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第二章 第14話

 それは何かの変調の前触れだったのかもしれない。体育祭の練習も佳境に入ったある日、私のジャージのファスナーがとうとう音を立てて壊れてしまった。

 すぐ隣にいた赤井さんが熱心に謝ってくれたけれど、これは別に彼女のせいではない。

 ただ今思えば、おそらくその時から彼女は少しぼーっとしていたのだろう。変なことを考えているとか、どこかに気を取られているとか、そういう類のものではなく、純粋に体調が優れなかったのだ。


 その日の個人練習が終わる頃、ふと見ると彼女の足元がふらついている。慌てて支えようと手を握ると、その手は妙に熱かった。


「体に熱があるみたいだけど、大丈夫?」


 そう尋ねると、彼女は少し気だるげな表情ながらも、心配させまいと努めて笑顔を作った。


「うん、大丈夫。ちょっと疲れちゃったかな?」


 疲れた、というのは彼女自身の感覚だけでなく、周りの誰もが認めるところだったと思う。彼女は、私と同じく運動神経が特別良いわけではない。それでも、皆と動きを合わせようと人一倍熱心に取り組み、必死に頑張ってきた。

 練習に付き合ってきた私が言うのだから間違いない……まあ、自分の発言にどこまで信憑性があるかは、自分でも少し怪しいけれど。


 翌朝、事態はより深刻になっていた。


「今すぐ家に帰して休ませるべきだとは、私も強く思うのだけれど……」

 

 教室で小鞠さんが難しい表情を浮かべて呟く。登校してきた赤井さんは、明らかに熱に浮かされたような顔つきで足元もおぼつかず、その異変に真っ先に気づいた小鞠さんがすぐさま彼女の額に手を当て、有無を言わさず保健室へと連れて行ったのだ。


 保健室の桜坂先生によれば、平時ならば即刻帰宅を促すほどの体温だったらしい。けれど体育祭を目前に控えた本人の強い意志と、クラスメイトたちの懇願もあり、なんとか午前中だけ様子を見るという「お目こぼし」をもらったという。


 もちろん、そんな状態で午後の応援合戦本番に臨むことなどできるはずがない。無理をさせれば、帰宅どころか病院送りになりかねない。

 そんな無茶は絶対にさせられない。しかし、そこで新たな問題が持ち上がった。


「でも、衣装のサイズが――」


 誰かがぽつりと言った。そう、問題は衣装だった。応援団である赤井さんの代役を立てるにしても、その衣装をそのまま使える生徒は限られる。

 特に私の身体的特徴として平均的(文字通り背伸びしながら)な背丈に反して、特定の部分には通常よりも大きなサイズが必要となる。

 そのため赤井さんのために用意された衣装を私がそのまま譲り受けるのは、物理的に難しかった。


 もちろん、無理矢理着込めば何とかなるかもしれない。しかし、無理をして身体にフィットしない衣装で激しい動きをすれば、何らかの事故――具体的に言えば、生地が裂けるとか、ボタンが弾け飛ぶとか、そういう想像したくもない事態――が起こる可能性は否定できない。

 そうなっては、休んでいる赤井さんも浮かばれないだろう。


 「夏野さんが窒息しそうだ」などと口にして、赤井さんの体調不良に追い打ちをかけるような事態は避けたい。

 誰もがそう思っているのか、教室には重苦しい、何とも言えない空気が漂っていた。皆、心配と困惑の表情を浮かべ、解決策を見いだせずにいた。


 その時だった。


「あれ、どうしたのみんな? 朝からそんなに深刻そうな顔しちゃって」


 教室のドアが開き青山さんが登校してきた。輝夜さんや小鞠さんのように、朝練のために早く登校していたメンバーとは違い、一般の生徒が登校してくる時間帯だ。


 小鞠さんの顔がぱっと明るくなった。


「助かったわ、久凪!」

「え、どうしたのよ、可憐……あら、詩亜も、ずいぶん体調が悪そうね」


 青山さんは状況を素早く察したようだ。


「ふふ、こういう事態もあろうかと……もしもの場合に備えて、密かに作っておいた夏野さん用の衣装があるの。ついに、これを出す時が来たようね」

「えっ? それって、色々理由をつけて文化祭の時に見せしめみたいに着せようとしてた、あの曰く付きの衣装のこと?」


 少しばかり不穏な会話が聞こえてきたけれど、ここで茶々を入れて問題解決を遅らせるのは得策ではない。

 そもそも、昨日の時点で「無理せず薬を飲んでゆっくり休んだ方がいいですよ」と、もっと強くアドバイスできなかった私にも責任の一端はある。


「遥さんの妹さんからこっそり聞いた情報でしかサイズを把握していなかったから、微調整は必要だと思うけど」

「ちょっと待ってください……いや、ちょっと待たなくても結構ですけど……!」


 聞き捨てならないというか、断じてやり過ごしてはならない重大なプライバシー侵害案件を耳にした気がしたので、思わず口を挟もうとしたけど……普段は私の行動にあまり口を出さない輝夜さんと小鞠さんが、今はそんなことを言っている場合ではない、と言わんばかりに、左右からぐっと私の肩を押さえた。どうやら、私はこの流れに逆らえないらしい。


「とりあえず、遥さんに着替えてもらって、細かいサイズ調整をしましょうか。可憐、裁縫道具はある?」

「ええ、もう準備させているわ。近いうちに届けてくれるはずよ」


 もはや逃げ場はない。この場に残っていた数少ない男子生徒に担任の安西先生への事情説明は任せることにして、私たちはひとまず人気のない空き教室へと足を踏み入れることになった。


「……あの、念のため確認しますけど、私だけ露出度の高い紐ビキニとか、そういう特殊な衣装を着せられるなんてことは、ないですよね?」

「さすがに人目にさらされるような場所で、そんな悪ふざけはしませんよ。決められたルールの範囲内で全力でふざけるのが、真っ当な人間の嗜みというものでしょう?」


 青山さんは大真面目な顔で言い切るけれど、私の妹から勝手にスリーサイズを聞き出す行為が、果たして「ルールの範囲内」と言えるのだろうか……? 疑問は残るけども、ともあれ彼女が衣装作りを趣味とし、今回の応援合戦の衣装制作にも一部関わっていることは私も知っている。その腕前は確かだ。


 ふと、輝夜さんと小鞠さんはもう教室に戻っても良いのではないかと思った。しかし、後で安西先生に事情を説明する際、クラスのヒエラルキーの頂点に立つ彼女たちがいた方が、話がスムーズに進むかもしれない。

 もっとも、安西先生は基本的に話のわかる先生だから、その心配はおそらく杞憂に終わるだろうけれど。


「うーん、やっぱりちょっと動きづらそうですね……? 遥さん、肩周りちょっと測らせてもらってもいいですか?」

「は、はい」


 私はまるで着せ替え人形か、あるいは畑に立つかかしのような格好で、青山さんにされるがままになっていた。

 「これは女の子のたしなみですから」と、なぜか常にメジャーを携帯していることを説明しながら、青山さんはテキパキと私のサイズを測っていく。


 肩幅、胸囲、ウエスト、着丈、袖丈……次々と読み上げられる数字を、マジマジと眺められながら、私はただひたすらに、この時間が早く過ぎ去ることだけを願っていた……いや、先生に見つかる前に終わらせたいのだから、早く時間が過ぎては困るのだけれど。複雑な心境だ。


「そうですね大掛かりに縫い直したり、布を詰めたりする必要はなさそうです。これなら微調整で済みますね。動きやすさはどうですか?」

「そうですね……思ったより、応援団の皆様は意外と恥ずかしい格好をするんだな、というのが率直な感想です」

「ああ、スカート丈ですか? あれは私の趣味で、規定ギリギリまで短くしておきました」

「さっきの『ルールの範囲内で全力でふざける』という発言、もう一度ご自身で振り返っていただけますか!?」

「大丈夫ですよ、ちゃんとアンダースコートは履いてもらいますから。ルールの範囲内です」

「そもそも見えることを前提に衣装を作成するのはちょっと……って、皆さん、なんで私の肩をそんなに叩くんですか!?」


 そこは折れないと話が進まないだろうと言わんばかりの周囲からの無言の圧力。確かにもう応援団として参加することが決まった以上、ある程度の妥協は必要なのだろう。それは重々承知している。

 私は周囲からの圧力に押し切られる形で、渋々ながらもその衣装を受け入れた。


 教室へ戻る廊下を歩きながら、最後の抵抗として私は言ってみた。


「あの、輝夜さんなら完璧な記憶能力をお持ちなのだから、赤井さんの振り付けも完璧に覚えているはずです。衣装サイズも問題ないはずですし、輝夜さんが代役を務めるのが一番なのでは?」


 すると、輝夜さんは大げさに頭を抱え、苦悶の表情を浮かべた。


「うっ、だめ……持病の癪が……!」


 昭和のコントでしか聞いたことのないような、古風な仮病である。

 ならば、と助けを求めるように小鞠さんや、隣のクラスから様子を見に来ていた木村さんに視線を送る。しかし、


「うっ、私もダメ……昨日、兄を殴りすぎて右手が……!」

「ううっ、私も……連日連夜のデータ分析で、情報の詰め込みすぎで頭が……!」


 こちらも揃いも揃って急に体調が悪くなったようだ。もはや、私に逃げ場はなかった。私は覚悟を決めるしかなかった。


 ちなみに、体育祭の開会式が始まる直前、どこからともなく現れた集団が、木村さんに向かって「例のブツ、ご用意いたしました!」と、何か物騒な雰囲気でアタッシュケースのようなものを差し出していた場面を目撃したけど私は全力で無視した。


 木村さん本人も知らないふりをして、近くにいた警備員さんに何やら説明していた。なんだか彼女の親衛隊か、あるいは特殊なファンクラブのような人たちだったけれど、深く関わらない方が賢明だろう。


 ……それにしても、あの親衛隊の人たち、ちょっと汗臭かったような……夏場だから仕方ないのかもしれないけれど。

 小鞠さんが隣で「……洗ってない犬かな?」と、いつものほんわかしたオーラを出しながらも、毒のある一言を呟いたので、私もちょっとだけ口が悪くなってしまったのは、ここだけの秘密である。


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