第二章 16話
「しかしあれだ。体育祭、やっぱり見に行けば良かったな」
少しお疲れ気味の顔に似合わず、その声には若干の悔いが滲んでいるように聞こえた。
「店長がお店をサボるわけにはいかないですからね……」
私がそう答えると、千秋さんは椅子の背もたれに身体を預けながら、悪戯っぽく口の端を上げた。
「まあな。私がいないとこの店は回らない……で? 例の応援団の動画とやらは、どこの違法サイトにアップロードされてるんだ?」
「えっ? あの、当人の許可なくアップロードされている時点でかなりグレーだと思いますけど、違法サイトっていうのはもっと危険な場所なので、パソコンの安全を第一に考えるなら、そういうところで見るのは絶対にやめた方がいいと思いますよ……?」
思わず真顔で反論してしまった。パソコンの仕組みはよく分からないけれど「違法」と名のつくサイトが安全なはずがない。
ウイルス感染とか個人情報が抜き取られるとか、そういうリスクがあるに違いないのだ。
そもそもどういうサイトを指しているのか具体的には分からないけれど、おそらく実在はするのだろう。
まあ、そんなアンダーグラウンドな場所で一介の女子高生が応援団に参加している動画をアップロードしたところで、どれほどの需要があるのかは甚だ疑問だけれども。
「動画でしたら、木村さん……私のクラスメイトが撮影していたはずなので、頼んでみてもいいですよ? きっと持っていると思います」
「木村? なんだそいつは……さては、盗撮が趣味の変態か?」
「変態かどうかは断言できませんけど、基本的には安全な人だとは思いますよ? たぶん……」
私の返答は我ながら歯切れが悪かった。今回の体育祭で、女が単なる情報通というだけでなく、謎の親衛隊のような集団を従えているという新たな側面が発覚し、木村可憐さんという人物のミステリアスさは、さらに深まってしまったのだ。
まあでも友人の一大事には理性をかなぐり捨てて駆けつけるような人は、きっと根はいい人に違いない。
……体育祭の動画を何に使うのか尋ねた時に「売る」の一言で詳細はぐらかされてしまったけれど。それはきっと冗談。そう思いたい。
「まあ、遥が安全だって言うんなら安全なんだろうな。ところで今、うちの店ではバイトを絶賛募集中でな?」
「えっ、木村さんをスカウトするんですか? 彼女の家からここまで通勤にずいぶん時間がかかると思いますよ!?」
私の出勤日数が少し減ったこともあり、このコンビニでは慢性的な人手不足に陥っていた。
店長が「ああ、面接がめんどくせーな」と毎日のようにぼやいているので、この記事をお読みの方で、パッと見で真面目に働けそうで、なおかつ店長の多少の雑な扱いに耐えられそうな方がいらっしゃれば、ぜひ応募をご検討ください。
「でも、私にもようやく後輩ができるかもしれないんですね?」
「そうだな。まあ、遥と同じ時間のシフトに入るとは限らないけどな。男の店員だった場合は……特に」
「あの、男女差別はしないようにお願いします……区別なら、まだ分かりますけど」
私に対してあからさまに妙な視線を送ってくるような人は、これまでもいなかったし、クラスでもそういう目で見られることは滅多にない。
……時々、知らない先輩とかにじろじろ見られることはあるけれど。教室にいれば、常に輝夜さんと小鞠さんが鋭い視線で周囲を牽制してくれているし、そもそも、その美しすぎるお二人を眺めている方が、よっぽど眼福であることは言うまでもない。
「うちの店は、従業員同士の社内恋愛は固く禁止してるからな」
「なるほど、確かに。痴情のもつれで店員が一斉に辞める、なんてことになったら困りますもんね」
恋愛ドラマや小説では定番のシチュエーションかもしれないけれど、実際のところ、職場で恋愛をしている余裕なんて、本当にあるのだろうか? コンビニの店員でさえ、ピークタイムにはまともな会話もままならないのだ。
これが本格的な社会人になったらもっと時間に追われて……いや、逆に余裕が出てくるものなのだろうか? 目の前の千秋さんを見る限り、いつも少し疲れた顔で働いていて、そういう話とは縁遠そうにも見えるけれど。
「遥も誰か知らないか? ちょうどいい手駒になってくれて、週に5日以上シフトに入れて、なおかつ絶対にすぐに辞めない、そんな都合のいいアルバイト候補を」
「そんな、どこのお店も喉から手が出るほど欲しがるような、有益な人材はなかなか……第一私の友人のほとんどは、このお店からかなり離れたところに住んでいますので」
「それもそうか。遥が分身でもしてくれりゃあ、話は早いんだけど」
「分身できるような特殊能力があったら、とっくにバイトなんて辞めてますよ……」
仮に私の能力を持つ分身が生まれたとして、それがどれほど私と同じように真面目に働けるかは未知数。けれど、ひとまずはある程度の戦力にはなると思う。
もし使い物にならなかったらその時は店長にバッサリ切ってもらっても構わない。分身なのだから本体である私にダメージは行かないはずだし……たぶん。
「そういえば彼方さん、確か運動系の部活に入るんだったね。高校に入学したら、真っ先にスカウトに行こうと思ってたんだけど……まあ、さすがの私も可愛いバイトの身内には多少は優しくなるように努めるぞ」
「あの、特定のバイトの身内だけでなく、あらゆるバイトに対して等しく優しく接した方が、結果的に離職率はぐんと少なくなると思いますよ? 多分ですけど……」
働くということは、よほどの専門職でもない限り、結局は人間関係が中心になるものだと思う。
だから厳しく接するよりも優しく接した方が人はついてきやすいはずだ。もちろん、職人の世界とかなら話は別かもしれないけれど。
でも世の中には、優しくされると逆につけ上がる人もいるし、すぐに調子に乗る人もいる。
あるいは相手の好意や期待に応えられないと感じて、すぐに辞めてしまう人もいる……。
もちろん、優しさについていきたいと感じる人もたくさんいるけれど、それはあくまで目標とする理想であって、常にそれが通用するとは限らないのだろう。難しいですね……。
「人に優しくすることでたとえ自分が多少損をしたとしても、それはそれで構わない、とは思いませんか?」
私がぽつりと言うと、千秋さんは少しだけ真面目な顔になった。
「世の中にはね、そういう優しさを利用して自分だけ楽をしようとする人間が、それこそ掃いて捨てるほどいるんだよ……だが、まあ、遥みたいなピュアな考え方は、私は嫌いではないね。おそらく、あんたのそのピュアさが嫌いだなんて言う奴は、よっぽどの性根の悪いやつだけだろうさ」
「そうですかね?」
「そういう真っ直ぐな人間が、ちゃんと報われるのが、この世の中の数少ないいいところだ。そうだろう? 今まさに遥はこの店で働く労働の喜びに打ち震えている。そして、ゆくゆくはこの私の家に嫁ぎたいと、そう切に願っている……ああ、遥に幸福を与えられて、私は嬉しいよ」
「そのように心の底からお喜びならば、私も嬉しいですけど……あの、千秋さんちょっと目が死んでますよ? 少しはご自身の体を労わってください。高校も私一人でちゃんと行けますから」
私の提案に千秋さんは少し疲れた目で、しかしきっぱりと言い放った。
「ダメだ。あれがないと私には癒しがなくて死ぬ」
結局相変わらず私は毎朝、千秋さんの運転する車の助手席に座って、高校までの道のりを通学している。
彼女にとっての「癒し」が具体的に何を指すのかは謎だが、まあ、私を送迎することに対する害はないのだろう。
***
「あの、木村さん。うちのコンビニの店長が、体育祭で木村さんが撮っていた動画が欲しいって言っているんですけど……」
すると、木村さんは分厚いメガネの奥の瞳を(おそらく)悪戯っぽく細めて、言った。
「ふーん、店長さんがねぇ。で、おいくら万円まで出すって?」
冗談なのか本気なのか分からない、飄々とした口調。
「あ、あの! 私が個人的に許可するので、どうか無償で譲ってあげてください! お願いします!」
慌てて頭を下げる私に、木村さんは少しだけ困ったような表情を見せた。
「うーんちょっとね、事情があってね。私が個人的に確保している本命の動画じゃない方……別アングルから撮ってたやつだったら、まあ、いいけど」
「あらゆる角度から撮影しているのは、さすが情報通の鑑だと思いますけど……あの、まさか犯罪みたいなことには使ってないですよね……?」
「グレーゾーンは犯罪じゃない……よね?」
悪びれる様子もなく、彼女は小首を傾げる。
「え? そうなんですかね? 私はそういうのをやったことがないので、ちょっとよく分からないです……」
私がやや怯えたようにそう言うと木村さんはふっと息を吐き、少しだけ優しい声色になった。メガネの奥の瞳はやはりよくは見えないけれど、きっと穏やかな色をしているのだろうと想像した。
「そうだよね、夏野さんはそういう人だもんね……ねえ、夏野さん。あなたみたいな人を、心の底から信用できない人っていうのはすごく不幸なことだと私は思うよ」
情報通として彼女がどんな情報を掴み、どんな世界を見ているのかは、私の知る由もない。けれどその最後の言葉だけは、すとんと私の胸に落ちてきた。
誰のことも信用できないというのは、きっととても孤独で不幸なことなのだと、私もそう思うから。




