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第二章 15話

 体育祭の喧騒が嘘のように遠ざかりグラウンドには祭りの後の静けさと、心地よい疲労感が漂っていた。

 熱狂と歓声に満ちた一日はあっという間に過ぎ去り、抱えていた不安はいつの間にか消え、今は確かな充足感が胸を満たしていた。


 もちろん本来ならば私が借り物競争に出て、赤井さんが応援合戦の舞台に立つのが、皆にとって一番幸せな形だったのかもしれない。

 けれど結果として私は代役を務め上げ、その経験は予想以上に大きなものを私に残してくれた。


 高熱を押してまで参加した赤井さんは、体育祭が終わるとすぐに保護者の方と一緒に帰宅した。

 今、片付けに参加している私も興奮が冷めれば明日あたり、猛烈な筋肉痛に襲われるのだろう。それでも、後悔はなかった。


 過ぎ去った時間の楽しさが甘酸っぱい余韻となって胸に響く中、黙々とテントの支柱を片付けていた時だった。ふと、応援団の先輩の一人が私に声をかけてきた。


「夏野さん、団長が呼んでるみたいだよ」


 団長――その言葉に、私の動きが一瞬止まる。誰のことかはすぐに分かったけども。首をひねりつつも先輩への礼儀は忘れずに応じ、指定された体育館裏へと向かう。

 何の警戒もなくただ呼び出しに応じた自分の無防備さに、後から呪詛を吐き出したくなる衝動に駆られた。そこに待ち構えていた人物の姿を認めた瞬間、私の身体は微かに打ち震えた。


 夕陽が長く影を落とす壁際に、彼女――春夏秋冬まどかさん――は立っていた。その表情は読み取りにくく、ただ静かに私を見つめている。


「別に、あなたを食べようっていうわけじゃないわ」


静寂を破ったのは、彼女の声だった。その言葉に、私は冷めた視線を返す。


「……ご自身のこれまでの行いを振り返ってみても、同じ言葉を言えますか?」


 私に声をかけてくれた先輩は、きっと私と彼女の間に横たわる複雑な過去など、何も知らないのだろう。

 ただ、私は知っている。人の好意や善意を巧みに利用し自分の都合の良いように周囲を動かそうとする彼女の本質を。


 そんな相手に対して、以前のように無条件の優しさを向けるつもりは、もう私にはなかった。それは成長なのかあるいは退化なのか、自分でも分からない。

 けれど今の友人たちに心配をかけないように強くあろうと努めること。それが、心を痛めながらも私が選んだ道だった。


「何? 私が何か悪いことでもしたっていうの?」


 悪びれる様子もなく、彼女は問い返す。


「ご自身の良心に問いかけてそれでもなお、自分が正しいことをしていると本気で考えているのならば、私から言うことは何もありません。話し合うだけ時間の無駄ですから」

「……あなた、本当に変わったわね。あの心優しい遥ちゃんは、一体どこへ行ってしまったの?」


 その言葉には、微かな嘲りが含まれているように感じた。


「相手にとって都合よく利用されることが『優しさ』だというのならば、私はもう、そんな優しさは必要ありません。どうぞ、あなたの求める『心優しい人』を探して……その人に、自分の都合よく動くように懇願してください。それでは、これで失礼します」


 彼女が何を求めてここに来たのか私には分からない。けれど、これ以上言葉を交わしても、互いに傷つくだけだと悟った。

 だから私はかつての友人だったかもしれない人に背を向け、その場を立ち去ろうとした。


「どうして……どうして私の言うことを聞いてくれないのよ!」


 背後から、絞り出すような、悲痛な響きを帯びた声が投げかけられた。

 足を止め、振り返る。無視しても、誰にも咎められることはないだろう。けれど、情けをかけたわけではない。


 ただ同じ応援団の仲間として過ごした時間があったから、話を聞く覚悟だけは、示そうと思った。

 心の中の小鞠さんが「甘いよ、遥ちゃん」と呆れたように囁くのが聞こえる気がする。

 でも私は弱い人間なのだ。本当に強い人のように非情に徹することなんてできやしない……本当に、ごめんね。


「私の言うことをですか? ……それとも、クラスメイトの皆さんが、あなたの言うことを聞かないという意味ですか?」


 私の問いに、彼女は苛立ちを隠さずに続けた。


「決まってるでしょ! あなたか、あなたの取り巻きの友人たちが、クラスのみんなに私を無視するように命令しているんでしょう? 本当に、せこい真似をしてくれるわよね。転校生の私をハブにして楽しい?」

「もし、それが事実ならば、心から謝罪します。そして、小鞠さんにも輝夜さんにも、そのようなことはしないように、私からお願いしてみます……まあ、私にそんな発言権があるとは思えませんし、彼女たちが聞いてくれるかどうかも分かりませんが」


 できる限り冷静に客観的な事実だけを述べたつもりだった。彼女の言葉には、何の具体的な根拠もない。私がそんなことを命じた覚えはないし、輝夜さんや小鞠さんが裏でそんな画策をしているとは友人として信じたくない。


 私の言葉に、春夏秋冬さんは嘲るように鼻を鳴らした。


「あのさ、私だって馬鹿じゃないのよ? わざわざ面倒な応援団なんかに入って、あなたたちと一緒に活動してあげたんだから。あなたをこうして呼び出せるくらいには、信用を回復しているつもりよ。ねえ、前と同じようにしてあげようか? あなたがこの学校にもいられなくなるくらい、酷い悪い噂を流してあげてもいいのよ?」


 その脅迫は単なる虚勢ではない。事実として、彼女にはそれが可能なのだと私は知っていた。

 彼女の外面の良さ人を操る手腕は、舌を巻くほど巧みだ。

 そして彼女が本気で私に対して悪意ある噂を流し始めたら、それを止める術は、今の私にはない。

 でも、ここで「やめてほしい」と懇願し、何らかの対価を支払うような真似だけは絶対にしたくなかった。


 だから、私は腹を括った。


「いいですよ。どうぞ、お好きなように。どんどん悪い噂を流してください。ここにいられなくなるくらい、以前のように、めちゃくちゃにしてもらっても構いません」

「……あなた、正気なの?」


 彼女の目に、驚きと戸惑いの色が浮かぶ。


「たとえ、私の友人以外のクラスメイト全員が、その噂を信じてしまったとしても。輝夜さんも、小鞠さんも、きっと私を信じてくれます。青山さんも、赤井さんも、木村さんも……他の多くのクラスメイトだって、あなたではなくて、私を信じてくれるはずです……かつての私は、私を信じてくれるはずの人たちを、信じることができませんでした。でも、今の私は違います。たとえ、世の中のほとんどの人が私を憎んだとしても、私の大切な友人たちが私を信じてくれるのならば、きっと、私は大丈夫です」


 本当は、恐ろしくて仕方がなかった。以前のように知らない人も、知っているはずの人々も、皆が私に後ろ指を差し、腫れ物に触るような態度を取るのではないか。

 私を信じてくれるはずの友人たちでさえ周囲の空気に迎合して、噂を信じたふりをするのではないか。そんな恐怖が、心の奥底で渦巻いていた。


 輝夜さんや小鞠さんが絶対にそんなことはしないという確証なんて、どこにもないのだ。以前のようにこの学校ですら私の居場所がなくなってしまう可能性は、決してゼロではないのだから。


 私の言葉を聞いて、春夏秋冬さんの表情が歪んだ。


「馬鹿じゃないの!? 他人なんてね所詮、自分の足を引っ張ることしか考えてないのよ  裏切りなんて当たり前! うわべだけの付き合いにしか価値のない、信用するだけ無駄な存在なの! 勝って、勝って、相手を徹底的に叩き潰して、二度とこちらに逆らえないようにすることでしか、信用なんてものは手に入らないのよ!」

「それはあなたが利用価値があるかどうかで、他人を見ているからじゃないですか。自分から相手を信用しようとしない人をどうして相手が信じてくれるんですか?」

「じゃああなたはどうなのよ!? なんであなたは、そんな簡単に他人を信じられるの!? あれだけ裏切られて酷い噂を流されて、それでもなお、新しい友人を作った……どうして……どうしてそんなことができるのよ!」


 彼女がどのような経緯でこの青葉ヶ丘高校に転校してきたのか、私は知らない。今のところそれを知りたいという強い興味もない。

 けれどその叫びを聞いて、ふと思った。もしかしたら今この瞬間が、私と彼女が本当の意味で向き合える、最後の機会なのかもしれないと。


 心の中にいる過去の私が囁く。小鞠さんや輝夜さんの声も聞こえる気がした『こんな奴と友人になる必要なんかない』『手を差し伸べるだけ無駄だ』『転げ落ちていく様を、ただ見ていればいい』――その声は冷たく、今の私の甘さを嘲笑うかのようだ。それでも……!


「それはこの現実が自分の見方次第でいくらでも変えていけるものだからです! あなたが……あなたが変わりさえすれば……!」

「私が変わって、それで何も変わらなかったら、あなたはどうするつもりなのよ!?」

「その時は……世界でただ一人、私があなたの仲間になりましょう!」


 その言葉が言い終わるか終わらないかの瞬間、乾いた音が響き、私の左頬に鋭い痛みが走った。全身全霊で平手を叩きつけられたのだと、ジンジンと熱を持ち始めた頬の感覚で理解した。

 あまりに一生懸命になって、盲目的に言葉を紡いで、ようやく、彼女の心の奥深く誰にも触れて欲しくなかった場所に、土足で踏み入れてしまったのだと鋭い痛みが私に教えてくれた。


「ごめんなさい……私、無神経でした……」

「……春夏秋冬まどかという人間を、あなたなんかに……知られてたまるもんですか……!」


 暴力を振るわれたのは私なのに。彼女は肩を震わせ、その瞳から大粒の涙をこぼしていた。その姿を見て、なぜか、私は彼女をひどくかわいそうに思ってしまった。

 いや、もちろん左頬は火傷をしたかのように熱く脈打つように痛んで、じんじんと痺れている。

 それでも彼女の涙を見たら、自分の痛みなんてどうでもよくなってしまったのだ。


「他人なんて……誰も、まったく信用できなかった……ただ、ちょっと容姿が可愛いってだけで、ずっと……ずっと嫌がらせを受けてきたんだから……!」


 彼女の美貌はクラスのヒエラルキーの頂点に君臨する輝夜さんや小鞠さんのような、圧倒的なオーラには及ばないかもしれない。

 しかし、世間一般の誰もがおおむね「可愛い」と認めるであろう、整った容姿を持っていることは確かだ。


 小さな子どもはしばしば責任転嫁をする。「誰かが悪い」「何かが悪い」「自分は悪くない」――そう信じ込み、平気で他人に暴力を振るったり、心無い言葉を投げつけたりする。

 純粋で無垢であるはずの存在が、時に残酷なほど無神経になり得ることを、そして、そうして傷つけられた側が幼少期に受けた仕打ちを、いつまでも心の傷として抱え続けることを加害者は往々にして知らない。


「演じてなきゃ……平気なふりをしてなきゃ……私は、私でいられなかったのよ! それなのに今更、自分を変えろって言うの!? 変わろうとして……それで何も変わらなかったら、あなたは責任も取らないくせに!」

「確かに、世の中には無責任なアドバイスをしたがる人間がいるのは知っています。口先だけで結果が出なくても平気な顔をしている人間がいることも知っています――でも、私は、今、あなたに向き合っている……もし、あなたが勇気を出して変わろうとして、それでも何も変わらなかったら……その時は、私のことを、いくらでも傷つけてくれて構いません! この右の頬だって、どうぞ!」


 次の瞬間に再び乾いた音が響き渡る。

 今度は右の頬に衝撃と熱が走った。春夏秋冬さんの左手が、私の右頬を思い切り叩いていた。

 まだ自分が本当に変われるかどうか確信も持てないというのに、あまりにせっかちすぎる。結果を求めて焦る気持ちも分からなくはないけれど。


「まだ! まだ何も始まってないじゃないですか! 誰にも、変わろうとしているあなたの姿を見せてないじゃないですか! なのに、何で殴るんですか!?」

「……生意気だからよ。偉そうに上から目線でマウント取って、分かったようなことばかり言って……あなたは本当に馬鹿だわ。この世で一番の馬鹿。私の知る限り、最高に、どうしようもなく、馬鹿」


 彼女は悔しそうに地団駄を踏むとくるりと私に背を向けた。その小さな背中が、言葉にならない感情で小刻みに震えているのが分かった。


「でも……少しだけ感謝してる。あなたが……私の心に、土足で踏み込むような真似をしてくれなかったら、きっと私は永遠に、いつまでたっても他人を信用することなんてできなかったと思うから」

「……暴力は、もう振るわないでくださいよ」

「……あなたは生意気よ。きっと、あの春川輝夜も柊小鞠も、内心ではそう感じているはずよ。気持ち悪いって、そう思っているに決まってるわ」


 そう言い捨てて、彼女は私からそっと距離を取った。けれど、伝えたい言葉は、声に出さなければ伝わらない。

 私は去りゆく彼女の背中に向かって、言葉を投げかけた。


「たとえ、私の友人たちが、心のどこかでそう思っていたとしても……それでいいんです。何もかも完全に理解し合えて何もかも通じ合える友人なんて、いるわけないじゃないですか。それでも一緒にいたい、お付き合いしていきたい、その気持ちがあるからこそ……相手のダメなところだって受け入れて、許せるんじゃないですか」


 彼女からの返事はなかった。ただ、小さくなっていく背中を見送りながら、私は燃えるような夕焼けに染まった空を見上げた。


「完璧な人間なんて、どこにもいませんよ。何かが特別にできても、何かが驚くほどできなかったりする……そんな不完全な人間ばかりです。どうして、あなたは完璧な何かを求めようとするんですか? どうして、完璧な自分でいようと必死になるんですか? ……もしかして、そんな完璧な自分でなければ、誰にも好きになってもらえない、愛してもらえないって、そう思い込んでいるんじゃないですか? そんなの……あまりにも、寂しいですよ」


 その言葉は夕暮れの空に吸い込まれていった。彼女に届いたのかどうか、私には分からない。


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