第29話
自分の部屋に自分以外の寝具が二つも持ち込まれている。
物件そのものに文句を言っているわけではないと重ね重ね前置きしておきたいけれど、元々それほど広くない私の部屋に自分の分を含めて布団が三つも敷かれている光景は客観的に見て、少々……いや、かなり手狭な印象を受ける。
だけど不思議と息苦しさは感じなかった。むしろその狭さが、なんだか秘密基地みたいでくすぐったいような、温かいような……楽しさが、窮屈さを遥かに上回ってくるようなそんな不思議な感覚だった。
もちろん、この後、何の障害もなくスムーズにベッド……じゃなくて布団に横になって安らかに寝るという行為が達成されたわけではないということは、ここにしっかりと追記しておく必要があるけれど。
輝夜さんのコーヒー豆に関する渾身の豆知識披露タイムとか、それに対するわたしの的外れな戦国時代の蒸し風呂豆知識とか、その後の小鞠さんの冷静なツッコミとか……そういう、今思えばどうでもいい雑談の時間は、あっという間に過ぎていった。
「輝夜は今後テストの時、遥ちゃんが自分とタメ張れるライバルになるかも、って本気で思ってたみたいだよ?」
「な、なるほど……」
輝夜さんは別に豆知識の世界で天下統一を目指していたわけではなくて、きっと、本題に入る前の、彼女なりの小粋なアイスブレイクのつもりだったんだろうな……それをわたしが変に深読みしすぎただけか。
「そんな、買いかぶって頂くのは光栄ですが、私と輝夜さんの学力の差は近いようでいてやっぱり大きいので……」
「ふふ、謙遜が上手なのね、遥は」
輝夜さんが目を細めながら、どこか面白そうに言う。なんだか「あなたって実は、自分が思っている以上にすごい潜在能力を秘めていて、本気を出せばこの私をも超える逸材なんでしょ?」みたいな感じで言われている気がして居心地が悪い。
「学年主席と30位近辺の成績って、客観的に見て本当に大きい差ですよ?」
テスト期間にも基本的にあまりガリガリ勉強はせずに「先生の言ってたことを、そのままテスト用紙に書けば、それで良いんでしょ?」みたいなスタンスの天才肌の彼女と比較したら、仮に私にどんなすごい潜在能力があったとしても、焼け石に水、糠に釘、豆腐の角に頭をぶつけるようなもの。
「あらあら、あなたって本当に慎ましやかねえ」
そんな風になんだかよく分からないけど好感度が上がった的な調子で持ち上げられてしまうと、それはそれで不安になる。
胴上げだって高く持ち上げられれば持ち上げられるほど、もし下で支える人たちが急に手を引いたら、とんでもなく高い場所から地面に叩きつけられるハメになるんですし。
そんな私のネガティブ思考を断ち切るように、小鞠さんが、ふと真剣な表情になって、核心に触れてきた。
「……ねえ遥ちゃん。小耳に挟んだんだけど、中間のテストの後ろの方、空白で提出したんだって?」
その言葉はまるで鋭い針のように、私の心の奥にチクリと刺さった。輝夜さんのどこか的外れな発言は「なんだかなあ~」で済ませられたとしても、小鞠さんのこの直接的な指摘は私にとってクリティカルヒットだった。
――この幼なじみコンビがタッグを組んで、私を油断させるような発言をしたとかだったら、その策略に舌を巻くしかないけれど。
ちらりと隣を見ると、片方の黒髪ロングの美少女――輝夜さんは、「え? 何の話?」みたいな顔をして、きょとんとしている。どうやら連携プレーではないらしい。
ああ……それに気づくのがあと10秒早ければ。「えへへ、ちょっとペース配分を間違えちゃって」とでも、おどけて言い訳できたのかもしれないのに。
こんな風に、何か後ろめたいことがあるみたいに、気まずいだんまりを決め込まずに済んでいたかもしれないのに……ああ、どうして私の視野は、こうも狭いのだろうか。
「時間……足りなかった?」
小鞠さんが心配そうに私の顔を覗き込んでくる。先の、少し問い詰めるような響きは消え、純粋な気遣いが感じられる声色と眼差し。
私が今、どんな表情を浮かべているのかは自分では分からない。けれど、彼女がそんな風に心配してくれるということは、少なくともあっけらかんとしたものではなく、見る人が見れば心配するのが当然なくらい、青ざめた顔でもしているんだろうなと気づいてしまう。
でも、言う? 今、ここで? これは私個人の、どうしようもなく根深い問題だよ? そんな、すごく些末で暗い話をこれから寝ようかっていう、このタイミングで打ち明ける? 朝起きたらみんなケロっと全てを忘れてくれるとかなら良いけど、残念ながら人間の記憶力はそこまで生やさしく都合良くはできていない。一度口にしてしまえば、この空気はもう元には戻らないかもしれない。
いくらでも誤魔化せる言葉はあったはずだ「ちょっと集中力が切れちゃって」とか。あるいは全く関係のない、とりとめのない話題を出して、話したくないという雰囲気を装うことだってできたはずなのに。
でも、できなかった。
私を心配そうに、真っ直ぐに見つめてくる二人の優しい視線が、ずっと心の奥底にしまい込んでいた、弱くて臆病な自分を、引きずり出してしまった。
いや――違うのかもしれない。私は最初からそれこそこの世に生まれて自我が芽生えた瞬間からずっと、弱々しくて誰かの支えを無くしては、到底生きてはいけなかったのかもしれない。
弱い自分を認めるのが怖くて、誰とも関係を悪化させたくなくて、波風を立てないように、いつも「良い子」を演じてきた。
手を貸せるところがあるなら、自分のことなんて後回しにして手を貸してきた。そうやってごまかせば、きっと上手くいくんだって、そう信じて、自分の本当の気持ちも心配してくれる人の優しい気持ちさえも、見て見ぬふりをして否定してきた。ずっと、だんまりを貫くことで。
でも、もう、そんなのは潮時なのかもしれない。
今、私の目の前にはこんな私の部屋に、わざわざ泊まりに来てくれる友人がいる。それこそ腹を割って話すことができるかもしれない、大切な友人が……。
ここでまた逃げてしまったら、自分の気持ちに分厚い蓋をしてしまったら、私はきっと永遠に、誰とも本当の意味で仲良くなんてなれないまま、孤独な人生を終えてしまうのかもしれない。
「……書けませんでした」
ぽつりと漏れた声は、自分でも驚くほど小さく、掠れていた。
「最後のほうの問題に差し掛かると……その……手が、震えちゃって……」
二人の顔が見られない。俯いたまま、私は続けた。
「昔……中学の時とか、もっと前の時とか……何かができる自分が、周りの誰かを怒らせるんじゃないかって……あいつまた良い子ちゃんぶって、調子に乗ってるんだって、後ろ指を指されるんじゃないかって……否定しても、肯定しても、ただ黙っていても、何をしても……なんでだか分からないけど、いつも妬まれたり、避けられたり……そんなことが、ずっとあって……だから、テストで良い点を取ることすら、怖くなって……書けなかったんです……」
そこまで言うと堰を切ったように涙が溢れてきた。情けない。こんな話したくなかったのに。
「そっか……」
静かなでも温かい声が聞こえた。顔を上げると小鞠さんは、まるで自分のことのように、泣きそうな顔で私を見つめていた。
「辛かったね、ずっと。怖かったんだね……誰かにそれをずっとずっと、話したかったんだね?」
隣を見ると輝夜さんはもう声を殺して泣きじゃくっていた。さっきまでの威勢はどこへやら、大きな瞳からぽろぽろと大粒の涙をこぼしている。
「わたしは、そんなことは絶対にしない」
小鞠さんが、強い口調で言った。
「――そして、もし、これから誰かがあなたにそんなことをしようとしたら、わたしが絶対に守ってみせるから」
「私もよ!」
輝夜さんも、涙声で、しかし必死に言葉を紡ぐ。
「こ、こんな風に泣いちゃって、全然頼りないかもしれないけれど……! 私だって、クラス内では、それなりの立場があるつもりなの……! だから、もし、あなたをやっかむような人がいても、絶対に、私が守れるから!」
二人のあまりにも真っ直ぐで、力強い言葉に、私はただ、戸惑うばかりだった。
「……二人はどうして、そんな……そんな風に、してくれるの……? わ、わたし達……と、ともだち、だから……?」
友達――その言葉を口にした途端、過去の記憶が洪水のように押し寄せてきた。
友達から嫌われたことがある――友達から心ない文句を言われたことがある――友達だと思っていた人から、あっさり見捨てられたことがある――友達に、ありもしない悪い噂を流されたことがある――友達から、暴力に近い行為を振るわれたことがある――友達から、一番指摘されたくないことを、笑いながら言われたことがある――友達から、完全に無視されたことがある――友達から、氷のように冷たい目を向けられたことがある――友達に、嘲るような、嫌な笑い方をされたことがある――まるで、生きていることそのものを否定されたような、そんな気分にさせられたことが――今までに、何度も、何度も、何度も、何度も……。
「違うの」
私の震える声にかぶせるように、小鞠さんが言った。
「あなたの側にいたい。ただ、柊小鞠は、あなたの側にいたいの。……あなたには、絶対に嫌われたくないの」
「どうしてそこまで……?」
「それは、まだ言えない」
小鞠さんは、少しだけ悲しそうに微笑んだ。
「だって、今、こんな風に震えている人に、理由も告げずに毛布を差し出したら……それはきっと、ただその人の弱みにつけ込んでいるだけになってしまうから」
きっと彼女の中にも、何か言えない理由があるのだろう。震えるくらい冷たくなっていた私の指先を、そっと包み込む彼女の両手が、じんわりと温かくて、それ以上、追求する言葉なんて、とても出てきやしなかった。
「遥――」
今度は輝夜さんが、私の名前を呼んだ。涙はまだ止まっていないけれど、その瞳には、強い決意の光が宿っていた。
「私は、あなたを裏切ったりはしない。絶対に。その証明として、今の私にできることは……本当に、とても少ないのかもしれない。春川輝夜は、あなたが思っているよりも、ずっと弱くて、ちっぽけな人間だから……。でもね、これだけは誓えるの」
「輝夜さん……」
「こんな弱い私だけれど、なけなしの勇気を全部かき集めて、代償にして、誓うの……信じろなんて、烏滸がましいことは言わないわ。あなたが、いつか信じてくれるまで私はずっと、あなたの側にいる。けして、あなたから離れたりはしないから」
そう言って輝夜さんは、そっと私の隣に寄り添ってくれた。華奢な肩が、私の肩に触れる。頬に伝わる彼女の涙の温かさ。背中がじんわりと温かくなるような、そんな心持ちだった。
その夜。
私たちは三人、川の字になって眠った。
女子高生三人。ぎゅうぎゅう、と言ってもいいくらいの手狭さだったはずなのに、不思議と、少しも狭いとは感じなかった。
――ただ、とても温かくて、なんだか少しだけ、楽しかったからなのかな。




