第30話
七月に入り嵐のような期末テスト期間がようやく終わった。
答案用紙がまだ返ってきていないので、最終的な結果がどの程度のモノなのかは正直分からないけれども、あの時、震える手で書き連ねた解答が少しでも点数になってくれていることを祈るばかりだ。
少なくとも空白で提出した中間テストの時とは違う。距離を近づけられた二人……輝夜さんと小鞠さんの顔を思い浮かべながら、必死でペンを走らせたのだからどうにかなってくれたと信じたい。
もっとも「筆圧が弱すぎて、何が書いてあるか判読不能」なんて理由で減点される可能性もなきにしもあらずだけれども……それでも、少なくとも0点ではないはずだ。
何もない白紙の上に自分の力で足跡を残すことができた。その小さな一歩が、次に繋がるかどうかは、これからの自分自身次第なのだろう。
そんなことを考えながら、私は数日ぶりにコンビニのアルバイトにも復帰を果たした。働き始めてまだ3ヶ月くらいしか経っていないけれど、店長である千秋さんから仕込まれた一通りの仕事は不思議と身体が覚えていて、記憶からスムーズに引き出して効率よくこなすことができた。
テスト期間中にお休みを頂いたブランクで何かできなくなっていることもあるかもしれない、なんて少し心配していたけれど杞憂だったようだ。
覚えてるなあ意外と……この記憶力がどうしてテスト勉強の時には発揮されないんだろう。
これがもっと保持できたら本当に輝夜さんと肩を並べて、学年トップを争う、なんて夢みたいなこともできたかもしれないのに。
……いや、さすがにそれはないか。前述の通り、今回のテストの出来については、お泊まり勉強会までして尽力してくれた二人の面目を丸潰れにするような結果にはならないはず、と期待しているし、もしかしたらトップ10とかには入れちゃうかも、なんて淡い期待も抱いている。
――が、期末考査が終わった直後に、輝夜さんにそれとなく出来を伺ってみたところ、「まあ、覚えていることは、とりあえず全部書いたつもりよ」と、いつものクールな調子で、しかし絶対的な自信をみなぎらせて言っていたので、私が彼女を上回る可能性は残念ながら微粒子レベルでも存在しないだろう。
それでも、あの勉強会で、ほんの少しだけでも彼女との距離が縮まったと感じているからこそ分かることもある。
普段は完璧に見える輝夜さんが、案外「やっべ!」みたいな状況になった時に、激しく取り乱したり、ポンコツな一面を見せたりすること。
だから今回一ミリの精神的な揺らぎもなく「全部書いた」と言い切ったということは……もしかしたら、我が青葉ヶ丘高校始まって以来の、全教科満点突破なんていう偉業が達成されているのかもしれない。
「うむ、いい仕事ぶりだな。夏野」
バックヤードから戻ってきた店長が、私が綺麗に整頓し終えた雑誌コーナーを見て、満足げに頷いた。
「その調子なら、お前にならば、いずれ私のこの家庭を預けることもできそうだ」
「いえ、商品の整頓とレジの点検が完璧にできたからといって、いきなり店長の家庭を預かるという、あまりにも重すぎる責任を背負わせるのはどうかと思います……」
私は、いつもの調子で軽くツッコミを入れる。
九重店長が管理するこのコンビニはお客さん自身で会計ができるセルフレジも導入されている。
けれども私が主に入っているレジは、お金の投入も、お釣りの受け渡しも、店員が主導して行う昔ながらのタイプだ。
「全部セルフになれば、もっと効率的なのに」という自動化推進の声を耳にすることもあると言えばあるけれど、以前、なぜか店長に同伴させられた他店の最新式・完全自動レジの使用体験イベントにて、私は「……体感的には、自分が操作した方が早いし確実な気がしますね」という、時代に逆行するような感想を正直に述べてしまった。
だって自動レジって、ある一定の個数以上の硬貨やお札が入ると、途端にけたたましく騒ぎ出すし、レシートの紙がなくなったらなったで「交換しろや!」とばかりに警告音を鳴らし続けるし(まあ、それは有人レジでもたまにあるけれど)少ないお釣りを計算して出すだけなのに時間がかかったりする。どう考えても店員による人力の方が早い場面だって多いのだ。
もちろん、お金の計算間違いがなく、常に正確なのは素晴らしいことだ。けれど、それ以上に、あの機械的な音声案内や警告音はなんだかうるさく感じてしまう。
ただでさえ、時々現れるクレーマー気質のお客様の理不尽な怒声や要求でストレスが溜まるのに、その上さらに機械にまで急かされたり、けたたましい音を立てられたりしたらこっちの精神が持たない。
某大手コンビニチェーンのレジを見るたびに「なんか大変そう……」って、いつも思ってしまうのだ。
「いいか夏野」
店長は、発注端末から顔を上げずに、しかし確かな響きを持つ声で言った。
「お前は他の人間が一時間かけてやる仕事を、だいたい四〇分で終わらせる。それは評価に値する……つまり、だ。空いた二〇分で他の仕事をさらに任せられるということだ」
「わ、わーい、店長からの信頼が頂けて、とっても嬉しいですぅ~」
もちろん、他の人より早く仕事を終わらせたところで、そのほかのパートさんたちと時給がだいたい一緒か、下手したら経験年数の差で私の方が安い、というこの世の理不尽については、言及しないでおくのが大人の対応というものだろう。
だからといって、プロ野球選手の契約更改……ストーブリーグの銭闘士みたいに、「時給アップを要求します!」「仕事量に見合った対価を!」なんて声高に叫ぶこともできないし「じゃあ、一時間かかる仕事は、きっちり一時間かけて終わらせるようにしよう」なんて、サボタージュを考えることもできないし、「できなかった分の仕事は、他の誰かがやるだろう」と言ったパートさんには「じゃあ、その『その他の誰か』には、私がなりますので大丈夫です」と心の中で返答し、結局は自分で抱え込んでしまうのだから、我ながら報われない性格をしていると思う。
そんなことを考えていると、店長がふと、端末から顔を上げた。
「まあ、そんな普段からよく働いているお前に、実は慰労の計画をしていてな」
「え?」
思わず、素っ頓狂な声が出た。聞き間違いだろうか? 嫁にするとか、家庭を任せるとか、そういう突拍子もない冗談の類なら「いやいや光栄です~」と適当に反応して、右から左へ聞き流すこともできようが、「慰労」となると話は別だ。それは、明らかに私個人に対する特別な計らいを意味する言葉だから。
いや、待てよ。そもそも平日の朝に車で学校の近くまで送迎して頂いている時点で、既に持ち上げられすぎているのでは?
でもその分はバイトで人一倍働いて、きっちり返せているはず、だと思いたい。それに、何度か「やはりこういうご厚意は、申し訳ないので……」と遠回しにお断りを告げたこともあるのだ。
しかし、その度に店長は「そうかそうか、遠慮するな」と呵々大笑して、全く取り合ってくれずに終わった……どこのご隠居様ですか?
私の戸惑いを、店長は楽しんでいるかのように、少し口角を上げて続けた。
「なに、これは私の慰労も兼ねていてな。 社会人というのは、何かと忙しくて、友人とゆっくり過ごす時間すらなかなか取れんものだ。その点、お前はテストも終わって、しばらくは暇だろうし、まあ、部下なんで変に気も使わなくていいし、おまけに、こちらにはちゃんとご奉仕してくれるしな」
言いながら、店長は、なぜか自分の手を、もう片方の手で包み込むようにして中途半端な拍手をするような…いや、もっと如実に語るならば、何か柔らかいものを優しく揉んで、そして挟むかのような妙に生々しい動きをしてみせた。
……ん? 今、手で何か、すごく意味深な動きをしませんでしたか? ご奉仕って、まさかそういう意味での……?
背筋が凍るような感覚に襲われたけれど、いや、まさかね? 店長には、日頃から送迎やら何やらで本当に感謝してもしきれないほどお世話になっているのだから。私と一緒にどこかへ行くことが店長の慰労にもなるというのならば、断る理由はない。
「……良いですよ。 私でよければ、お供します」
私は、若干の不安を胸の奥に押し込めて、そう答えた。
「よし、決まりだな」
店長は満足げに頷くと、私を値踏みするように上から下まで眺めて、にやりと笑った。
「じゃあ、当日はちゃんと、おめかししてこいよ? 私の隣に立つんだからな」
「それは確かに!?」
その指摘には、思わず素直に頷いてしまった。店長は、普段のコンビニでのラフな格好でも隠しきれないオーラというか、独特の雰囲気を持っている。そんな人の隣に、いつものような地味で冴えない格好で立つわけにはいかないだろう。
おしゃれか……小鞠さんも、この間の勉強会の時に「遥ちゃんのために、今日の私は、いつもの可愛さを3割くらいに抑えてきちゃった☆」なんて、冗談めかして囁いてくれたっけ。
年頃の女の子にとって、「可愛い」というのは、もしかしたら最強の武器であり、コミュニケーションの潤滑油であり、そして自身のステータスでもあるのかもしれない。
まあ、百歩……いや、一億歩譲っても、「わーい、店長もかわいいですね~」「遥も可愛いぞ~」なんて言い合いながら、二人で仲良くお出かけする、なんていう可能性は万に一つもないにせよ、少なくとも、隣に立っていて恥ずかしいと思われるような恰好だけは絶対に避けなければならない。
せっかくの店長の「慰労」が、私のせいでただの「徒労」に終わってしまっては、あまりにも申し訳が立たないからだ。
「「いらっしゃいませ~~♪♪♪」」
私と店長の声が、綺麗に重なった。さっきまでの、個人的な悩みや、複雑な感情、未来への不安や期待なんてものは、一瞬にして頭の片隅へと追いやられる。今はただ、目の前のお客様に対応するコンビニ店員・夏野遥でなければならない。
どんな会話をしていようと、どんな個人的な感情を抱えていようと、お客様が店に入ってきた瞬間、我々は彼らに従属する、笑顔の下僕となるのだ――だって、それでお給料を頂戴しているのだから、文句なんて言えるはずもない。




