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第3話

 六月に入り空気はじっとりと重く、夏の始まり特有の湿気が肌にまとわりつくようになった。

 そんな季節でも私の朝の通学はありがたいことに快適そのものだった。店長の運転する、いつも清潔に保たれた車の助手席――それが私の指定席だからだ。


 や、もちろん入学当初は多くの生徒と同じように、「自宅→最寄り駅(徒歩)→満員電車(苦行)→学校(徒歩)」という、体力と精神力が日々試される王道の通学スタイルだったのだけども。コンビニバイトに採用が決まった直後、店長から「キミは電車通学か?」と尋ねられ、隠す理由もなかったので正直に「はい」と答えたところ、「ならば明日から私が送ってやろう」と、予想外すぎる申し出があったのだ。


 相手が店長とはいえそんな個人的な負担をかけるわけにはいかない。私は丁重に、それはもう必死に断ったんだけれども、店長は「ならん」「許さん」と、まるで聞く耳を持たない。

 その有無を言わせぬ剣幕に完全に押された私は「じゃ、じゃあ、店長が飽きるまで……」と、蚊の鳴くような声で条件を付け、渋々その申し出を受け入れるしかなかったのだった。


 そして驚くべきことに現在に至るまで、店長は毎日の送迎に飽きるどころか、「人から噂されるのは恥ずかしいので、少し離れた場所で降ろしてください……」という私のワガママさえも、「初々しいやつめ」と面白がりながら快く許容し、早朝の、高校から少々距離の離れた人気の少ない場所で私を降ろしてくれるのだった。


 助手席で少しだけ体を丸めるようにして座っていると、ふと、この車内には全くタバコの匂いがしないことに気づいた。店長は時々吸うはずなのに。


「あの、店長……もしかして私のために、車の中をきれいにしてくださっているのですか?」


 思い切って尋ねてみると、店長は法定速度を遵守しつつ(たまにわずかに超えている気もするけども)前方の道路から視線を外すことなく、こともなげに答えた。


「夏野にそれほどの価値があると自分で思っているのか?」

「そ、それはまったく、微塵もそんなことないんですけど……!」

「若いんだから少しくらいうぬぼれておけ、やけどしない程度にな」


 接客中は臆病さがいくらか鳴りを潜めるけれども、ひとたび仕事から離れれば、店長からは「ベジータくらいうぬぼれておけ」と、やたらとうぬぼれろ、うぬぼれろと念じられている気がする。


「昨今の消臭システムは過敏とも言えるほどにまで優秀なのは間違いないが、それでも完全ではない。いざ今後恋人を連れてのドライブなんぞに赴くときに車内の匂いを気にしていてもしょうがない」


 危うく「今はそういう相手はいらっしゃらないんですね?」という墓穴を掘るような言葉が口から漏れそうになったのを、必死で飲み込む。


 ただだんまりでいるのもリアクション的に悪いかと思い「あの、どのような相手がお望みなんですか?」と当たり障りのない質問を投げかけてみると、店長は少し楽しそうに口の端を上げた。


「そうだな、手に余るくらい乳がデカく料理上手で、家事も何もかんもやってくれてかつ高給取りで私をニートにしてくれる美女が良い」

「それ条件の六割くらい、峰不二子じゃないですか……」


 二次元の世界ならいざ知らず、現実世界でその全ての条件を満たす女性を見つけ出すのは、おそらく不可能に近いだろう。


「それはなかなか……夢のある素敵なお話ですね……」


 半ば呆れながら最大限のオブラートに包んでそう言うと「嘘やん」という店長の心底驚いたような表情がバックミラー越しに見えたのを、私はよく覚えている。


「なんとなく、気が重いな……」


 天気予報士が「夏の始まりを感じさせる、ジメジメとした空気になるでしょう」と説明していた通りの重く湿った空気が肌にまとわりつく。

 一歩足を踏み出すだけで、じわりと汗が滲むような、決して心地よいとは言えない外の世界。六月の初めでこれでは、真夏になったら一体どうなってしまうのだろうか。


「……まあ、クラスでも空気みたいな存在なんだからクラスメイトの噂なんて、気にする必要ないはずなんだけど」


 そう自分に言い聞かせてみても、やはり昨日のコンビニでの出来事が頭から離れない。年齢不詳の美女である店長の運転する車での送迎は、それだけでも十分に好奇の目を集めそうなのに、加えて、あの青葉ヶ丘高校の『かぐや姫の生まれ変わり』と称される春川輝夜さんが、大量のオタクグッズを購入する現場に遭遇してしまったのだ。


 今日も春川さんは普通に登校してくるだろう。もし教室で顔を合わせたら、一体どんな対応をするのが『正解』なのだろうか。

 私の貧弱な脳みそでは、最適解を導き出せそうにない。普段から、彼女と私との間には、ほとんど会話らしい会話はない。


 彼女はクラスという名のピラミッドの頂点に君臨し、私はそのピラミッドの存在すら認識されていないかもしれない最下層の石ころ、いや、雑草レベルだ。

 たまたま席が近いというだけで、「やあ春川さん、昨日、ネコ娘の商品、たくさん買ってたよね~?」なんて気安く話しかけられるはずがない。絶対にない。


 でも『彼女の秘密は、絶対に守らなければ!』なんて妙に意気込んでいると、何かの拍子に、不意に「あっ! ネコ娘! プリティプリンセス!」などと、ゲームの起動音声みたいなことを口走ってしまいそうで、それが一番怖い。


 ……そこまで考えて、ハッとした。


「そうだった、私、クラスでほとんど誰からも話しかけられないんだった」


 そうと分かれば、余計な心配をする必要もないだろう。誰とも話さないなら、うっかり秘密を漏らす心配もないわけだし。

 なんだか無性に悲しい気分になりながらも無理やりそう結論づけ、私は重い足取りで自分の教室へと向かった。


 まだ誰もいない早朝の教室。真ん中辺りの私の席。普段は、他者との関わりの薄さを実感させられ、どこか寒々しく孤独な場所に感じられるこの教室も、誰もいないこの時間だけは、なぜか少しだけ、心を解放できるような気がした。


「もしかしたら……昨日のコンビニでの出来事なんて、全部、私の見た悪い夢だったのかも……」


 もし万が一にも私が彼女のオタ買いの件を言いふらしたりしたら……いや、そんなこと絶対にしないけど、仮にしたとしたら。クラスのみんなは「青葉ヶ丘高校のかぐや姫(の生まれ変わり)に対して、なんて失礼なことを言うんだ!」って、私を袋叩きにするに違いない。


 そうなったら私のただでさえ灰色な学園生活は、完全に真っ暗闇に突入だ……考えただけでも恐ろしい。オタ買いをするとすれば、どちらかといえば私の方だろう、なんて言われた日には、予算がないという言い訳も通じないだろうし。


(うん、やっぱり昨日のことは私の胸の内にだけしまっておこう。仮にあれが現実だったとしても、それを誰かに告げる必要は全くない。私がコンビニでバイトしていることだって、クラスメイトの大半は知らないだろうし。よもや万が一、春川さんの趣味がクラスでバレたとしても彼女ほどの人気者なら『えー! 輝夜ちゃんもネコプリ好きなのー!? 意外ー! でも可愛いー!』って、むしろ好意的に受け取られる可能性の方が高いはず)


 どうして私のバイト先の、あのコンビニで、あんなに大量にグッズを買ったんだろう……? という根本的な疑問が内面の奥底からふつふつと湧き上がってくるけれども、それを詮索する材料もなければ、本人に尋ねる勇気もない。


 交流することもないのだからこの謎が解けることはないはずだ。それでいい。歴史ミステリーを解き明かすには確かな証拠が必要なように、この日常の小さな謎も、深掘りさえしなければ、きっと大丈夫なんだ。うん、考えすぎ! 気にしない、気にしない!


 私は一人で問題提起をし、一人でその解決策を見出した(ことにした)のを良いことに、「よし、ちょっと気分転換に読書でもしよう」と、カバンの中から読みかけの文庫本を取り出し、そっと机の上に置こうとした。


 まさに、その瞬間だった。


「――夏野さん。ちょっとお話よろしいかしら?」


 凛とした、しかしどこか硬質な響きを持つ声が、すぐ近くから聞こえた。


 顔を上げると、そこには、普段はチャイムが鳴る直前に慌てて教室に駆け込んできて、「もう朝は本当に苦手で……」と公言してはばからないはずの、春川輝夜さんが立っていたのだ。

 ホームルームが始まるまでまだ数十分はある、この早い時間に。そして、他ならぬ、この私に話しかけてきたのだ。


 驚きで心臓が喉から飛び出しそうなくらい、大きく、強く、跳ねた。

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