第32話
千秋さんにどこに連れて行ってもらえるのだろうか。期待と少しの不安が入り混じる中、精一杯の愛嬌を込めて小首をこてんと傾けて尋ねてみた。
「それで、千秋さん。今日はどちらへ?」
すると、店長はちらりとこちらを一瞥し、実に素っ気なく一言。
「……お前には、そういうぶりっ子みたいな動きは似合わないぞ」
うぅ……小鞠さんや輝夜さんは「遥ちゃん、可愛いよ」って言ってくれたのにな……やっぱりあれは、女の子同士の、その場限りの社交辞令(特にかわいくはない相手への、当たり障りのない褒め言葉)だったんだ……そう思うと、ちょっとだけ凹んでしまう。
そんな私の内心を見透かしたのか、あるいは単に話題を変えたかったのか、千秋さんは場を改めるような、少しだけ明るい声色を使いながら続けた。
「まあ、行き先は着いてのお楽しみだ。多分、お前が行ったことのないような場所だと思うぞ」
「なるほど」
素直に頷いた。元来から私の活動範囲は、自宅と学校とバイト先のコンビニを結ぶ、極めて狭い三角形で構成されている(高校に入って、他県からの通学距離自体は物理的に伸びたけれど)そして何より、ことごとく友人という存在を作れずに生きてきた人生だったので、友達と連れ立ってどこかへ遊びに行く経験も、旅行の記憶等々も、驚くほど少ないのだ。
つまりは、千秋さんが「遥が行ったことのないところ」と説明する以上は私にとってそこは、ほぼ間違いなく「行ったことのない未知の場所」である確率が高いわけだ。
千秋さんはなんだかんだ言いながらも、私のそういう事情を何かと理解してくれているフシがある。
そのことがなんだか少し嬉しくて、つい自虐めかした本音を口にしてしまった。
「ふふ……そうかもしれませんね。今まで他の人とあまり関わらない人生だったので、こうして休日に誰かと連れだって歩くのって、すごく新鮮で、それだけで楽しいです」
黒歴史を自ら公開していくスタイル。
すると千秋さんは、茶化すでもなく馬鹿にするでもなく、ただ「そうか。良かったな」と、短く、しかしどこか励ますような温かい響きで言って、そして、不意に、私の手を、そっと握ってくれた。
驚いて隣を見る千秋さんは前を向いたままだったけれど、その横顔は、ほんの少しだけ、優しく見えた気がした。
「駅から近いんだ。だから、歩く距離もそんなにないぞ」
そっか、駅から近いんだ……二人で出かけるとなると、やっぱりそういうアクセスの良さとかもちゃんと考えるものなんだな……一人で行動するのとは違って、相手への配慮とか、事前の計画とか、人付き合いというのは、本当に考えることがたくさんあって大変だ。
「なあに、遥自身が」そんな私の思考を読んだかのように、千秋さんが続ける。「男どもがいや、女どもでもいいが、わざわざ時間もお金も手間もかけて『ぜひとも、あなたのために!』と、あれこれ考えて尽くしたくなるような、そういう『ふさわしい女』になればいいだけの話だ。そうすればお前は何もしなくても、周りの人間が勝手に貢いでくれるようになるだろうよ」
「それって、ただのヒモじゃないですか!?」
思わずツッコんでしまう。他者に、あれこれとやってもらえるのは、もちろん嬉しいようなありがたいような心持ちにはなるけれども、最終的には、やっぱり申し訳なさの方が勝ってしまうのだ。
そんなことを考えているうちに、どうやら目的の建物が見えてきたらしい。大きなガラス張りの壁と、青を基調とした涼しげな看板。中からは、楽しそうな人々の声が微かに聞こえてくる。
「……水族館、ですか」
目の前の建物を見上げながら、私は呟いた。
「……不満か?」
隣で、千秋さんが少しだけ低い声で尋ねる。
「いいえ」
私は首を横に振った。
「すごく意外でしたけど、確かに、行ったことのない場所だな、と思いました。ありがとうございます」
あまりに縁がなさすぎて、一瞬「何をするところだっけ?」と考えてしまったくらいだ。もちろん、すぐに「ああ、水の中にいる生き物たちが展示されている場所か」と思い至ったけれど。
それにしても「確かに行ったことのない場所だなと思いました」なんて、我ながらとんちんかんな――ややもすれば、歯に何か挟まったかのような、微妙なリアクションしかできなかったものだ。もう少し気の利いた感想はなかったのか。反省しきりである。
「まあ、あまり気にするな」
まるで私の心を見透かしたかのように、千秋さんが歩きながら言った。
「ここは、ペンギンがなかなか有名でな。ちょうどこれから、飼育員さんとのふれあいイベントの時間がある。それに合わせて来たんだぞ」
意外な言葉に、私は少し驚いて千秋さんを見上げた。
「……イベント、ですか?」
「そうだ。人間と同じようにな、ペンギンにだって労働……つまり、我々人間を楽しませるという、重要な仕事の時間があるんだ。そのショータイムというか、お披露目のタイミングを合わせないと、なかなか愛らしい姿を目に入れることはできない。私としては24時間働け、と言いたいところではあるが、まあ、かわいいので、特に何も言わないでおいてやる」
相変わらず、独特の言い回しをする人だ。
「……なるほど」
私は頷きながら、ふと疑問に思ったことを口にした。
「もしかして、店長……あ、いえ、千秋さんは、ペンギンがお好きなんですか?」
すると、千秋さんは心底不思議そうな顔をして、私をまじまじと見つめてきた。
「……は? ペンギンが嫌いな人類などこの地球上に存在するのか? もしかしてお前は実は人類ではなかった、とかいうオチか?」
「い、いえ! 好きは好きですし、たぶん、分類上は人類の範疇に入ると思います!」
慌てて否定する。ペンギンが好きかどうかの話で、よもや自分の種族分類にまで疑いをかけられてしまうとは。
ペンギンかぁ……正直、あまり馴染みがない。私にとってペンギンといえば、某プロ野球球団の自分をツバメだと思い込んでいる自由奔放なマスコットキャラクターくらいしかぱっと思い浮かばない。
本物のペンギンも、ベンチ裏とかで普通に競馬新聞とか読んでるのかな、なんて、ちょっとアホなことを考えてしまう。
……いや、もし千秋さんにそんなことを言ったら「そんな、ふてぶてしいだけの畜生と、健気で愛らしいペンギンを一緒にするな」と、本気で怒られてしまう気がする。
そんなくだらないことを考えている間に、私たちは薄暗い魚類の展示ゾーンへと足を踏み入れた。ひんやりとした空気が肌に心地よい。外の蒸し暑さが嘘のようだ。
壁一面の巨大な水槽の中を、色とりどりの魚たちが優雅に泳いでいる。普段、スーパーの鮮魚コーナーで切り身としてしか見ることのない魚たちが、こうして生き生きと泳いでいる姿を見るのは、なんだか不思議な感じがする。
まあ、隣を歩く千秋さんはそんな感傷に浸る様子は微塵もなく、美しいサンゴ礁や、巨大なエイが舞う大水槽にもほとんど目をくれず「ペンギンはこっちだ」とでも言うように、スタスタと迷いなく奥へと進んでいく。
よほどペンギンがお目当てらしい。その、普段のクールな店長の姿からは想像もつかない、子供のような一直線ぶりに思わず、ふふ、と笑みがこぼれそうになるのを堪えた。
クールな人が、意外と可愛いものが好きだったりするギャップって、なんだかすごく良くないですか?
それにしてもと私は隣を歩く千秋さんの横顔を盗み見る。仕事中の、あのピリッとした店長の顔とは違う、少しだけ力の抜けた、柔らかな表情。こうして、仕事とは全く関係のない場所で、手を繋いでいるわけでもないのに、肩が触れ合いそうな距離で一緒に歩いていると、なんだか不思議と親近感が湧いてくるというか……。
やっぱり仕事の時とプライベートでのお付き合いというのは、全然違うものなんだな、と改めて思った。
そうこうしているうちに、どうやら目的のペンギンコーナーに到着したらしい。
「どうだ? かわいいものだろう?」
千秋さんが、少しだけ得意げな声で言う。
「わあ……! 写真や動画で見てても十分愛らしいですけど、やっぱり、動きとか鳴き声とかを含めると、生で見た方が断然いいですね!」
実は、私が勝手にイメージしていたペンギンのイベントというのは、飼育員さんのかけ声に合わせて、ペンギンたちが一斉に高いところから水に飛び込んだり、芸をしたりして、最前列にいると派手な水しぶきが飛んでくる みたいな、もっとアクティブなショーだったんだけれども。
まあよくよく考えれば、外はあんなに暑いのだ。ペンギンさんたちの体調を考えれば屋内の涼しい場所で、こうしてのんびり過ごしている姿を見せてくれるだけでもありがたいことなのだろう。
聞いた話だと、野生のペンギンは、人間を見てもあまり警戒せず、自分たちと同じ、ちょっと大きくて奇妙な二足歩行の同類くらいに思っているらしくて、南極の観測隊員の後を、よちよちとついてきたりすることもあるらしい。
ここのペンギンたちも、かなり人間に慣れているようで、飼育員さんの指示に平気でそっぽを向いてマイペースに毛繕いを始める子がいたり、逆に寄ってきて、じーっと観客席の私の方に興味津々な視線を向けてくる子もいる。見ていて飽きない。
そんな、自由気ままなペンギンたちの姿を眺めながら、私はふと、隣の「雇い主」に尋ねてみたくなった。
「あの、千秋さん。もし店長としての視線で、この職場にペンギンを雇うとしたら、どうしますか? 採用します?」
すると、千秋さんは、ペンギンたちから一瞬だけ私に視線を移し、そして、間髪入れずに、きっぱりと言い放った。
「フン。言うことを聞かない部下は、即刻クビだ」
心の中で、深く、深く頷いた。やっぱり、どんなに可愛らしくても、組織の一員として働くには、最低限の協調性と規律が必要なのだろう。第三者だからこそ、「自由で可愛いなあ」なんて、のんきに眺めていられるんだろうな、と思う。
そんなことを考えていると、千秋さんは再びペンギンたちに視線を戻し、その口元には、やはり、どこか楽しそうな笑みが浮かんでいるように見えた。




