第39話
数式で答えを導き出すように、ただ一つの完璧な解を求めようとすると、人は往々にして、何を問いかけていいものかさえ分からなくなってしまうものだ。
私たちが当たり前のように教科書で習い、使っている公式や概念も、アインシュタインやニュートンのような偉大な先人たちが、気の遠くなるような長い時間をかけて、試行錯誤の末に答えを見つけ出したものが多い。
つまり誰かが地道な努力を積み重ねてきたからこそ、今の私たちは、ポンと変数や何かを放り込むだけで、簡単に答えを導き出せるのだ、と夏野遥は考えた。
そう考えると、私が今胸の中で抱えている、形にならない漠然とした問いに対する回答が、些細な問いかけ一つで簡単に導き出される可能性は極めて低いだろう。
そもそも完璧な解を求めようとする地点で、私は問題の性質を取り違えているのかもしれない。お門違い、というやつだ。
それでも誰かが不必要に傷ついたり、深くへこんでしまったりする姿は、ごくごく一般的な感性しか持たない私でも見たくない、と考える次第であり、そう考えると、昼休みに何か重大事があったと思しき様子の輝夜さんに、迂闊に「中学時代のことについて」問いかけることに、私は二の足を踏んでいた。
昼食を食べながらの、賑やかな交流のさなかに、木村さんがデータキャラであることをアピールするように、眼鏡のフレームに指をかけ、くいっと上げ下げしながら、ちらりとスマホの画面を見て言ったのだ「私は、春川さんのことをよく知っています」と。
「そういえば、私はそこまで輝夜さんのことを詳しく知らないかもしれません」と、これまでの彼女との関係を思い返すように私が言うと、隣にいた赤井さんと青山さんが、揃ってなぜか焦った様子で返してきた。
「いやいやいやいやいやいや、そんなことないって! 夏野さんは、春川さんマニアだと思うよ?」「そうだよ、このクラスの中でも、一番詳しいと思う!」
(一番詳しいのは、どう考えても小鞠さんだと思うけどな……?)
内心ではそう思ったものの、ここで彼女たちの言葉を強く否定して角を立てるのは、私の性に合わない。だから「そうですか?」と、少し首をひねりながら、曖昧に返事をするに留めた。
「そこでです」
木村さんは眼鏡を直し、まっすぐ私を見つめて続けた。
「データキャラである私と、夏野さん。春川輝夜さんに対する知識で、勝負をしましょう!」
それは、別に競い合うような性質の内容ではないことは分かっていたけれど、周りの赤井さんと青山さんが、「おーっ!」「いいね!」と、拍手をして場を盛り上げてくれるので、私はその空気に乗ることにした。
ただし、「プライベートな内容に深く踏み込む質問は避けていただけるとありがたいのですが」と、小さな釘を刺した上で、「では、どうぞ」と、できるだけ穏やかな口調で言ってみる。
「では、第1問です」
木村さんは、クイズ番組の出題者のように、少し間を置いて宣言した。
「春川輝夜さんの現在のあだ名は、『青葉ヶ丘高校のかぐや姫の生まれ変わり』ですが、中学時代、周囲からは、一体何と呼ばれていたでしょうか?」
中学時代のあだ名、か……。微妙にプライベートな内容に踏み込んでいる気もするけれど、彼女が「周囲から」何と呼ばれていたか、ということは、その情報が少なからず周囲に広まっていた、ということだろう。
輝夜さん自身が、そのあだ名を知っているかは分からないけど、木村さんがわざわざ最初の質問として聞いてくるくらいだから、もしかしたら同じ中学の生徒なら、誰でも知っているようなことなのかもしれない。
事実と異なる情報を広められてそれが定着してしまい、本人が否定することもできない、という理不尽な状況も世の中には存在する。でも、輝夜さんに限っては、そんなことはない、と信じたい。
ただ、私が知っている輝夜さんは、高校に入ってから劇的に変化し、その美しい姿が学内に広まった、という印象が強い。
「高校デビュー」という言葉が彼女ほどしっくりくる人間はいない、と思っていた。だから、「中学時代のあだ名」が、彼女の今のイメージに繋がるような、明るく輝かしいものであるとは、正直思えなかった。
以前、彼女は「変わろうと思った自分」について、どこか深刻そうな面持ちで語っていた。
その言葉が、私の中に強く残っている。だが、今、木村さんが朗らかにその話題を出す様子には悪意があるようには見えなかった。
周囲の赤井さんと青山さんの反応も、輝夜さんの「黒歴史」を嘲笑うようなものではなく「ああ、知ってる。知ってる、それ!」という、どこか懐かしむような、あるいは興味津々といった様子だった。そこには、後ろめたさや悪意は感じられない。
「ここだけの話だけど……今も、すごくご大層な名前だよね?」
私が少し困ったようにそう言うと、木村さんは、私の答えが全く見当違いであることを察したのだろうか、眼鏡の奥の瞳を少し見開いたように見えた。
「あれ? もしかして、分からない?」
「……すみません、輝夜さんと中学時代の話、あまりしたことがなくて」
私の答えを聞いて、三人から一斉に驚きの視線を向けられた。それは、「え、そんな話もしてないの?」という単純な驚きというより「彼女なら、てっきりもう話しているものだと思った」とでも言いたげな、不思議な驚きだった。
確かに、輝夜さんは、自分のことについてさらりと調子の良いことを口にすることがある。
でも、それは決して自慢しているわけではない。彼女にとっては紛れもない事実であり、隠す必要もない、当たり前のことだと思っているのだろう。時々、小鞠さんから手痛いツッコミが入ることもあるけども……それは、心理面ではなく、大抵が肉体的なツッコミなのだけれど。
「正解は『大森中学の全ての美少女を過去にする女の子』でした」
木村さんが告げた正解に、私は思わず口をあんぐり開けてしまった。
「今でも、その『全ての美少女を過去にする』と言われていたほどの美貌から考えると、ずいぶん大人しい感じになってるのに、驚きが隠せませんよ!?」
私の言葉に、三人は笑った。だが、私自身はそれ以上に、「中学時代から、既に彼女の美しさが周囲に広く認識され、このような形で語り継がれていた」という事実に、心臓がバクバクと音を立てていた。
彼女は確かに「変わろうと思った自分」と、あの時、真剣な表情で言っていた。あの言葉が、今回知った事実とどう繋がるのか、嘘だったのか、それとも本当だったのか、私には分からない。ただ、あの時の彼女の真剣さだけは、紛れもなく本心からだったに違いない、と信じたい。
でも、もし、あの言葉の内容が彼女の口にした事実が、嘘だったとしたら……私は、何を信じて良いのか分からなくなってしまう。信頼の根幹が揺らぐような、そんな感覚に襲われた。
何か、心が冷えるような感情が、胸の奥からじわりと這い上がってくるのを感じ、「自分自身がこの状況を理解しようとすることを拒否し、輝夜さんを、その過去の事実をもって軽蔑していることに気づいてしまいそう」になり、思わず首を強く左右に振った。
私は、そんなことを、彼女に対して思えるような立場の人間じゃない。
輝夜さんは、私とこんな風に仲良くしてくれている。友人と呼んでも良いのかもしれない関係を築けている。
その友情を、たった一つの過去の事実や、彼女の隠し事かもしれない言葉の真偽で台無しにしていいわけがない。
隠し事の一つや二つ、人には誰にだってあるだろう。何か理由があって、あの時、ああ言ったのかもしれない。それに、自分の気持ちを全て、ありのままにさらけ出せたら、人間はこれほど苦労しない。心の中に内緒にしておくことくらい、誰にだって、ある、あるよね?
周りのみんなも、私の出すただならぬ雰囲気に気づいたのだろう。輝夜さんに対するクイズは結局一問で終わった。
それでも、この昼休みの交流によって、彼女たちとの距離が、今までと比べて縮まったのは、間違いのないことだった。
青山さんからは「今度、採寸させてね」と、にっこりとした、どこか意味深な笑顔で言われた。それを聞いていた赤井さんと木村さんからも、「見学料払うので、よろしくお願いします」と、軽い調子で続けられた。
「い、いえ、私にはそんな価値はないので、無料で全然いいです」と、つい小さい声で言うと、「すごい! さすが、土下座をしたら逆バニーをしてくれる女の子だ!」と、三人はなぜかとても喜んでくれた……喜んでくれた、のかな?
放課後。午後の授業を終え、少し暗澹とする気持ちを引きずりながら、まるで先の見えない隘路を歩くような心持ちでいると、背後から、聞き慣れた朗らかな声が響いた。
「遥ちゃん、途中まで一緒に帰ろうか?」
小鞠さんだった。いつもの、何があっても揺るがないような、明るい笑顔。普段なら、「申し訳ないな」という気持ちの方が勝るのだけれど、今日の私は、その温かい笑顔にただひたすら甘えたい気分だった。




