第4話
ひんやりとした空気が漂う人気のない場所に私は呼び出されていた。
目の前にはまるで氷のような威圧感を漂わせたクラスメイト――春川輝夜さんその人。人気ゲーム「ネコ娘」に出てくるアシェラがもし現実に存在したら、きっとこんな鋭い目をしているのかもしれない、などと場違いなことを考えてしまう。
不敬極まりないことを口にしたが最後、私の身元不明遺体が東京湾か奥多摩の山中で発見されることは、ほぼ間違いないだろうけれど……。
恐怖で、自分でも気づかないうちに膝が微かに震えているのが分かった。
「さて」
春川さんは、静かに、しかし有無を言わせぬ重い響きで切り出した。
「昨日、あのコンビニで働いていたのは貴女……でいいのよね?」
尋ねるような優しい語尾でありながら、その瞳は「答えはとっくに分かっているのよ」と雄弁に語っていた。確信を持っている者の揺るぎない視線だ。
こんな人気のない場所にわざわざ呼び出して、こんな確信に満ちた質問をするということは……これから、人前では絶対にできないようなことをするつもりなんだ。
口封じ? それとも脅迫? あるいはもっと恐ろしい何か……?
背筋に冷たい汗が流れるのを感じながら、私は必死に平静を装おうとした。
「は、はい……ええと、四月から、働かせて、いただいて……や、ます……」
しどろもどろになってしまう。敬語を使うべきか、それともクラスメイトとして少しくだけた方がいいのか。
店長は目上の人だから当然敬語を使うけれど、春川さんは同じクラスで学ぶ仲間(あまりにも天と地ほどの差があるけれど)なんだから、本来ならそこまでかしこまる必要はないはずだ。
むしろ、少しくだけた態度で話しかけた方が、彼女の警戒心を解くことができるのかもしれない。
……でも、無理だ。今の彼女は、クラスで見せるあの太陽のような輝かしい笑顔とは全く違う。まるで危険な秘密任務を遂行中のエージェントか何かのような、張り詰めたオーラを全身から放っている。
とてもじゃないけど、「マジ卍~? 昨日ネコプリ爆買いしてたけど、推しでも出た~?」みたいな、陽キャっぽい軽いノリで話しかけられる雰囲気ではない。
私の過剰な怯えを見て取ったのか、輝夜さんはふっと息を吐き、ほんの少しだけ表情を和らげた。
「……ああ、ごめんなさい。別に貴女を威圧しようとか、すごんでいるわけではないの……ただ朝はどうしても弱くて、自分でも気づかないうちに、不機嫌に見えてしまうのよ」
朝早くにこんな人気のない場所にわざわざ呼び出しておいて、その言い訳はちょっと苦しくないですか……? とは思ったけれど、相手が「怖がらせるつもりはない」と明言する以上、私がそれを疑ってかかるのは、円滑な(そしておそらくは、私の身の安全のための)コミュニケーションを阻害するだけだろう。
相手に悪意がない(と主張する)なら、こちらが一方的に折れて、相手の言うことを受け入れるしかない……って、それじゃまるで友情の奴隷じゃないか!
あ、そういえば、私にはそもそも、奴隷になるほどの深い友情を築けている相手なんて、ほとんどいなかったんだった……うん、なんだか無性に泣けてきた。全米も泣けるストーリーだ。
「……少し、個人的な話を聞いてもらってもいいかしら」
春川さんは、どこか遠くを見るような、少し憂いを帯びた目で続けた。
「私は、自分でも自覚があるくらいには、多くの生徒から……その、憧憬のような、特別な視線を向けられているの。ただ、もし、その今の私の人気や評価が、高校に入ってから無理して作り上げた……いわゆる『高校デビュー』で勝ち得た、本当の私ではない、不本意なものだったとしたら……夏野さんは、どう思う?」
そう言って彼女は少しだけ悲しげに、困ったように眉を寄せた。その表情は、普段の自信に満ち溢れた彼女からは想像もできないほど脆く、人間味に溢れて見えた。
人気者であることを誇示しているのではなく、むしろ、その虚像のような状況そのものに戸惑い、密かに悩んでいるように見えたのだ。
物事がうまくいくこともあれば、そうでないこともある。そして、一度うまくいってしまうと、そこから方向転換するのは、失敗した時よりもずっと難しいのかもしれない。
周囲からの期待とか、これまでに積み重ねてきたイメージとか…それを自らの手で壊すのは、相当な勇気がいることだろう。
デビュー……華やかな社交界などに初めて登場すること。最近では、「高校デビュー」というと、高校入学を機にそれまでの自分とは違うキャラクター――
例えば中学時代は地味で目立たなかった子が、高校に入って急に垢抜けて派手になったり、内気だった子が無理して明るく振る舞ったり……そういう「新しい自分」になる、といったニュアンスで使われることが多い。
ということは、つまり……過去の春川さんは、少なくとも完璧超人なキャラクターとは、かなり、あるいは全く異なっていて……それこそ、昨日のコンビニでの光景のように、『ネコ娘』のコラボ商品を大量に買い込んでも全くおかしくないような、オタク気質な一面を持っていた、と考えても、あながち間違いではないのかもしれない。
その推測を裏付けるように私は少し意地悪な質問を、しかしあくまで心配しているかのように装って投げかけてみた。
「……ちなみに春川さんが朝弱いというのは、もしかして深夜アニメとかを、どうしても放送時間にリアルタイムでご覧にならないと満足できない、といったご性格が原因だったり……するのでしょうか?」
「まあ、今は便利な配信サービスが主流となっている昨今だけれども」
春川さんは少しむきになったように、しかし表情はあくまで冷静さを保とうとしながら答えた。
「録画や配信で後から視聴することが、必ずしも正義だとは、私は思わないわ。好きなアニメ作品に対する敬意と愛の表現として、可能な限り『オンエア』…つまりリアルタイムで視聴するのは、ファンとして当然のこと……ただし、それによって翌日の『リアル』……すなわち、学業や最低限の身だしなみ、他者との円滑なコミュニケーションといった、社会生活を営む上で必要な要素に支障をきたすようなオタクの在り方を、私が正当なものと見なすことは、決してないけれども」
彼女はそこで、ふん、と小さく鼻を鳴らした。
「もちろん、やむを得ない精神的な理由でどうしてもお風呂に入れない方々への配慮は必要不可欠よ。でも、ただ単に面倒くさがって、不潔な格好のままイベント会場に現れたりするような人にはその有り金を推しに注ぎ込む前に、まず自分の身なりを清潔に整えなさい、と強く主張したいところね」
なるほど好きなアニメは可能な限りリアタイ視聴派、と。でも、もし寝不足の原因がそれだとしたら、アニメが放送されない曜日はぐっすり眠れているはずだ。
週に何度か快眠できる日があれば、毎朝のようにあんな眠そうな顔をして、不機嫌オーラを振りまくこともないんじゃ……?
『寝だめなんて、人間の身体の構造上できないから、結局毎日眠いんだ』と言われてしまえばそれまでだけれども。昨日の『ネコ娘』への熱烈な課金っぷりからして、まさか週に一日、深夜アニメを一本嗜む程度、なんていう上品な話ではないはずだ。
私は確信に近づきながら、最後の核心に迫る問いを、できるだけさりげなく投げかけた。
「……ちなみに、その『可能な限りオンエアで視聴されている推しアニメ』というのは、差し支えなければ、週に何本ほど……?」
春川さんは一瞬、答えに窮したように視線を泳がせた。そして、ややあってから、人差し指と中指の二本を立てて
「二本ですか。意外と少ないんですね? もっとたくさんご覧になっているのかと……」
「に、にじゅっほん……」
にじゅっほんかぁ……




