第34話
「遥、君は他人に服を洗われるのは……いや、下着を洗われるのは平気か?」
大真面目な顔をして千秋さんはそう問いかけてきた。そのあまりに唐突で奇妙な問いに小粋なギャグの類だろうと深く考えもせず「平気ですよ?」と私は答えた。すると千秋さんは、涼しい顔のまま続けた。
「そうか、ならば脱げ」
そして、私に脱衣を促す。
「いったいどういうことですか!?」
「汗をかいているだろう?」
言われてハッとした――いや、もちろんそんなことは百も承知だった。だが、お互い様だろうと、この蒸し暑い季節に汗をかくのは自然なことだと、深く気にかけてはいなかったのだ。
夏場に汗による不快感を防ぐために汗拭きシートを活用するのは、男女問わず必須の身だしなみだろう。そして外出先のトイレに備え付けられたゴミ箱が、使用済みシートで嵩張っている光景も珍しくない……校内のは通年そうだと言われれば、ええ、それはまあ、その通りなんだけども。
さっきの猫カフェでは私は文字通り普段の百倍は猫たちと戯れ、動き回った気がする。平時でさえ「重い熱い……」と鬱陶しく感じていた胸元の不快感は、さらに増していただろう。
デオドラントスプレーでも隠しきれない何かを、千秋さんは感じ取ったのかもしれない。彼女に脱衣を促されるほど、夏野遥が尋常ではない状態になっていたのだとすれば、今いるこの場所――人目を忍びやすい場所を選んだことにも合点がいく。
ただ、一般的に他者に「服を脱げ」と要求する機会など滅多にない。ましてや、この場所が持つ意味合いを考えれば、私が誤解を抱いてしまうのも無理はないと思う。
「ただ、服を脱げと言っても、ここで一糸まとわぬ姿になれというわけではないぞ」
「ならばどういう意味で、その言葉をお使いなのですか?」
「ここにはバスローブというものがあって……ああ、遥はバスローブという文明の利器を理解する知能は持ち合わせているか?」
「着たことはないですけど、さすがにわかりますよ!?」
千秋さんは少し茶化すように言った。ここは男女が深く交流する場、いわゆるラブホテルだ。そのため、近くにはコインランドリーが備え付けられており、衣服の洗濯から乾燥までを一箇所で済ませられるのだという。
私はコインランドリーを利用した経験がないためピンとこなかったが、千秋さんはどうやら慣れているらしい。
「一人暮らしの学生には必須事項だ」と胸を張って言われたが、千秋さんは確かずっと実家暮らしだったはずでは……?
「アメニティもわかるか? 風呂を利用した経験は?」
「外で湯船に浸かる機会はなかなかないですし、その、ラブホテルであれこれした経験もないですけど、修学旅行で大浴場を活用した覚えはありますから……」
千秋さんは「ちゃんと脱いだ服は折りたたんで置いておけよ」とお風呂に向かう私に指示を出した。正直なところ「こういう場所のお風呂って利用していいのかな?」と一瞬躊躇したけども、わざわざ私の分までコインランドリーで洗濯してくれるというのだ。
その申し出を無碍にすることは一般的には他者に見せない私物を任せる羞恥心を、いとも簡単に乗り越えさせた。
浴室の扉を開けてまず驚いたのは、私のイメージしていた家庭用の浴槽とは全く異なる、広々としたそれだった。
けれども、千秋さんに言われた通り浴槽にお湯を溜め、「時間をかけろ」という言葉を忠実に守って身を清める。
さすがに髪の毛まで洗うわけにはいかないけど、汗でべたついた肌はいくらか清潔にできたと思う。
お風呂場から出るとそこにあるはずの脱いだ衣服が見当たらず、一瞬途方に暮れてキョロキョロと周囲を見回した。そして、「もしかして、バスローブっていうのは何も身につけていない肌の上に直接着るものなのかな?」と、今更になってその基本的な用途に気がついたのだ。
修学旅行では浴衣や上下スウェットだったし、学生が宿泊するような施設に、おあつらえ向きにバスローブが用意されている場所など……ないはずだ。
「だけども、着ないよりはマシだよね……」
そう独りごちながら頭の中でバスローブ姿を思い描き、どうにかこうにか身につけてみた。ふわりとした肌触りだが、なんだか落ち着かない。
部屋の中に戻ると千秋さんはまだ戻ってきていなかった。がらんとした空間に、なんとなく寂寥感を覚えながら、私はベッドの縁に腰掛けた。
何をするでもなく、手近にあったテレビのリモコンに手を伸ばす。電源を入れようとしたその時、「そういえば」と、ラブホ女子会というものに参加した友人が、エッチなビデオを観て盛り上がったというエピソードを思い出した。反射的に、リモコンをそのまま元の場所に戻した。
ただ何もせずにぼーっとしていると、風呂上がりのなんとも言えない倦怠感から、急に眠気が襲ってきた。
横になるだけ……少しだけ、そう思って体を横たえた途端、心地よい睡魔に抗うこともできず、意識はあっという間に薄れていった。
「へあ……あれ、すみません。寝てました……?」
「そうだな」
「顔が、近くありませんか」
私の問いに、千秋さんからの答えは返ってこない。美しい顔を眺めるのは、ある程度の距離が離れていれば「いいな」と純粋な感想を抱ける。
しかし、互いの頬が触れ合うのではないかと思うほど近い距離では、その美しさはむしろ凶器になり得る。
何というか、喉元に鋭い刃物を突き立てられているような、そんな種類の恐怖感を覚えていた。どうして黙っているのだろう? いつもはクールだけれど、もっと話す人なのに……?
「えっと、勝手に寝てしまったのは謝りますから、あの……」
「お前は、危機感というものが足りないな?」
「緊張感ではなく、ですか?」
「そうだ。狼の前で、羊が呑気に寝ていたらどうなると思う?」
「すごくチャレンジャーな羊だな、とは思いますが」
「だが、現実は非常だ。羊は食べられて終わる――ここまで言って、まだ危機感を覚えないか?」
心臓が、ドクドクと異常な速さで脈打っている。触れ合うのではないかという距離に人がいる。しかも、ベッドの上で。こんなにも綺麗な人が、私に……? え、今、何を考えた? 私は、肌を重ねることを考えたの? 許容した、ということ?
いや、それは現実に起きたら、きっと怖いという感情が先に立つだろう。でも、千秋さんは何の意味もなく、こんなことをする人ではないと分かっている。だから、この行動にも必ず意味があって、私に何かを求めているはずだ。
「お前が止めなければ、このまま最後まで行くぞ」
「それは、拒否しろという指示ですか?」
早鐘が鳴るような心臓の動きは変わらない。しかし、肉体が熱くなるのとは違って、寒くて冷たい、何かが心の中にじわりと湧き上がってくる。それは、本能的な拒否感に似ていた。有り体に言うならば、トラウマだろうか。
こんな風に覆い被さられたらたぶん、多分だけど……あとは一つになるだけだ。人に見られたら恥ずかしいような場所を誰かに見せつけ、情熱的な愛情を交わす行為だ。
――それは、嫌じゃない、気がするんだ。本能的な、体の深いところで感じるものとは、違うのかもしれないけれど。
「お前は泣き顔でさえ可愛いな? 実に私好みだ」
「……やめてください。自分で自分を傷つけるのは」
「何を言っている? 私は本能の赴くままにこの行動をしているだけだ」
「本当に千秋さんの手が性欲にまみれているなら、寝ている時に……私が拒否できる状況で、こんな問いかけをしたりはしなかったはずです――だから、違います。千秋さんは、私に拒否されるつもりで、こういうことをしている……そんなことは、やめてください……誰も、幸せになれませんから」
自分の中にある恐怖に怯えながら手を伸ばすのとは違った。誰かのためだと思ったら、自然と体が動いたのだ。多少言い訳じみた言葉だったかもしれないけど、私の本音も含まれていたから、セーフ、なはず。
「まあ、百歩譲ってよしとしてやろう。ただし、今度無防備にしていたら、迷わず襲うからな」
「未成年に対する淫行は、ポリスメンに捕まるのでやめてください!?」
果たして同性間の行為でもそれが当てはまるのかどうかは、専門家ではないので分からない。けれども、その後着替えた私の貞操は無事に守られていたので、まあ、これはこれで良しとする。




