第36話
満員電車の乗客を「寿司詰め」と表現することがあるけれど、今日の電車は、もしこの状態で米を握った寿司を提供されたら、固すぎて顎が外れるのではないかと本気で思うほどだった。前後左右から容赦なく圧がかかり、呼吸をするのも一苦労だ。
そんな地獄のような空間で唯一の救いがあるとすれば、青葉ヶ丘高校の最寄り駅に到着するたび、自分と同じ制服を着た生徒たちが次々に列車から解放されていくことだ。
もっともその人数と同じくらい、あるいはそれ以上の人が入れ替わりに乗り込んでくるのだけれど……毎日、この満員電車で通勤先へ向かう方々がいることを考えると、改めて、本当にお疲れ様です、と頭が下がる思いだった。
降り積もったイチョウ並木の黄金の葉を掃いても掃いてもきりがないように、車内は絶えず人と熱気に満ちている。そんな車内での体験を反芻しながら、これで毎朝・毎夕、大きな事故がないのだから、日本の鉄道網は本当に優秀だな、と感心していると、改札を抜け、校門をくぐったところで、こちらに心配そうな声で問いかけてくる心優しい人が現れた。
「あれ? どうしたの、遥ちゃん? 髪の毛、ちょっと乱れてるよ」
小鞠さんだ。彼女は登校するなり、まだ自分の身支度もまばらな状態で鞄からポーチを取り出し、慣れた手つきで櫛を出した。
そして、何も言わない私に「ちょっと失礼」と断って、私の跳ねた髪を優しく梳いてくれる。その手つきは、まるでベテラン美容師のようだ。「お客様、かゆいところはございませんか~?」「ええ、特にございません~」なんて、普段は絶対にしないような、都会の垢抜けたJKがするらしい会話を、つい彼女に合わせて演じてしまう。
「遥ちゃんってほら、登校があれがあれ、だったでしょ?」
小鞠さんが、私の以前の登校スタイルについて、周りの生徒に聞かれないように配慮して曖昧な言い回しで尋ねてくる。彼女の気遣いを汲み取り私もそれを踏まえて、核心には触れずに応じた。
「ええ、まあ。自分の足で前へ進むことを、ようやく関係各所に了承していただけた、と言いますか」
私がバイト先の店長である千秋さんに毎日送ってもらっていたことは、一部の生徒の間では知られているだろう。
ああいう待遇は、他の生徒からすれば羨ましいと感じるかもしれないし、やっかまれても不思議ではない。
私が人から疎まれることを極端に恐れているのを、小鞠さんもよく理解してくれていて、このように言葉を選んでくれるのだ。
こういう細やかな心遣いが本当にありがたいなと思うと同時に、私自身が彼女に何かお返しできているのだろうか、と不安にもなる。
ちなみに今日の電車通学は決して昨日の件で千秋さんと仲違いしたからではない。今後もバイト先で働くことも決まっているし、電車通学というスタイルもまた、ずっと続くわけではないらしい。
「示談金として百万よこせ、とかでもいいんだぞ」と千秋さんは言っていたけれど、私は「いえ、私の中で、今までと千秋さんとの関係が変わる理由はありませんので」と答えた。
あれだけのことをされて何も変わらないというのは普通ではないのかもしれないが、少なくとも私の中では千秋さんへの感情や、彼女と関わることへの迷いはなかった。
「ああ、そうだ。小鞠さんにも、ちょっと聞いておきたいことがあったんです」
「なになに~? 何でも答えちゃうよ~? スリーサイズは下から……」
「いや、そこは普通、上からなんじゃないですかね!? って聞くつもりもないですけど!」
近くにいた何人かの生徒が私たちの会話に耳をそばだてているのが気配で分かった。小鞠さんはそれに気づいて、話を少し脱線する方向に向けたのだろう。私も、それに同意するようにあえてそのふざけた調子に乗ってみた。だけど、これから私が尋ねようとしている話は、そんな軽薄に記憶されるような内容ではない。
「小鞠さんは何か私に嘘をついていることとか、ないですよね?」
「え? うーん……実は、あるんだ」
小鞠さんの言葉に一瞬、心臓が跳ね上がった。彼女の顔をじっと見つめる。
「……うん。昨日、デザートを食べ過ぎて、体重が少し増えてしまったことかな」
「無い」という答えを期待していたわけではない。場所を変えようという話でもない。ただ、彼女のその言葉の中に、私を欺こうとする意図や、何か大きな秘密を隠しているような含みが全く感じられず、私は心の中でふっと安堵した。
もちろん、小鞠さんにも、何らかの理由で私に話していない「隠し事」はあるのかもしれない。だけど、それは私を騙しているという意味での「嘘」ではなくて、ただ単に、私にする必要のない、あるいは話すタイミングではない話題だから、心の中に秘めているだけのこと。
全てのことを詳細に明かせなんて要求するのは、何様のつもりだって話にもなる。
「でも、どうして急にそういうことを聞くの? ああ、もちろん。何でも聞いてって言ったのは私だから、そこに不満があるわけじゃないよ?」
「私の中で、一番怖いのは……友達に、嘘をつかれることだって、気づいたんです。もちろん、心の中の全てをありのままに話すなんて、誰にだって無理なことだけど、少なくとも、隠し事はなしにしようって。だから、私も言えることは、だいたい全部話すようにすしますし……」
これは昨日の出来事を通じて、漠然と感じていた不安が形になったものだったのかもしれない。信頼している人に裏切られることそれはきっと、自分が想像する以上に深く心を抉るだろう。
「そっか……」
小鞠さんは私の言葉を静かに受け止めるように頷いた後、いつもの調子に戻った。
「じゃあ、上から……聞こうか?」
「それは、プライバシーの観点から秘匿したいと思いますよ?」
少しふてくされたように小鞠さんを見上げながら頬を膨らませてみせる。すると、小鞠さんは面白いものが見られたと言わんばかりに、コロコロと楽しそうに小さく笑った。
その笑い声や悪戯っぽい視線に、邪気や悪意は全く感じられない。彼女の存在そのものが、私の心を軽くしてくれるようだった。
だからだろうか、「じゃあ、次は胸の形が崩れてないかチェックしましょうか」という、相変わらず際どい冗談にも、思わず頷いてしまいそうになってしまった。




