第31話
毎年のように最高気温を更新している気がする日本の夏。まだ六月だというのに、じりじりと肌を焼くような日差しは、このままいけば地球が灼熱地獄へと生まれ変わり、我々人類は滅亡するか、あるいは宇宙へと新たな居住地を求めて進出するしかないのでは……? なんて、壮大すぎる妄想をしてしまうくらいには暑い。
そんな暑さの中私は今日、珍しく「おめかし」をして、待ち合わせ場所の駅前広場にいた。
今日のこの格好は、全面的に母……元タレントの血が騒いだらしいお母さんと、ファッションセンスには定評(私の中で)のある妹の彼方ちゃんの手ほどきを受けたものだ。
普段の地味な私服とは違う白いフリルのついたブラウスに、軽やかな素材のストレートパンツ。少しは自分でもいつもより見栄えのいいものに変われている、と思いたい。
気のせいか街行く人々の視線が、普段よりも少しだけこちらに集まっているような気もする。
普段の自分なら「え、な、何か変なところありますか!?」って、即座に怯えてしまうところだけれども、今日に限っては、ファッションスキルの高い母と妹という二大巨頭に仕立て上げられたという事実が、ほんの少しだけ……それこそ儚いウスバカゲロウレベルの、一瞬で消え去ってしまいそうな、ちっぽけな自信を与えてくれていた。一日くらいなら、この自信、持ってくれるといいんだけど……。
「夏野。いい恰好しているな? 私もファッション雑誌を熟読して、セルフプロデュースを頑張った甲斐があったというわけだ」
不意に聞き慣れた、しかし今日はどこかいつもと違う響きを持つ声がした。振り返ると、そこには待ち合わせ相手である、九重千秋さんの姿があった。
ゆったりとした雰囲気の上質な白い長袖ブラウスに、シルエットが綺麗に見える、センタープレスの入ったネイビーのワイドパンツ。手には、落ち着いた色合いの上品なハンドバッグを持っている。
いつものコンビニでのラフな格好とは違い、ヘアスタイルもメイクも、洗練された「大人の女性」といった感じで、思わず見惚れてしまいそうになる。
「あ、店長、おはようございます」
つい、いつもの癖でそう呼んでしまう。
「おいおい、ここでは店長ではあるまい? 第一仕事が休みなのに、そんな風に呼ばれては、こっちも気が休まらないだろう?」
「あ、すみません……じゃあ、えっと……九重さん?」
「……千秋さんな」
「は、はい! お名前で呼ぶわけですか!? ですが、気が休まらないのであれば……ち、千秋さん」
なんだかものすごく気恥ずかしい。自分の名前を呼ぶのとは訳が違う、この妙な照れくささは一体何なのだろう。
私が頬を赤らめながら、ようやく彼女の名前を口にすると「ふん、初々(ういうい)しい奴め」と、千秋さんもまたどこか照れたような、恥ずかしげな表情をふっと浮かべた。
……母には「多分デート」なんて言ってしまったけれど、なんだかこういうちょっとしたやり取りの一つ一つが、本当に異性間のデートみたいに感じられてしまうのは、気のせい?
「さて、行くか」
千秋さんは、すぐにいつもの調子を取り戻した。
「プランは完璧に立ててある」
とはいえ、私は今日のプランについて、全く何も聞かされていない、完全なるノープラン状態だ。
本来ならば、「どこへ行くんですか?」とか「何をするんですか?」とか、二人で話し合って決めるのが普通なのかもしれないけれど。
「フッ……私の立てたプランが、お前にとって最も満足度の高い、最善のものであるに決まっているだろう?」
と、絶対的な自信と共に言い切られてしまっては、しがない部下である私が「は、はあ……承知しました……」と頷く以外の選択肢など、存在するはずもなかった。
何もかもを決めていただき、申し訳なさのような雰囲気を醸し出していたのだろうか。千秋さんは、それに気づいたように
「まあ、こういうのをあれこれ考えるのも、結構楽しいんだよ」
と、諭すように付け加えた。その言葉に少しだけ救われた気がして、私は場の雰囲気を一新するために、冗談半分で笑いながら返してみた。
「ふふ、でも、あんまり変なところには連れて行かないでくださいね?」
すると、なぜか千秋さんは、「ギクッ!」とでも効果音がつきそうなほど、痛いところを突かれた、みたいな大げさな動揺を見せた。
「コホン」
千秋さんは、わざとらしく一つ咳払いをすると、妙にキザな仕草で(気のせいかもしれない)胸に手を当て、宣言した。
「まあ、そういうわけだから、今日はこの大人の私が遥をビシッとエスコートしてやるぞ」
「わあ、ありがとうございます! やっぱり千秋さんくらいお綺麗だと、デートとか、もう数えきれないくらい経験されてるんでしょうね! こういうの本当に初めてなので、心からお任せします!」
母親と二人で出かけることすら、自分の自信のなさから控えてしまっていた私だ。上司と部下という、他人ほど距離は離れていないけれど、かといってすごく近いわけでもない……ただ、親密か親密でないかで判定すれば、間違いなく「親密」に分類されるであろう、この関係での初めてのデート。期待と緊張で胸がいっぱいになる。
「ふふん、まあな」
千秋さんは、なぜか得意げに鼻を鳴らした。
「伊達に『デートマイスター』の称号を欲しいままにしてきたわけではないからな」
デートマイスター……? 聞いたことのない称号だ。ドイツの職人制度に、そんな専門分野が? いや、違うか。少なくとも、私が働き始めてからの数ヶ月間、店長としての職務に励む千秋さんの姿しか見ていないので、その「マイスター」としての活動実態は、想像することすらできない。
……もちろん「春からお付き合いさせていただいてますけど、どなたかと二人で出かけている様子なんて、一度も拝見したことがないんですが、いつ頃マイスターとしてご活動を?」なんて、藪をつついて顰蹙を買うような真似はできない。
「……まあ、正直な気持ちを言わせてもらうなら、お前でボルダリングをしたいところなんだが」
唐突に、千秋さんはとんでもないことを言い出した。
「一体どういうことなんでしょうかね!? 私にそんな出っ張りがあるとでも!? 胸とお尻ですか!? ド直球のセクハラありがとうございますか!?」
「こら、いきなり騒ぐな!」
我ながら、人に対してなかなか言えないセリフだと思う……いや、もしかしたら漫画とかドラマとかならありふれた表現なのかもしれないけれど、少なくともわたしの人生経験の中ではこんな言葉、一度たりとも聞いたことがない「お前でボルダリングがしたい」
むわっとした熱気が肌にまとわりつく。綿密に、これでもかというほど丁寧に塗りたくったはずの日焼け止めも、もはや汗でほとんど流れ落ちてしまっているのではないだろうか。
「……ひとまず、歩こうか」
千秋さんの提案で、私たちは駅前広場を後にした。
今日のデートプランは、本当に全て千秋さんにお任せだ。私の中に、不安とか心配といった感情は全くなく、楽しみという感情が、心のほとんどを占めている。
千秋さんはこちらの肩の力を抜けさせるような、小粋なジョークを繰り返し言ってくれるし……まあ、多少セクハラ方面に舵が向いているのは、私の体質的なもの、ということにしておこう。
……今まで、人から良い感情を向けられる機会が、あまりにも少なすぎたから。妬みとか、揶揄に比べたら、セクハラの方がまだマシかな、なんて考えてしまうのは、やっぱり千秋さんに言ったら全力で怒られるよね……?




