第33話
「次に向かう場所は、とびきりの癒し系スポットだぞ」
千秋さんがそう宣言するので、先ほどセレクトショップで大きくてかさばるぬいぐるみを買うか真剣に悩んでいた彼女の姿を思い出しながら、私は問いかけた。
「あの、先ほどの場所は癒し系ではなかったんですか? ペンギンたちもとても可愛らしかったですが」
すると千秋さんはこともなげに、けれどどこか哲学的な響きを込めてクールに言い放った。
「ペンギンは人生だからな」
「人生とは……?」なんて問い返せばきっと面倒な問答になるだろう。そう直感し、私は当たり障りのない笑顔で返した。
「そういえばそうでしたね! 失礼しました」
内心の戸惑いを悟られぬよう、納得したふりを装う。
ふと、勝ち負けについて考える。スポーツや競争ならともかく、日常における勝ち負けなんて結局は自己満足の世界だ。
些細なことで勝った負けたと一喜一憂している人の人生は、なんだかとても窮屈で寂しそうに見える。
もちろんこれが石槍を手に狩りをする時代なら話は別だ。獲物を仕留められるか否かは文字通り生死を分かつ。
そこでは勝ち負けに徹底的にこだわらねばならないだろう。しかし、文明の発展が目覚ましい現代の……少なくともこの日本ではそんな状況は残念ながら少数派と言わざるを得ない。
もし現代でそんなことをしていれば、たちまち大きな騒ぎになるだろう。
そんなことを考えていると、不意に千秋さんが私を見た。
「遥は、ペットを飼ったことがあるか?」
名前で呼ばれることに少し背中がむず痒くなるような感覚があったけれど、何度か繰り返されるうちに、それも次第に薄れてきた。
ふとテレビで見るドッキリ番組の芸人さんを思い出す。彼らは毎回、初めてのような新鮮なリアクションを見せる。
あれがプロの技なのだろう。まあ、ドッキリの衝撃と名前呼びの慣れを比べるのは、少々的外れかもしれないけれど……。
「いえ、飼ったことはないですね。飼おうと考えたことすら、ありませんでした」
「ほう……何か理由があるのか? もしかして、アレルギーでもあるのか?」
「アレルギーは特にないと思います。小さい頃に検査したような記憶はおぼろげにありますが、何か注意を受けた覚えはないですね」
食品のパッケージ裏でよく見かける、大豆、甲殻類、乳製品といったアレルゲン表示。幸い私はそのどれにも該当しないけれど、それでも未知の何かに触れたり食べたりすれば、アレルギー反応が出る可能性はゼロではない。
そういえば彼方ちゃんが声優さんのラジオで聞いたという話を思い出す。軽いアレルギー症状が出たけれど笑い話にできる程度だった、というエピソード。「お姉ちゃんは大丈夫!?」と心配してくれた彼女に「え!? 頭がですか!?」と返してしまったのは、少し前のことだ。
「まあ、これが猫耳メイドとかだったら、アレルギーは関係ないんだけどな」
千秋さんが悪戯っぽく笑う。
「二次元の世界に拒否反応を示される方も、ごく稀にいらっしゃいますので……一概には」
アレルギーは好き嫌いとは全く次元の違う問題だけれど、時々それを一緒くたにしてしまう人がいる。そういう存在に出会うたび、情報のアップデートは本当に大切だと気づかされる。その人もいつか正しい情報を得て、みんなが幸せになれたらいいのに、と思う。
「……もしかして、猫カフェですか?」
「そうだ、猫カフェだ。癒し系だろ?」
「はい、すごく癒し系だと思います」
たけのこかきのこかという長年の論争に次いで、ネットなどで熱い派閥争いが繰り広げられる「犬か猫か」問題。
私自身はどちらかと問われても明確な答えを出せない。これまで、どちらとも深く触れ合ってこなかったからだ。
正直なところ、千秋さんがいくら「癒し系」と力説しても、先ほどの「ペンギンは人生」発言があっただけに、少し話半分に聞いていた。動物と触れ合えるカフェ、というのは、衛生面なども少し気になるところだし……。
しかし、店内に一歩足を踏み入れた瞬間、そんな懸念は霧散した。
「かわいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!!!!!!」
猫は、人生だった――いや、可愛いは、正義だった。
入る前のネガティブな感想など、跡形もなく吹き飛んだ。その圧倒的な可愛らしさは、もはや宇宙の法則、真理そのものだった。
「な、何ですかこの生き物は!? いや、猫というのは知っていますが、これは『猫』という名前の、可愛さの権化なのではないでしょうか!?」
私の足元に体を擦りつけ、甘えた声を出すにゃんこ。無理やり膝によじ登ってこようとする、やんちゃなにゃんこ。撫でて、と訴えかけるように鳴き声をあげるにゃんこ。こちらのことなどお構いなしに、マイペースに歩き回り、たまにチラリと視線をくれるクールなにゃんこ。その一つ一つの仕草が、たまらなく愛おしい。そのすべてを愛でたい。
猫とは、これほどまでに人間をその魅力で狂わせる生物だったのか――。
「お、おう……。存分に癒やされているようで、何よりだ」
連れてきた張本人である千秋さんが、私のあまりの豹変ぶりに若干引いているのが視界の端に入ったが、もうどうでもよかった。
「よちよちよちよち、可愛いでちゅねぇ……あなたは何てお名前でしゅか? にゃあ? まあ、可愛いお名前ですねぇ!」
自然と口元が緩み、頬が上がりっぱなしになる。こんな状態が続いたら、フェイスラインが輝夜さんのようにキリッと引き締まってしまうかもしれない。後日、小鞠さんに「遥ちゃん、なんだか顎がシャープになった?」と聞かれたら、「猫カフェで極上の癒やしを体験していたら、こうなりました」と答えよう……いや、それではただの怪しい人で、お店の宣伝にはなりそうにない。
カフェでは食事もしたはずなのに、記憶にあるのはひたすら猫と戯れていたことだけ。そんな夢のような時間からの帰り道、千秋さんが言った。
「ちょっと、ついてこい」
「はい。あの、猫トークしながらでもよろしいでしょうか」
「はは、いくらでも語れ」
千秋さんは笑って許してくれた。
そこで私は失礼のない範囲で、だが溢れる想いを抑えることなく、いかに自分が猫という存在に心を奪われたかを熱弁した。一通り語り終えたところで、千秋さんが切り出した。
「なあ遥は『ラブホ女子会』という言葉を知っているか?」
「え? ああ……漫画か何かで、見たことがあるような気はします」
「というわけで、やるぞ」
「なるほど……?」
猫カフェで心は満たされたとはいえ歩き回ったり猫と遊んだりした体は、確かに休息を求めていた。休憩スポットに入るというのは理にかなっている。それにしても、場所のチョイスが大胆すぎやしないか。
「そういう場所って、お高いのでは……?」
おそるおそる尋ねると、千秋さんはこともなげに言った。
「気にするな。私が出す」
「いえ、そんな! その分は、しっかり働いてお返ししますね!」




