第19話
お風呂から上がるとリビングのソファでは、既にパジャマ姿の彼方ちゃんが、何やら怪しげな緑色の液体が入ったグラスを片手にくつろいでいた。
その液体は微かにしゅわしゅわと炭酸が弾ける音を立てているけれど、その鮮やかすぎる緑色はどう見ても自然由来のものとは思えない。
毒々しい雰囲気を炭酸の泡がわずかに紛らわせている……ような気がしなくもない。
「それ、また例の謎ドリンク?」
「んー? これは今日のスペシャルブレンド。疲労回復と美肌効果と、あと快眠効果もあるんだよ」
「……一度でいいから味見させてほしいんだけど」
私がそう言うと彼方ちゃんは途端に態度を一変させ、グラスを隠すようにして叫んだ。
「だーめ! こんな身体に悪いものお姉ちゃんは絶対に飲んじゃダメ! 身体に毒だよ!」
血気盛んに力説されるけども私が特殊な耐性を持つゾンビか何かでもない限り、一般的に「毒」とされるものは、誰にとっても等しく毒である可能性の方が、圧倒的に高いと思う。
「ああ、五臓六腑にしみわたる……ふう」
妹は、私に一口も味見させることなく、グラスをくいっと飲み干し、満足げな溜息をついた。
「……まさに謎ドリンク……。それ、もしかしてジャムとかもあるのかな?」
絶対にダメと言われている手前、それ以上踏み込んで関係を悪化させたくない私は、遠回しな探りを入れることしかできない。
けれど、しこの飲み物が本当に健康に良いものなら、私だって飲んでみたいのだ。
まあ飲んだ瞬間に苦しみだしておぞましい妖怪か何かに変貌し「だから飲んじゃダメだって言ったのに!」という彼方ちゃんの悲痛な声と共に、彼女に抜刀されてバッドエンド直行という可能性もよもやなきにしもあらず……?
そんな私の内心を知ってか知らずか、彼方ちゃんは少しだけ拗ねたような顔で、話題を変えてきた。
「……ねえ、お姉ちゃん。私の情報網で仕入れたんだけど、私以外の女の子のために、ガチャを回してあげたんだって?」
「……どこでそんな情報を仕入れたのか、すごく気になるところだけど」
私は眉をひそめる。
「というか、彼方ちゃんはいつの間にそんなに独占欲の強いキャラになったんですか!?」
運動系の部活ってなんとなく体育会系で縦社会っていうイメージが強いけども。実際には、人と接する機会が多いからか、学年を超えた横の繋がりもかなり広がるらしい。その点を考慮して、就職活動なんかでは、同じ能力なら体育会系出身者を採用するケースもあるなんて話も聞いたことがある。
彼方ちゃんのその驚異的な情報網も部活動で培われたものなのだろうか……。いや、だとしても輝夜さんのために10連ガチャを回して見事にピックアップキャラを引き当てたなんていう、つい数時間前の出来事を、どうやって……?
まさか輝夜さん本人から聞いた? いや、それはないか。だとしたら、私の知らない誰かが輝夜さんの情報を逐一把握していて、それをベラベラと彼方ちゃんに情報提供している……? そっちの可能性の方が恐ろしすぎるのでできれば姉の知らないうちに、姉の知人と仲良くなっていてほしいと願うばかりだ。
「強いよぉ独占欲。だって、私の自慢のお姉ちゃんだもん。」
彼方ちゃんは、悪びれずに言い切る。
「一年生の時は、色々あって言いづらかったけど……おっと、今のは聞かなかったことにしてくれると嬉しいな」
彼女は、ぺろっと舌を出して誤魔化すように笑った。
「……あからさまに何か言いたかった感が満載ですけど、彼方ちゃんがそういうなら……」
「一年生の時は」と言っているのだから、それは「一年生の間ずっと」を指している可能性が高いし、それがたとえ誇張であったとしても「一年に近いかなり長い時間」彼女が私に関して何か懸念材料を抱えていたのは間違いないのだろう。
妹の心配事が一つでも減ったのならば、そんな彼女からこれほどまでに慕われている私は素直に喜ぶべきなのだろうし、少なくともその懸念とやらはポジティブな内容ではないだろうからわざわざ深掘りする必要もなかろう。
「で、それを踏まえて尋ねたいんだけど」
彼方ちゃんは、少しだけ真剣な表情になって続けた。
「お姉ちゃんって、そういう、人の噂話とかには、興味があるほう?」
「……んー」
私は少しだけ考え込んだ。
実際のところ、まったくもって興味はない。というより、むしろ嫌悪感に近いものがある。特に力のある人間……例えばクラスの人気者とかが流す噂は、それが全くの嘘であろうがなぜかあっという間に広まって、さも真実であるかのように人の口の端に上りやすい。
そして一度広まった悪評は後からどんなに否定しても、なかなか消えずに過去の情報に上書きされてしまう。その恐ろしさを、私は身をもって体験している。
そのあたりの私の経験とかなんやかんやを、ここで正直に「いやあ実はね……」なんて打ち明ければ、私のことを誰よりも大事に思ってくれている優しい彼方ちゃんは、っとすごく悲しむだろう。
もしかしたら、彼女の持つ例の情報網とやらで、私の知人……例えば小鞠さんや輝夜さんにまでその話が流されて、その人たちまで悲しい気持ちにさせてしまう可能性があるかもしれない。
そんな自己満足のための告白で、悲しみの連鎖が延々と続いていくくらいなら、私は自分の中ですべてを溜め込んで、何も言わないまま終わりにする方が、ずっといい……どんな人間にも出会いがあれば必ず別れは訪れるのだ。時間は、誰に対しても残酷なほどに、とても平等なのだから。
「全然関係ない赤の他人の噂話とかならネットニュースとかで目にするくらいは、良いかもしれないけど」
私は、できるだけ当たり障りのない返答を選んだ。
「関係ないから自分の好き勝手に言っても、何を信じても構いやしないだろうって言うひとはウチの中学……あ、いや、SNSとかでも、いっぱい見られたからね」
彼方ちゃんは、どこか遠い目をして、妙に含みのある言い方をした。
「……彼方ちゃん、今日、なんだか、ずいぶん色々と含むところがないかな!? もしかして、部活で疲れちゃってる!?」
私が心配してそう尋ねると彼方ちゃんは一瞬、ハッとしたように顔を上げ、それから力なく首を振った。
彼女の瞳にはいつもの快活な輝きはなく何か言い出せずにいるような、複雑な色が浮かんでいる。
彼方ちゃんが今通っている中学は公立だから、つまりは私が卒業した中学と同じ学校だ。
もちろん私立の中高一貫校と違って、そこに通う生徒がみんな同じような家庭環境というわけではないけれど、それでも、夏野遥という人間が普通に通えるって言うことは、世間一般で言えば、ごくごく標準的な公立中学ってことだ。
……そういえば、昔、母から「中学受験、してみる?」って聞かれたことがあったけど、我が家の金銭的な事情とか、私の学力とか、色々気になってしまって、丁重にお断りしたんだった……なんの因果か、それが巡り巡って、私がわざわざ県外の高校を受験するという選択に繋がった側面もあるわけだけども……まあ、そのあたりの複雑な事情は、あまり大っぴらに話すようなことではない。
って、いけない、また話がズレちゃった。それよりも、彼方ちゃんの今の様子だ。さっきの「ウチの中学にもSNSにもいっぱいいた」っていう言葉。わざわざ「ウチの中学」って限定した言い方。そして、この含むところのありそうな表情……。
それはつまり私の通っていた中学で、それも私が在籍していた「一年生の時」に何か彼女にとって、あるいは私にとって、とっても不愉快な経験があって、それをずっと、すごくすごく胸の中に抱え込んでいた何かが、あるってこと……? 今まで、そんな素振り、全く見せることなんてなかったのに……。
そこまで考えた瞬間、まるでダムの水門が壊れたかのように様々な情報や感情、過去の記憶の断片が私の頭の中に一気になだれ込んできた。中学時代のあの息苦しい教室の空気。クラスメイトたちの冷たい視線。聞こえないふりをした悪口。そして、それを必死に笑顔で覆い隠そうとしていた惨めな自分……。
「お姉ちゃん!?」
気がつくと、私はソファの上でぐらりと体勢を崩しかけていて、それを隣にいた彼方ちゃんが、慌ててその細い腕でしかし驚くほど力強く支えてくれていた。
「だ、大丈夫……?」
「……うん、ごめん。ちょっと、色々考えちゃって……」
支えてくれる彼方ちゃんの腕はとても温かかった。そして、私が今まで知らなかった、しっかりとした力強さがあった。私の知っている彼方ちゃんは、いつも私の後ろをついてきて、何かと私に頼ってくる、甘えたがりで、少し子どもっぽい感じの、守ってあげなければいけない存在、だと思っていたけれど……。
もしかしたら、それは私の勝手な思い込みで、彼女は部活で鍛えられたのか、それとも私が知らなかっただけで、本当はずっと前から、こんな風に強かな女の子だったのかもしれない。
「……ごめんね、お姉ちゃん」
彼方ちゃんは、私を支えながら、申し訳なさそうに呟いた。
「私の言い方が悪かったよね……まだ、高校に入学してから二ヶ月だもんね……。急にお友達ができて、アルバイトも始めて、交友関係が一気に広がっても、すぐに忘れられないことなんて、いっぱい、いっぱいあるよね……」
彼女は私が今、何に動揺したのかを、正確に理解してくれているようだった。そして、自分の言葉が私の古傷に触れてしまったかもしれないと、心から謝ってくれている。
「ううん」
私は、ゆっくりと首を振った。
「彼方ちゃんが悪いんじゃない。それに、彼方ちゃんが胸の中にずっと抱えてて、今まで言えなかったことなら、それを今日、こうして打ち明けてくれて……本当にありがとう。私の方こそごめんなさい、急にふらついちゃって。なんかちょっと疲れが溜まってたのかも。ほら、平日はほとんど毎日バイト入ってますし」
それを言うとシフトを組んでくれている店長に申し訳ないような気もするけれど、嘘ではない。輝夜さんや小鞠さんとあんな風に普通にお喋りしたり、自分の作ったお弁当を「美味しい」って食べてもらえたりして……私を取り巻く世界は、確実に変わり始めている。
そしてその変化は、嬉しいことであると同時に……正直に言えば、慣れないことばかりで、とっても疲れることなんだ。
だからこれは私が勝手にしたことの結果なんだから、彼方ちゃんがそんな風に、悲しい顔なんかする必要は、全くないんだよ。
私は、妹を安心させるように、そして自分自身にも言い聞かせるように、少しだけ無理をして、笑顔を作ってみせた。
「それにね、彼方ちゃん。大丈夫だよ。私の友達にね、高校デビューして、今では『青葉ヶ丘高校のかぐや姫の生まれ変わり』なんて謳われるほどの、超絶美少女になった子がいるんだ。人はね、変われるんだよ。過去に何があっても、それを無かったことにはできないけど、でも、それをバネにして、未来への糧にすることは、きっとできるから」
輝夜さんには少し申し訳ないけれど、彼女を励ますための、これは最大限の賛辞のつもりだった。
しかし――。
「あー」
私の渾身の励ましの言葉を聞いた彼方ちゃんは、感動するでもなく、納得するでもなく、ただ、全ての感情が抜け落ちたかのような、「無」に近い表情で、気の抜けたような相槌を打っただけだった。
確かに、彼女の顔から悲しい色は消えたけれど、自分の求めていた反応と、あまりにも違う……!
私は、思わず「いや、今のところ、もっとこう、『そっか! お姉ちゃんありがとう!』みたいな反応するところじゃない!?」と文句を言いそうになったけれど――け、結果として、彼女を元気づける(?)という目的は達成されている(はず)だから、これで良いのだ! 良いんだよ夏野遥! そういうことにしておこう!




