第2章 第3話
知らない天井だな、と思った。そういえば、小学校の時も中学校の時も保健室にはよくお世話になったものだ。
昔はどうだったか分からないけれど、今は無理をしてまで居づらい場所に留まる必要はないという空気になっている。
多くの人が声を上げ協調性の名の下にいじめられっ子が耐えることで平穏が生まれる、という考えは間違いだと様々なところで認識されるようになったからだろう。
「今までここに来る必要がなかったのは、輝夜さんや小鞠さんがいてくれたからなんですね」
厚みのあるベッドに硬い枕。校内の備品はその多くが劣化している。いくら清潔に保とうとしても経年劣化だけは避けられない。多くの人が利用していればなおさらだ。
もちろん逃げ場がないよりは逃げ場がある方がいいに決まっているけれど、どんどん活用した方がいいと主張するのは間違っているかもしれない。利用する側が言うことではないかもしれないけど……。
ベッドから時計が見えてそこまで時間が経っていないことに安堵した。始業式が終わって次の授業が始まっているとは思うけれど。
だってもし昼休みまでずっと寝ていたら絶対に誰かに何か言われるだろうし、下手したら労働環境が悪いと店長にクレームを入れられてしまうかもしれない……あんなに私の体に気を遣ってくれる人はいないのに。
ともあれ近くにあった自分の上履きを履きカーテンの敷居を出ると保健室の先生が……漫画を読んでいた。見間違いかと思って左右を見ても誰もいない。白衣を着て漫画を読んでいる先生しかいなかった。
「……起きたかい? 私は保険医の桜坂だ。普段なら仮病の生徒には退室してもらうところだけど君は違うようだし、何より君をお姫様抱っこで運んできた怪力のお嬢さんに失礼があっては殺されかねない。柊小鞠という生徒に弱点はないか? 脅されてね……何か知らないかい?」
「あの、私が心配のあまりつい強引な態度をとってしまったと思われているかもしれません……普段はとてもいい人なんです。ちょっと手が出てしまうところがあるだけで……あ、その手が強いのは分かっているんですが……」
「体を調べてくれって彼女は強硬に主張したんだ。でもそれは保険医じゃなくて医者の仕事だって言ったらね、不真面目な保険医はこうだって」
「あの、弁償します……お金はお支払いしますから」
「いや単行本派から電子書籍派に変えるいい機会だったから……感謝してるよ? ……まあお金をくれるって言うならもらうけど……もらったら殺されたりしないかい?」
それなりの厚みのある単行本が左右に分かれてしまっている。おそらく小鞠さんが怒りのあまりに引き裂いてしまったのだろう。その現場には……いや、いたにはいたのだけど意識がなかったからいなかったことにしよう。
ともあれ桜坂先生はこれを機に仕事中に漫画を読むのはやめた方がいいと思う。次にもし同じようなことがあったら今度は先生がサバ折りにされてしまうかもしれない。
保険医なのに病院送りなんてことになったらこの学校の保健医のなり手がなくなってしまう。
もちろん小鞠さんにも注意しておくつもりだけど、聞いてくれるかどうかまでは保証できないので……。
「さてここからは真面目な話だ。君が倒れたのは疲労でも何でもなく心因性のもの。何か思い当たることはないかい?」
「……内緒にしておきたいのですが」
「それはもちろん。生徒のプライバシーは尊重する主義だよ。これはいくら暴力を振るわれても覆せないからね。まあ死人に口なしとはよく言ったものだ」
「いくらなんでもそこまではしないと思いますよ!?」
座りたまえと言われたので不要な争いは避けたい私は素直に従った。飲み物は何がいいと聞かれたので「おごりですか?」と冗談交じりに尋ねると、
「まさかかぐや姫の生まれ変わりに飲み物を奢ってもらえるなんて思わなかったよ。購買にあるものは一通り買ってきたみたいだからどれか選んでくれって」
「じゃあパックのココアをいただきます」
「誰か買うんだっていうゲテモノドリンクは選ばないのかい?」
「必要ならいただきますけど、それを飲んで倒れたら小鞠さんがカチコミをかけてくると思うので」
「それは恐ろしいな同僚の先生にあげよう」と保険医の桜坂先生は軽い調子で同僚を犠牲にしてこちらに向き直った。
これほどの美貌なら下心のある先生ならゲテモノドリンクでも飲んでしまうと思う。なんでそんなものが購買にあるのか分からないけど、きっと罰ゲームとかで需要があるんでしょうね?
「えっと、地元の高校に通えないくらい……そう思っていただけかもしれないんですけど悪い噂を流されてしまって」
「まあ君の住所からして何か訳ありなのは分かるよ。それでその転校生の女子生徒と何か関係が?」
「その人が噂を流していたんです」
「おっとぉ……?」
言葉にするのをためらっているってことは、きっと深い理由があるんだろうけどさすがにそこを追求するのはやめておこう。きっとダメージを受けるのは私の方だろうし。
「確かアイドルとか言ってたかい? 周囲の評判はよく勉学にも真面目で人望が厚く芸能活動にも学業にも熱心だって……」
「そうですね、そう見えると思います」
「君の言葉は信じてもらえなかったのかい?」
「耳を貸してくれたのは私の家族くらいでした」
当時は彼女がなぜあんなに熱心に関わってくるのかが分からなかった。周りの目がまとわりつくようで何か変だと感じ始めた。
私が何を言っても信じてもらえずそれでも熱心に春夏秋冬さんが誘ってくるから会合みたいなクラスメイトの集まりにも参加した。結局人気者になるのはいつも春夏秋冬まどかさんで……。
人は誰にでも裏の顔があると思う。でも彼女の裏の顔は人が絶望しないと見られない。
強い口調で秘密を暴露された時、私にはもう友達なんてできない、私のことを好きになってくれる人なんていないんだと思った。
バイトは母や彼方ちゃんに勧められて始めたけれど本音を言えばすごく嫌だった。でも今考えると学校以外に行ける場所を作れたのはすごく良かったと思う。千秋さんも心の底から信頼できる人だって分かっている。
「私は今でも誰かが笑っているのを聞くと、自分のことを笑っているんじゃないかって考えてしまうんです。輝夜さんのことも小鞠さんのことも友達だと思っています。なのに心の底では冷たいなにかが違うって叫んでいるんです……あんなにいい人たちなのに、私はひどい人間ですよね」
「ひとついいかい」
桜坂先生は私の肩の辺りを両手で掴み力強く握った。私の体は緊張で硬くなった。まあ誰かに触れられたら誰でもそうなるとは思うけれど……。
「ひどいのは罪を犯した人間だ。被害者ではない。もちろん君の言葉を一方的に信じるわけじゃないが否定するつもりもない――これだけは覚えておいてほしい。ひどいのは犯罪を犯した側であって被害者ではないんだよ」
先ほどまで緊張していた体が徐々にほぐれていくのを感じた。視界が潤んでいき口から嗚咽が漏れているのを自覚している。
さっき会ったばかりの人なのに小鞠さんに脅迫されているというのにどうしてこんなにも安心してしまうのだろう?
「保険医としては君の授業参加を推奨しない。ここで授業を受けたいというならそう手配することもできるがどうする?」
「今の私には……友達がいますから。信頼できる友達が」
「そうか……でも無理はするな。あと生徒指導の先生にも担任にも伝えておくよ」
「でも深い事情は」
「もちろん隠す。君が倒れたのは転校生に原因があるということだけだ。だがな君の周りは高校生だ。小学生でも中学生でもない」
「それはどういう?」
「今まで出会った人と比べて頼りになるということだ。君も周りの人から頼りにされているんだろう? ……ただ働きすぎはよくない。普通の学生は週に6日もバイトには入らないよ」
「そうだったんですか!?」
仕事を覚えるまではできるだけシフトに入ろうと考えてそのままのペースでアルバイトを続けていたけれど、パートさんの「あなた働きすぎよ」という言葉は真実だったんですね……そうかぁ。
ともあれ私はさっきよりずっと調子がいいので保健室を出て教室まで一人で歩いていく。これなら授業にもちゃんと参加できそうだ。




