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第二章 第13話

 お風呂から上がり火照った体を冷まそうと、私はふかふかのソファーに深く身を沈めた。

 湯船の中で芯まで温まった身体はまだぽかぽかと心地よい熱を帯びていて、柔らかな倦怠感が全身を優しく包み込んでいる。


 その日の夜のニュースはいつもと代わり映えのしない話題を繰り返していた。どこかの誰かが何か重大な過ちを犯したという報道。

 人気芸能人のスキャンダル。遠い異国で続く、終わりの見えない紛争の映像。画面の中では誰かの不幸や、目を背けたくなるような事件、憎しみの連鎖が、まるで対岸の火事のように淡々と無機質なナレーションと共に語られている。


 けれど、本当にこれらは他人事なのだろうか。テレビの中の出来事が、いつか自分の身に降りかからないと、どうして言い切れるのだろう――そんな、少しばかり重たい考えに沈みかけた瞬間、不意に隣からかけられた声に、私の思考は現実に引き戻された。


「お姉ちゃんはさ、ブルマって履いたことある?」


 声の主は、私の可愛い妹の彼方ちゃんだった。え? 今、なんて言った? 報道番組のシリアスな雰囲気とは全く一ミリも関係のない単語が、私の耳に飛び込んできた気がするけども?


「えっと……彼方ちゃん? 今、ブルマって……言いました?」


 思わずオウム返しに尋ねてしまう。だって、テレビ画面に映っている難しい顔で国際情勢を解説しているコメンテーターが、いきなり「実は私、ブルセラショップに通い詰めておりまして、現役女子高生が身につけていたブルマを収集し、着用するのが何よりの喜びなのです」なんて衝撃的なカミングアウトをするはずがない。


 仮に万が一、そんな前代未聞の放送事故が起こったとしても、それがどうして妹の彼方ちゃんが私に「ブルマを履いたことがあるか?」と尋ねてくる理由に繋がるのか、皆目見当がつかない。


「うん、ブルマ。いにしえの体操着として名を馳せた、あの伝説のブルマだよ。私にとってはお母さんが昔の写真で見せてくれたくらいでしか知らない、歴史上の遺物みたいなものだけど」

「お母さんの時代の話となると、なんとなく身近に感じてしまうけれど……どうして急に、私が履いたことがあるかなんて尋ねたの?」


 私は現役の女子高生として日々学校に通っている。

 もちろん私が「実は記憶を改変されたアラサーで、学生時代には当然のようにブルマを履いていた」というSF的な設定の持ち主なら話は別だけど、残念ながらそんな事実はなく、彼方ちゃんとの年齢差もそれほど大きくはない。

 私と同世代の学生であれば、学校の授業でブルマを着用した経験を持つ者はまずいないはずだ。


 もしかしたらコスプレが趣味の輝夜さんあたりなら、何かのキャラクターになりきる過程で履いたことがあるかもしれないけれど……彼女が時折見せてくれる華やかなコスプレ写真を見る限り、ブルマとは縁遠いもっと洗練された衣装ばかりのような気がする。


 私の疑問には答えず彼方ちゃんは次の爆弾を投下した。キラキラと期待に満ちた瞳で、私をじっと見つめて。


「履いて欲しいんだ」

「…………お姉ちゃんの聞き間違いでなければ、今、私に、ブルマを履いて欲しいと、そう願いました……?」


 私の問いかけに可愛い妹はこくこくと小さな首を縦に振り、無言で同意を示す。しかし、なぜ、どうして、そんな突拍子もない願いを抱くのか、その理由は全く理解できない。


 もちろん、もし彼方ちゃんが「見て見て! ブルマ履いてみたよ!」なんて言い出したら、全力で止めるだろう。妹に変な趣味を持たせるわけにはいかない。

 けれど「誰かが私にブルマを履けと命じ、それによって私が多少の不利益(主に羞恥心)を被るだけ」という状況ならば、まあ、受け入れてもいいのかもしれない、と思わなくもない。


 ただ、その理由が皆目不明な上に、現代において一般的な服装ではないブルマを着用するというのはもはやコスプレ以外の何物でもない。


 輝夜さんのように様々なアニメやゲームのキャラクターになりきるコスプレは、私には縁遠い世界だ。第一、自分には似合わないと信じているし、人前で特別な格好をすること自体に強い抵抗がある。


 ……けれど。目の前で彼方ちゃんがか弱い小動物のような、可憐な表情で、うるうると瞳を潤ませている。これは反則だ。こんな顔をされてしまったら「人殺しと法に触れること以外なら、何でも聞いてあげようかな……」という、姉としての甘い気持ちがむくむくと湧き上がってくる。


 いや、あらゆる犯罪に手を染めるつもりは毛頭ないけれど、犯罪の一歩手前くらいの、グレーゾーンな頼みごとなら、まあ、いいかな? などと考えてしまうのだから不思議なものだ。


「こ、こんな格好で、昔の人は体育の授業を受けていたんですか……? 一体どういう思考回路でどんな倫理観をしていれば、学校という教育機関がこれを許可できたんでしょう……?」


 さすがに家族のいるリビングでブルマ姿のコスプレショーを開演するわけにはいかない。

 私はため息とともに立ち上がり、彼方ちゃんに促されるまま自分の部屋へと移動した。


 そこで、なぜか少し呼吸を荒げている彼方ちゃんから、丁寧に折りたたまれた深い紺色のブルマを受け取り、恐る恐る身につける。


 上に着ているのが寝間着代わりのゆったりとしたスウェットなので、下だけが妙にぴったりとした異様な組み合わせになり、なおさら言いようのない恥ずかしさが増幅される気がする。

 だからといって、今さら「ちょっと待って、上に着る体操着も持ってきて」なんて言う気力もなかった。


「……次に、こちらのニーソックスを履いていただきたく存じます」

「ま、まさか昔の人は、ブルマにニーソックスを合わせて授業を……?」


 私の問いに、彼方ちゃんは困ったような、それでいてどこか楽しんでいるような曖昧な表情で首を横に振る。

 まあ、ここまで来たら、彼女に見せるくらいならいいか、と半ば諦めの境地で、渡された真っ白なニーソックスを受け取る。


 爪先からゆっくりと引き上げ太もものあたりまで伸ばしていくと……むぎゅっとした予想以上の締め付けを感じて、私は内心で密かにダイエットの決意を固めた。


 足を細く見せる着圧タイツのような商品も巷には溢れているけれど、つい昼間に輝夜さんから脂肪吸引の恐ろしさを聞いたばかりだ。

 なぜか、ああいった補正下着の類も、無理な締め付けによって内出血を起こしたり肌が青くなったりするのではないか、なんて突飛な想像が頭をよぎってしまう。

 やはり、地道な運動による健康的なダイエットが一番安全なのかもしれない……いや、もちろん、そんな危険な商品が堂々と売られているはずはないのだけれど。


「そして、最後に、仕上げとして上にはこれを着ていただきたく存じます」

「……彼方ちゃんは今日、一体どういうキャラクター設定を演じているのかな……?」


 妙に芝居がかった仰々しい口調で白いシャツのようなものを差し出してくる彼方ちゃんに対し、もはや言い逃れのできないほど恥ずかしい格好をしている私は「もうどうにでもなれ」という自暴自棄に近い心境で、それを受け取った。


 袖を通し身につけてみると、意外にもそれほどの窮屈さは感じない。もちろん、これはあくまで着圧に対する感想だ。

 鏡に映る自分の姿を恐る恐る眺めると、胸元にはっきりと「6-3」というゼッケンが縫い付けられている。


「……こんな体格の良い小学6年生がいてたまるか!」


 思わず心の声が漏れた。鏡の中の自分は、明らかに小学生とはかけ離れた体型をしている。


「うーん……これはいくらなんでも、ウチの中学の文化祭のクラス喫茶で採用する衣装じゃないよね」

「どこの学校の文化祭だって、こんな格好は確実にアウトですよ!?」


 そもそも、飲食物を提供する接客業の制服として、この組み合わせはあり得ないだろう。仮にそんなコンセプトの喫茶店が存在するとしたら、その目的は純粋な飲食物の提供とは別のところにあるはずだ。ましてや、健全な教育機関である学校行事で許されるような服装ではない。


 いや、ニーソックスはさておき、ブルマと体操服の組み合わせ自体は、かつて学校で採用されていたという話だけれども、現代ではジェンダーへの配慮や様々な意識改革によって、その姿を消したはずだ。

 今は今。過去から学ぶべきことは学びつつも現代を生きる私たちには、もう関係のない服装なのだ。そう、今を大切に生きることこそが重要なのだから。


 ただまあ、一つだけ、どうしても気になる点があった。それは、この「6-3」と書かれた上着が、驚くほど私のサイズにぴったり合っていることだ。普段、私は少しゆったりめのサイズの服を選ぶことが多い。

 だから、標準的な中学生、ましてや小学生が着ることを想定して作られたであろう体操服が、こんなにもジャストフィットするというのは少し考えにくい。


 よもや……これは男子生徒用の、少し大きめに作られたものなのだろうか……? でもそれならそれで、なぜ「6-3」なんていう、明らかにクラスを示すような番号が……? 疑問は尽きない。


「では、お姉ちゃんご協力ありがとうございました! これは提供者にきちんと洗濯してお返ししますので、ささ、脱いだものはこちらの袋にどうぞ」


 私の内なる葛藤など露知らず、彼方ちゃんは満足そうな、それでいてどこか達成感に満ちた表情で、用意していたらしい紙袋を差し出した。


「……なんだか、不思議と、もう一度お風呂に入ったみたいにじんわりと汗をかいちゃった……」

「えっ、じゃあ、もう一度お風呂入る?」

「ううん、大丈夫。それよりも、彼方ちゃんが早く入らないと、お父さんやお母さんが待ってるでしょ? 急いで準備してきなさい」


 それにと私は心の中で付け加える。昼間の練習で改めて実感したように、体育祭はもう間近に迫っているのだ。

 こんな奇妙なコスプレで精神的な疲労を溜め込んだ上に、何度も風呂に入って湯冷めでもして、うっかり風邪でもひいてしまったら大変だ。


 もちろんクラスにおける私の戦力としての価値なんて、たかが知れているかもしれない。けれど、私が休めば、誰かが代わりに種目に出場しなければならなくなる。

 体調不良は仕方のないことだとしても、その原因が不注意や身勝手な行動にあったとしたら、やはりクラスメイトに申し訳が立たない。

 しっかりしなくては。私はそっと自分に言い聞かせ、火照りの残る頬を手のひらで冷やした。

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