第16話
かの文豪・太宰治の傑作『走れメロス』において、メロスは激怒し、王の暴虐に立ち向かった。
妹の結婚式に出たいという純粋な願いと友との固い信義。その気持ちは分からなくもない。
けれども自分の命と引き換えにしてまで友を信じ、待っていてくれるような存在なんて現実にはそうそういないだろう。
少なくともこの私、夏野遥にはこれまでそんな相手はいなかった。私がメロスのように激怒したところで、待ち受けているのは王様に捕らえられておしまい、という結末だけだろうなと考えた。
私も政治のことはまったく分からないし、ただの凡人だ。妹と遊んだり、頼まれてソーシャルゲームのガチャを引いては、なぜかレアキャラを当てたりするだけの、しがない日常。
ただ、誰かが不当に苦しんでいるのを見過ごせない、という妙な使命感だけは、時折燃え上がることがある。もっとも、その炎もすぐに燃えかすになって立ち消えるのが常だけど。だって私はメロスではなく、ただの夏野遥なのだから。
……さてそんな私にも、奇しくもメロスの妹が結婚したとされる年齢になるこの年に、セリヌンティウス候補……と呼ぶにはあまりにもおこがましいけれど、それに準ずるかもしれない存在が、二人も現れた。春川輝夜さんに、柊小鞠さんだ。
もちろん、彼女たちは私にとって竹馬の友というわけではないし、深く会話をするようになってからは、まだほんの数日しか経っていない。もしかしたら、まだ「友人」と呼べる関係ですらないのかもしれない。
それなのに、ようやく芽生えかけたかもしれない淡い友情に、早くも亀裂が入ってしまったような気がするのだ。ロクに友人づきあいをしてこなかった私にとって、それはまるで、大事にしていたガラス細工にヒビが入ってしまったかのような、妙な空虚さを感じさせる出来事だった。
「まあ、気にするな」
九重店長は、その「まあ」という一言に、だいぶ複雑な含みを孕ませたようなトーンで、そう言ってくれたけれど「気にするな」と言われて「はい、そうですか」と思い悩まずにいられるくらいなら、そもそも最初から悩んだりはしないだろう。
昇降口で上履きに履き替えながら、私は重いため息をついた。教室に入って輝夜さんと顔を合わせたとき、私は一体どんな顔をして、何と声をかけたら良いのだろうか。
「おはようございます、春川さん。今日は良いお日柄ですね」
……いや、ダメだ。確かに空は青く澄んでいて、絶好のお日柄なのは確かだけども、朝の挨拶の第一声が、まるでお見合いの席で交わされるような時候の挨拶では、「あら夏野さん貴女の脳みそは、昨日のうちに夏の太陽で焼かれてしまったのかしら?」なんて氷のように冷たく、かつ素っ気ない返答をされて終わるのが目に見えている。
無論、輝夜さんは根は優しい人だから、実際にはもう少しオブラートに包んだ、回りくどい言い方をされるだろう。
そういえば昨日のあの、私を混乱の極みに陥れたコスプレへのお誘いも、なんだか妙に歯に物が挟まったような、分かりにくい言葉遣いだった気がする。
その真意を正確に把握できなかったのは、ひとえに私のコミュニケーション能力不足と、深読みしすぎる性格のせいだと結論づけて構わないのだろう、と私の脳内に住まうメロスが、勝手に激怒しながら断定した。
重い足取りで教室のドアを開けると、まだ生徒の姿はなかった。私の目に窓際の席で静かにスマホの画面を覗き込んでいる輝夜さんの姿が映る。いつもはチャイムぎりぎりに駆け込んでくる彼女がこんなに早く来ているなんて珍しい。
私の登校時間はろくに他の生徒がいないような早い時間帯になることが多い。だから教室にはいつも一番乗りで、誰とも会話をすることなく、ただ静かに本を読んだりして時間を潰し、放課後になったらすぐにアルバイト先へと向かう。それが私の日常の繰り返しだった。
それに、ほんの少しだけ変化……いや、刺激的なスパイスが加わったのは、間違いなく、コンビニでの、彼女との衝撃的な対面イベントがきっかけだ。短い時間だったけれど、彼女と話をしている時間は緊張もしたけれど、正直に言って、とても楽しかった。
普段ほとんど言葉を交わすことのない、クラスメイトとの他愛ないトーク。それが、私にとってどれほどかけがえのない時間に感じられたか。
それは、もっぱら輝夜さんや、そして柊小鞠さんが、根はとてもいい人だからなのだろう。
だからこそほんの少し距離感が広がっただけで物寂しさを覚え、もしこの関係がなくなってしまったら、きっと大きな喪失感を抱くことになるのだろう、と予感してしまう。
彼女たちの言うこと全てを鵜呑みにすることはできないけれども「そんな都合の良い存在になれないのなら、私とはもう付き合えないわ」なんて、もし言われてしまったら、私はきっと「へえ、なるほど、確かに!」なんて、あっさり納得してしまうのだろうけれど……。
「……なにして」
輝夜さんが熱心にスマホを覗き込んでいるから、一体何をしているのだろうかと、つい、言葉をかけようとした、その時。彼女の隣を通り過ぎる瞬間、ほんの少しだけ、その画面が見えてしまって――
「ちょっと待ってください! ジャストアモーメントプリーズ!」
私は、自分でも驚くほど大きな声で、そう叫んでいた。あまりにも慌ててしまったから、かつて名優・千葉繁さんがどこかのアドリブで叫んだとかなんとかいう、あの独特の言い回しが、思わず口をついて出てしまった。
恐らく元ネタは古いゲームだから(リメイクはされているけど)輝夜さんには分からないはず――そう思っていたのに。
「どうしたの、そんなに大きな声を出して!? それに、ちょっと待ってくださいも、Just a moment, pleaseも、意味としては似たようなものよ!?」
輝夜さんは、驚いて顔を上げ、しかし冷静にツッコミを入れてきた。
いや、今はそんなことどうでもいい!
「輝夜さん! そのガチャもしかして、今、期間限定でピックアップされてる、超絶レアなネコ娘の『プリンセス・アシェラ』を狙って……!?」
「なっ…!? なぜそれを…!?」
「輝夜さんはご存じでないかもしれないけれど、この私、夏野遥は! 妹の代わりにガチャを引いたら、100%に近い驚異的な確率で、ピックアップ中の最高レアキャラを引き当てることができる、特殊能力を持った女の子なんですよ!」
私は、ビシッと指をさして、高らかに宣言した。
「……世界中のどこに、そんなアホみたいにピンポイントすぎる特技を持った人間がいるのよ」
私はこの能力に関しては間違いなく事実を告げている。今すぐ妹の彼方ちゃんに電話して「姉がこういう絶体絶命の状況にいるから、私のガチャ運の凄さを今すぐこの人に説明して!」と言えばキラキラした目で「そうなの! お姉ちゃんは本当にすごいの! ガチャの神様に愛されてるんだよ!」と熱弁してくださるだろうけども、残念ながら彼女は今頃、中学校で朝練のまっただ中のはずであり、よしんば姉からの緊急連絡に気づいたとしても、そんな状況では既読スルーされる確率の方が圧倒的に高い。
「ですから! 私、引きます。輝夜さんの望む、そのプリンセス・アシェラを!」
私は、輝夜さんのスマホに手を伸ばしながら、力強く宣言した。
「ま、待ちなさい遥!?」
輝夜さんは慌ててスマホを引っこめようとする。
「まさか……! 天井じゃなければ、爆死覚悟で限界までガチャを引かせ続けるのが、このゲームの醍醐味だって、名うての廃人たちも言ってるわ!? それを、たった一回の10連で当てようなんて、そんな……!?」
「いいですか輝夜さん。ガチャを引く前には気合を入れるための掛け声が、絶対に必要なんです!」
というわけで
「バッフ・クランめぇ!」
「グ、グレンキャノンも!」
と、ちゃんと続けてくれた。必要なら、白い旗も用意してくれたかもしれない――もっとも、それが、結果的に小鞠さんに対する宣戦布告になるなどとは、露ほども知らずに……イーデオーン(アイキャッチ)
そして固唾を飲んで見守る輝夜さんの目の前で、私がスマホの画面をタップした。
「……うわぁ!? うそぉ! うそぉ! 遥! 遥! 私と結婚して! 毎日ガチャ引いて!」
「そんな結婚生活、絶対に嫌ですけど!?」
10連ガチャは最高レアの発生を示す特別な演出のあと、高らかにファンファーレを響かせ、輝夜さんの狙っているキャラ、ネコ耳メイド服姿の愛らしい『プリンセス・アシェラ』を、見事、私のスマホの画面に登場させてくれた。
喜びのあまり自身のキャラとは明らかに違う強烈なハグと頬寄せは、幼なじみの柊小鞠さんが教室に登校してくるまで、延々と続いた。




