなら、今回は親友の小鞠さんが、打倒・輝夜さん高らかに宣言していたからだ。
いや、もちろん、それで私が特別頑張る義務はない……ないのだけれど、誰かが目標に向かって必死に努力している背中を見ると、なんだか自分もシャキッとしなきゃ、という気分にならない? ……まあ、私が単純だからなのかもしれないけれども。
ともあれそんな流れで今回もまた、我が家で恒例の勉強会が開かれることになった。今回は私、輝夜さん、小鞠さんに加え、木村さん、赤井さん、青山さんという頼もしいゲストも参加しいつも以上に賑やかな会となった。
強いてその内容をハイライトで取り上げるとすれば、やはり青山さんが意気揚々と持ち込んだ大量のコスプレ衣装による(どうやって持ってきたのか)私の着せ替え人形ショーだろうか。
「みんなの勉強のモチベーションが上がるなら!」と、どんなに恥ずかしい格好でも甘んじて受け入れようと覚悟を決めた結果、盛り上がりに盛り上がりすぎてしまい、最終的には様子を見に来たお母さんに「あなたたちは一体、何をしにここへ集まっているの!?」と、本気のトーンでめちゃくちゃ怒られたことは、深く反省しています。
「はい、勉強しに来ました、その通りです……」と、全員で頭を垂れるしかなかった。
……まあ、そんなお叱り事件はあったものの、この勉強会に参加したメンバーは皆、軒並み前回よりも順位を上げており、テスト結果には概ね満足していた。
ただ一人の決定的な例外を除いては。その例外こそが不動と思われた学年主席の座から陥落してしまった、輝夜さんその人だった。
輝夜さんは掲示板に貼り出された順位表と、隣で勝利の笑みを浮かべる小鞠さんの顔を交互に見比べわなわなと震える声で叫んだ。
「なんで……! あなた勉強会の時だって、相変わらずミミズが這ったようなクソ汚い字を書いてたじゃない! なのに、なんで今回のテストでは、ちゃんと人間が読める字を書いて答案を提出しているのよ!?」
そうなのだ。柊小鞠さんといえば、そのあまりに個性的すぎる筆跡――もはや象形文字か古代の暗号かと見紛うほどの独特な字体――により、解答内容は合っていても「読解不可」として点数を大幅に減点され、結果的に私と同じくらいの順位を今まで維持してきたのである。
それがどういうわけか今回に限っては、採点した小室先生が「君は……こんなに綺麗な字を書けたんだな……」としみじみと呟いたという逸話が残るほど、劇的な文字の進化――まさに象形文字から現代日本語への大躍進――を遂げていたのだ。
小鞠さんは勝ち誇った顔で、ふふんと鼻を鳴らした。
「全てはあなたに勝つためよ輝夜。能ある鷹は爪を隠すって言うでしょう? 実はね夏休みからずっと、綺麗な字を書けるようになるためにボールペン字講座の本を買って練習してたのよ……まあ、ブックオフで買った中古のやつだけど」
「それって本当に意味あるんですかね!?」
もちろん誰かの使用済みであったとしても、トレーシングペーパーを使えば上からなぞって練習することも可能だ。
賢く節約上手な小鞠さんのことだからきっと上手いこと活用したのだろう。現に、答案用紙にはっきりと読解可能な美しい(当社比)文字が書かれている以上、そのボールペン字講座の本(中古)にも、ちゃんと意味はあったということ。
「そして、極めつけは勉強会での偽装工作よ。あえていつもの解読不可能な字を書き続けることで『ああ、こいつは今回も絶対に字で減点されるな』とあなたに油断させる……ふふふ、私の作戦は完璧に上手くいったわ!」
「この……このクソビッチがあっ……!!」
瞬間、輝夜さんの口から、校内にいる彼女からは想像もつかないような言葉が飛び出した。しかし、これは小鞠さんに対する罵倒ではなく、どうやら「中古」という単語に反応してのものみたい。
けれど、自分が「ビッチ」と呼ばれたと勘違いした、ほんわかポワポワ系の小鞠さんの表情は、一瞬にして般若のような、悪鬼羅刹の形相へと変化した。
まずいと思った私は、慌てて小鞠さんの耳元に顔を寄せ、小声で事情を説明した。
「輝夜さんが言ってるのは中古の本のことですよ、小鞠さんのことじゃなくて……」
と。すると、耳元での囁きがくすぐったかったのか、小鞠さんは耳まで真っ赤にして、恥ずかしそうに身をよじらせながら言った。
「ひゃっ……!? は、遥ちゃんの生ASMRはちょっと刺激が強すぎるよぉ……今度、遥ちゃんも何か恥ずかしい格好でASMR配信してみる?」
「謹んでお断りしますが!?」
とんでもない罰ゲームみたいな提案が飛び出したので、否定的な意見も(以前よりは)無難に述べられるようになった(自己基準)私も、様々な感情を抱きながら、丁重にお断り申し上げた。
でも、今のトークで思い出すべき重要なポイントは「罰ゲームみたいな」という部分だ。
そう、あの賑やかすぎた勉強会の最中にも、伏線は張られていたのだ「今回も私が学年1位に決まっているわ」と、いつものように自信満々だった輝夜さんに対し、小鞠さんが「へえー? じゃあ、もし学年1位を取れなかったら、どうするつもり?」と、これまたいつものように煽り散らかした。
その挑発に乗せられた輝夜さんは、なぜか私の方にちらりと艶めかしい視線を送りながら、こう言い放ったのだ。
「そうねぇ。もし万が一この輝夜様が主席から陥落することがあったなら……ふふ、その時は、逆バニーの格好でもしてあげようかしら」
実際にはそんなこと起こるはずがないでしょう? と言わんばかりに、その時の輝夜さんは胸を張っていたのだが。
「……貧乳の逆バニーとか、マジで需要ないんですけど……」
小鞠さんが、ボソリと、しかし的確に核心を突く一言を漏らした。
「なっ……あるわよ! バニーはむしろ貧乳……というか、まな板くらいの方が映えるっていう意見もちゃんとあるんだもん!」
輝夜さんは「トトロはいるもん! 絶対にいるもん!」と駄々をこねる子どものように強硬な姿勢で反論する。
しかし正直なところ、我々には本当にその意見に需要があるのかどうかの知識がなかった。そこで、このメンバーの中で一番その手の知識に詳しそうな人物――木村さんに判断を仰いでみることにした。
木村さんはトレードマークの底の厚いメガネをクイックイッと上下させながら、冷静に分析を始めた。
「そうですね……それは非常に難しい問題提起であると言えます。なぜなら、基本的に美少女が着用するエッチな衣装というカテゴリーにおいては、どのような組み合わせであっても一定以上の需要が見込めるからです」
いきなり物事の根幹からひっくり返すような意見を言い放つ木村さんだったが、彼女はさらに続けた。
「ですが、個人的な見解を述べさせていただくならば、バニーガールの真髄とは、その絶妙な露出度、つまり『見えそうで見えない』部分にこそ魅力が凝縮されていると考えます。従って、ぜひ春川さんには、その……慎み深い胸元を強調する逆バニーではなく、オーソドックスなバニーガールの衣装を着用していただきたい、と切に願うものであります」
小鞠さんがすかさず援護射撃をする。
「ほら、やっぱり貧乳だって暗に指摘されてるわよ、輝夜。あなたのその薄い胸部装甲では逆バニーは役不足だって。むしろ、普通のバニー衣装で、胸の谷間ならぬ隙間から、綺麗なピンクが見えるか見えないか、そのギリギリのラインが気になって仕方がないって、そういうことよ」
「……舐め腐りやがって……! いいわ、見てなさい! 絶対に、次のテストでは学年主席の座は譲らないから!」
輝夜さんは顔を真っ赤にして叫んだけど時すでに遅し。結局のところ、今回のテストで彼女が学年主席の座から陥落してしまったのだった。
そして、現在。
「まあ、学年主席から陥落して傷心の輝夜に、さらに傷口へ塩を塗り込むようなことは言いたくないんだけど」
と前置きしつつ、小鞠さんは悪魔のような笑みを浮かべた。
「あなた、自分で言ったわよね? 陥落したらバニーガールを着るって。たしか、貧乳でも需要があるんだったかしら?」
多くの生徒が行き交う廊下で、これ以上こんなデリケートな会話を続けるわけにはいかない。
私たちは、いつものように、校舎の隅にある空き教室へと移動した。この教室、なぜかいつも鍵が開いていて誰も使っていないことが多い。
前の文化祭の準備の時もそうだったけれど、結構みんなで集まって作業したり、こうして密談したりするのに重宝している。一体、何の部活が本来使っている部屋なのだろうか?
「輝夜さん、ここはもう潔く謝りましょう?『すみません、私の認識が間違えていました。ごめんなさい』って。失敗を糧にして成長するからこそ、人は……変われるんだと、私は思います」
私がそう助け舟を出すと、輝夜さんは少しだけ潤んだ瞳で私を見つめた。
「遥……」
この辺りで、私がなんとかして流れを止めなければならない。このままでは、罰ゲームがどんどんエスカレートしていって、最終的には全員参加のコスプレ大会みたいな、カオスな状況になりかねない。
そうなったら、コスプレには一家言ある千秋さんあたりが「よし、私がプロデュースしてやる!」とか言い出して、とんでもない規模の罰ゲーム大会が開催されてしまうかもしれない。
いや、そもそもコスプレを「罰ゲーム」なんて言ったら、千秋さん、めちゃくちゃ怒りそうな気もするけれど。
しかし私の説得も虚しく、輝夜さんはうつろな表情で逡巡した後、決意を固めたように顔を上げた。
その視線の先には、「ニマニマ」という効果音がぴったりな悪戯っぽい表情を浮かべ、声に出さずに「ふーん? へえー? そうなんだー?」と口をパクパクさせている小鞠さんの姿があった。
「いいえ、だめだわ。たとえ私の認識が間違っていたとしても、ここで折れたら、私のプライドが許さない……!」
「ふふ、よく言ったわ輝夜」
小鞠さんが満足そうに頷く。
その一連のやり取りはまるで拷問にかけられ「私は決して屈しないぞ!」と叫びながらも、ペラペラと国家機密を漏らしてしまう、どこかの物語のお姫様騎士のようにも見えた。
「……それじゃあ、罰ゲームはお二人だけでやっていてください。多くの人に見られたら、輝夜さんもきっと悔しいでしょうし」
私がそう提案すると、輝夜さんは血相を変えて反論した。
「それだけは絶対にやめて! この女にジロジロと値踏みするように眺められながらコスプレショーをさせられるなんて……考えただけでも、すごく嫌!」
輝夜さんが言うには、あの淡白な、それでいて全てを見透かしたような表情を浮かべながら、的確に煽り散らかしてくる小鞠さんの前で恥ずかしい格好をさせられるのは、筆舌に尽くしがたい屈辱感を伴うらしい。
「ですが、だからといって学校でそのようなことをするわけにもいきませんし、毎度毎度、私の家に集まってもらうのも、お母さんにまた怒られそうで申し訳ないですし……」
「ああ、それなら心配ご無用! じゃあ、わたしの家においでおいで~。輝夜んちでやると、防音とかしっかりしてなさそうだし、階下の人とか隣人に迷惑がかかるかもしれないからね!」
小鞠さんが、あっけらかんとした調子で提案する。
「……なるほど、分かりました。お二人がそこまでお望みとあらば、謹んでそのお招きに承諾いたします」
なぜか私も参加することが決定事項になっている。小鞠さんと輝夜さんは、イエーイ! と楽しそうにハイタッチを交わしていた。
しかし、輝夜さんはその日、他人の家で、しかもかなり恥ずかしいであろう衣装を着ることになるわけだけど……確か、小鞠さんの家には、年頃の異性のご兄弟がいらっしゃったと伺っている。
まあ、きっと大丈夫なのだろう。大丈夫だから、こうして私を誘って、二人でハイタッチなんてしているんだよね? その辺り、まさかノープランで盛り上がっているわけでは……ないよね? 一抹の不安を抱えながら、私は二人の笑顔を眺めるしかなかった。




