第35話
嘘をつくたびに心がちくりと痛む。それは、誰かの期待を裏切っているような、自分自身が乖離していくような感覚だからだろうか。
実家へ戻り、母である美奈子に「楽しかった?」と聞かれたとき、私は精一杯の笑顔を作り「うん、すごく!」と答えた。
その声が、自分自身でも信じたいほど、うまく「楽しかった」を表現できていたと願うばかりだ。
自分の中に膿のように溜まった鬱屈とした思いを、もし誰か他の人の責任に転嫁できるのなら、これほど楽なことはないだろう。だけどそれは現実逃避でしかない。
結局のところ、自分が抱えている問題は、自分自身で解決するしかないのだ。
誰かに助けを求める、つまり「頼る」ことはできても、「誰か任せ」にして解決を待つことなどできやしない。
自分の足でしっかりと地面を踏みしめ、自分の頭で考え抜き、そして自らの行動で道を切り拓くことでしか、内面に巣食う問題は決して消え去りはしないのだ。
「うまく嘘をつけるようになったら、千秋さんみたいな格好良い大人になれるのかな」
デートからの帰り道、千秋さんは不意に「私のことは嫌いになれよ? 仕事も辞めたくなったらすぐに言え」と言った。
それはどこか突き放すような、それでいて私の自由を願うような響きを含んでいた。だけどもそんな気はさらさらなかった。
むしろ、もっとたくさんのことを、彼女から、そして世界から学びたいと、心からそう願っていた。それは、私が将来目指す明確な「道」という感じではない。
方向性があまりにも違いすぎるし、私自身も千秋さんのようなクールな雰囲気とはかけ離れているから何とも言えない。
でも……憧憬という感情は、自分とは違う道を颯爽と歩む人間にこそ、眩いばかりに輝いて見えるものなのかもしれない。
「私なんかに嫌われて欲しくないと思ってくれる人を、嫌いになることなんか、できるわけないのに……」
帰宅後自室のベッドに身体を仰向けに横たえながら、私はぼんやりと天井を見上げた。LEDシーリングライトの無機質な光が、白い壁紙の控えめな模様を照らし出し、それが何かの形に見えるような、見えないような気がした。
私の部屋には基本的に本しかない。いや、「本」と一括りに言ってしまうと語弊があるかもしれない。漫画やライトノベルが少し、それは主に妹の彼方ちゃんの部屋に入りきらなくなったものが流れ着いたものだ。
あとは、ほとんど学校に持っていく学用品や教科書くらいだろうか。まあ、学生だから仕方ないのかもしれない。でも、もし卒業したとして、部屋の物が急に増える姿など想像もできないな……もしかして、実家から出る、ということが、私を変わらせるのだろうか?
私の部屋にある、かろうじて「女子高生らしい」と言えるものは、たぶん鏡台くらいだろうか。そんなものしか誇れるものがないなんて、我ながら寂しい。お人形は子供っぽいかな? でも、昔からそこにあるものが急になくなるのは、ちょっと怖い気もする。
ああ、そうだ、思い出した。自分のものではないから、本来は自慢してはいけないのかもしれないけれど、母のツテで手に入れた、あの鏡台に並ぶコスメたち。
きっと、コスメに詳しい人が見れば、誰もが目を見張るような逸品なのだろうと、私は密かに思っている。
とはいえ、自分自身を「コスメ好き」と名乗れるほどではない。ただ言われた通りに使っているだけで、それぞれのブランド名がすぐに口から出てくるわけでもないし、こだわりがあるわけでもない。
「私って、なんてつまらない人間なんだろう……自分を好きだって気持ちも、結局は嘘だったんじゃないかな……? いや、そんなことないはずだ。これは、私が自分に嘘をつきたいだけなんだ」
暗澹とした気持ちがぬるりとした膜のように全身を包み込み、思わずベッドの上で悶える。どうしようもない痒みを何とかしたいと、身をよじる猫のような動きをしていると、不意に控えめなノックの音が聞こえた。
「お姉ちゃん、お風呂はどうかな? もう入ったとは思うけど」
「え!?」
千秋さんと別れて、まだ外が暗くなる前に帰宅したはずだ。もちろん、夕飯も家族と囲んだ。その時にも今日の出来事について、それなりにそつなく会話をこなせたような気がしていたのだが。
けれども、扉を開けてそこに立っていた彼方ちゃんは、まるで私の内面を見透かしているかのようだった。私が抱えている濁った、悄然とした気持ちについても。
そして、今日の滞在場所がラブホテルであると認識しているかどうかは分からないけど、少なくとも私がそこで入浴を済ませてきたことまでも、知っているようだった。
「ごめんね、お姉ちゃん。私は、知ってたんだ。二人が最終的にラブホテルに行くことも、そこで何があるのかも……そして、お姉ちゃんが、少し落ち込んで帰ってくるだろうってことも」
「彼方ちゃんが、私のために色々と動いてくれていたんだね? ごめんね、こんな頼りないお姉ちゃんで。いつも負担をかけてしまって。情けないな、私……」
夏野遥という人間がもしも公平無私で、誰からも頼りにされるような立派な人格者であったなら、妹に裏でこんな風に立ち回らせるような真似はしないだろう。
彼方ちゃんにそんな負担をかけてしまうのは、他でもない、私自身の力が及んでいないからだ。そして彼方ちゃんは本当に優しい子だから「お姉ちゃんのために」と、無理をしてでも頑張ってしまうのだろう。
「違うよ。私は、私利私欲のために頑張ってるんだよ」
彼方ちゃんは、若干肩をいからせ、まるで胸を張るかのような仕草をしながら、こちらをその小さな身体で通せんぼするかのような勢いで言い切った。その表情は、どこか挑戦的ですらあった。
「千秋さんはね? 自分の行動が失敗するって分かってたんだ。だから『後のことは頼む』って、私に言ってくれたんだ……頼まれごとはね、お姉ちゃんの代わりにセックスを成功させることだって」
「ちょっとちょっと待って? ちょっと理解が追いつかないから、お姉ちゃんにちょっと考えさせてくれないかな!?」
千秋さんが、今日の行動が自分の望む結果にはならないかもしれない、という予感を抱いていたことには私なりに気づいてはいた。
でも、それを彼方ちゃんの口から、しかもあんな形で聞かされると、やっぱり胸が締め付けられるように辛くて。
それにしても、彼方ちゃんに私のメンタルヘルスを任せるなんて……それってお姉ちゃんらしからぬ行動じゃない? 相手は年下なんだから、本来なら年上の私が励まして、元気づける立場でしょ? ――ここまでは、どうにか頭で理解できた。胸は痛いけれど。
「……彼方ちゃんに後のことは任せたっていうところまでは、理解をしたよ」
「うん。そこから、お姉ちゃんを元気にさせるために、姉妹でセックスを」
「いやいやいやいや、そこが全く分からないんだ! 彼方ちゃんはきょとんとした顔をしているけど、これ、大体の人が分からないんじゃないかな!?」
夏野遥という人間が常人よりも理解力がなくて、少しばかり頭の回転が遅いと言われるのは正直仕方のないことだろう。
故にこれから社会に出てからも、勉強を頑張っていけばいいんだ、と前向きになれる部分もある。
けれども、今耳に入ってきた言葉が、まるで「異世界語」か「宇宙語」レベルの意味不明さだったとき、私の目の前には周囲を囲む壁ばかりが見えてきて、まるで自分が袋小路に迷い込んでしまったかのような気分になるんだけど……?
「すごーく、簡単に言うとね」
彼方ちゃんは、これから1+1の足し算を教えるレベルの教育番組の先生みたいな立ち位置で人差し指を立てた。その、誰でも理解できる自明の理を、わざわざ教えてあげる、とでも言いたげな顔つきは、正直よく分からない。
――でも、もしかして、その分からない問題はこれで解決するのだろうか? いや、そもそも解決していい問題なのだろうか?
「私は、この身に年頃らしい女の子の性欲を、携えています」
「まあ、年頃だったら仕方がないんじゃないかな……人にもよるとは思うけど……」
彼方ちゃんのことを私はこれまでずっと大切にしてきたつもりだし、姉妹間の関係も良好だったはずだ。
だけど、その、私の中ではまだ「小さい子」的な扱いだった彼方ちゃんの口から、ごく自然な調子で「性欲」という言葉を聞くと、文字通り身悶えしたくなるような、これまでの解釈が全て覆されるような感覚に陥った。
今までの人生でメガネの着脱ごときで騒がなくてもいいのに、と周囲の反応を冷めた目で見てきたけれど、自分が信じていた「こうあるべき」という像の梯子を外されると、こんなにも醜い感情を抱くものなのかな……?
「でも、その性欲を晴らす対象は、お姉ちゃんなんだよ。オンリーワンなんだよ」
「な、なんで! 他に私よりも可愛い子や……いや、ナチュラルに女の子と結ばれる話をしちゃったけど、かっこいい男の子とか、普通にいっぱいいるでしょ!?」
「やだよあんな毛むくじゃら。肌のお手入れとかも全くしてないし、がさつだし、やる事しか考えてないし、年取ったらお腹ぽっこりになるし」
「彼方ちゃんちょっと待って! さっき自分が何を言ったか、思い出そうね!?」
少なくとも、今まさに姉妹でセックスをしようと提案してきた相手に、その「やる事しか考えていない」という理由でディスられるのは、我慢ならないと思う――ええと、殿方は、その、ジムに通ったりなんだりして頑張っていただくとして、私も彼方ちゃんと一緒にいつか「美魔女」と呼ばれる日を目指しますから……!




