第15話
店長が運転する車の助手席。いつもの朝の風景のはずなのに、今日の車内には、昨日までの気楽さとは違う妙な緊張感が漂っている気がする。
昨日の輝夜さんとの一件とその後の彼女からの謎めいたメッセージが、私の頭の中でぐるぐると渦巻いているせいだろうか。
無意識のうちに背筋を伸ばし窓の外を眺めるふりをして、おすまししている私の顔はきっと自分でも気づかないうちに、さぞかし景気の悪いことになっているのだろう。
「……なあ夏野、仕事終わりに一杯やるか?」
不意に、運転席からそんな声がかかった。
「未成年ですよ!? 」
私は思わず素でツッコんでしまった。成人年齢が引き下げられたとはいえ飲酒は20歳になってからのはずだ。それに、私たちがこれから向かうのは学校と職場である。
「…で? 昨日上の空だったろ? このままじゃ気になって私も仕事が手につかん……いや、運転に集中できなくて、うっかりハンドル操作を誤って、バックしながらそこの電柱にめり込んでしまうかもしれんぞ?」
その口調は冗談めかしているようでいて、目は全く笑っていない。いつものことながら、本気なのか冗談なのか判別が難しいのが怖いところだ。
「大胆な殺害予告、本当にありがとうございます! それと、ご心配いただいて重ね重ねありがとうございます!」
私は感謝と抗議を同時に込めて、できるだけ明るい声で返す。他人の土地の壁ならまだしも公共物である電柱にめり込んだら、どれほどの修理費と保険が請求されるのだろうか。
そもそも道交法によれば、事故を起こしたら警察への報告が義務付けられているはずだ。もし後部座席に私が乗っていて、ミンチよりもひどい状態になっていた場合、店長の法的責任は……まあ、その時は私は確実に死んでいるだろうし、もしその状態からでも生還したら、それはもう夏野遥という名の何か別のホラー存在で一気に物語のジャンルが変わってしまうだろう。
『スマホを落としただけなのに』ならぬ『バックでうっかり人を殺しちゃっただけなのに』的な……いや、縁起でもないですね?
こうして、私のために時間と意識を割いて、相談に乗ろうとしてくれている店長の姿勢は本当にありがたい……というか、配慮の塊のようなものだ。
「今、あなたの悩みを聞く用意があるよ。私はここで待ってるから」という無言のメッセージ。
それに対して差し出せるような気の利いた答えは何一つ持ち合わせていない、ただの凡人たる女子高生の私だけれども……口調がイマイチ素直ではなく、殺害予告にガチ感が漂うあたりがらしいというか……。
「私が解決できるような相談事ならば聞くが、手に負えないなら、社会的コミュニティ……専門機関に迎合することを勧めるぞ」
「それは一般的に『困ったことがあったら、職場の頼れる人生の先輩に相談しよう!』という流れにはならないのでしょうか?」
「はは、残念ながら、そんな頼りにならない人材ばかりだからな世の中は。ここで言うのはちゃんとした病院の診察という意味だ」
「……あの、それって『これ以上変なこと抜かしたら、物理的に病院送りにするぞ』っていう遠回しな脅迫とかじゃないですよね?」
私の疑念に店長は乾いた笑いを浮かべながら、その美麗な顔を少しだけ歪ませた気がした。
いかに私が社会的影響力の少ない凡人であろうとも、その人生に物理的な障害を及ぼすような行為をすれば、日本の誇る優秀な警察機構の皆様が黙ってはいないはずだ。
善良な市民が日々平和に眠りにつくためにも他者に何かを強制したり、ましてや危害を加えたりしようってのは、絶対に控えた方が賢明ですよ店長……って、私は一体何を偉そうに言っているのだろうか。
ともあれこうして誰かと会話をするだけで、少しは気が晴れることもあるだろう、という店長の論旨は、むべなるかな、である。私は意を決して、昨日の出来事の核心部分を話し始めた。
「実は……私の高校にですね、それこそ『かぐや姫の生まれ変わり』と噂されているような、とんでもない美少女がいまして」
「ああ、この前、店に来た」
店長は、こともなげにそう言った。
「……え? あの、後ろ姿くらいしか確認できていなかったのでは……?」
私が驚いて尋ねると、店長は「ふん」と鼻を鳴らした。
「不審な動きをする客がいた場合、店長として監視カメラでちゃんと全身、隅々までチェックするのは当然だろ」
大量のネコプリグッズをマイバッグに詰め込み、脱兎のごとく走り去っていく後ろ姿しかご覧になっていないのかと思いきや……店長として、怪しげなお客がいかがわしいことをしていないか、そのチェックまで怠らないとは。
普段は結構適当に見えるのに、こういうところはちゃんとしている……というか、20代後半(推定)でコンビニ店長をしている麗人は、見習うべきところが多い。
まあ以前に店のオーナーである九重さん……つまり店長の父親に、私のことを「紹介します私の『嫁』です」なんて、とんでもない嘘八百で紹介したのは、全くもってキッチリしていない、大問題行動だったと思うけどね? 「おお、そうかそうか、千秋の嫁か。よろしく頼むよ」って、会長も大人だから、完全にスルーしてくださっていたけどね? あの時は本当に肝が冷えた……。
「それで、その……輝夜さんとですね、なんやかんやありまして、少しだけ仲良くなって、それから、ほんのちょっとだけ、喧嘩、というか、気まずくなってしまって……」
我ながら、あまりにも曖昧で要領を得ない説明だ。
「ほう。昨日のお前のその景気の悪い面の原因はそれか。よし、分かった。一発、そいつを絞めてくるか」
店長は、まるで近所の野良猫でも追い払うかのような、軽い口調で物騒なことを言う。
「輝夜さんは食卓に並ぶお魚のサバか何かじゃないんですよ!? 絞めないでください!」
青魚であるサバは栄養が豊富で健康に良いとされているけれども、その分、鮮度が落ちるのも早い。
だから長持ちさせるために、血抜きをして『絞める』という行為が行われることがあるけれど、それを人間に適用したら、鮮度の維持どころか、生命の危機、完全なる劣化……というか、普通に傷害致死罪ですから!
うちの母親も娘二人に対し「あなたたちが何十年先も、ピチピチの健康な肌でいるために!」なんて言って、小学校高学年の頃から熱心に美容に関するレクチャーをしてくれているけれど、まさかその娘が、バイト先の店長から「気に食わない相手は絞めればいいだろ」なんて物騒なことを言われているとは、想像すらしていないはずだ……いや、してたら逆に怖い。
私の必死のツッコミに店長は「仕方のない奴め」とだけ呟き、それ以上、輝夜さんを物理的にどうこうするという物騒な話は引っ込めてくれたようだ。一安心。
「それで……」
私は気を取り直して、本題を切り出した。
「その気まずくなった輝夜さんと、メッセージをやり取りしている最中にですね、『一緒にコスプレしましょう』って、唐突に誘われまして……」
「はあ?」
店長は心底意味が分からないといった顔でこちらを見た。
「どういうことだ? なんでまたそんな話になる」
ですよね!? 私だって分からないから昨夜からずっと、ああでもないこうでもないと真剣に考えてるんですよ!? でも、よかった……! 第三者の、しかも人生経験豊富な店長から見てもやっぱり意味不明で突拍子もない提案なんだって、客観的に確認できてなんだかすごく安心しました!? 私の感覚がおかしいわけじゃなかったんだ!
私が一人内心で安堵と混乱の狭間で揺れ動いている間に、いつの間にか車はゆっくりと発進し、見慣れた通学路を学校へと向かって進んでいた。窓の外の景色がゆっくりと後ろへ流れていく。
「……まあ」
店長は前を向いたまま、まるで独り言のように呟いた。
「お前がまあ例えば、巷で人気の『ブルーアーカイブ』のバニーアスナとか? あのコスプレをするって言うならは別に止めはしないぞ。で、写真を撮ったら、ちゃんとデータで私に送ってくれ」
「片道切符の恥の天国列車じゃないですか!? そんなことになったら、もう二度と現世には戻ってこられませんよ!?」
私は車のシートの上で、全力でそう叫んだ。
ていうかバニーアスナって……! ブルーアーカイブは詳しくないけど、あの衣装は有名だ。コスプレっていうか、それ、ほとんどただのセクシーなバニーガールじゃないですかぁ! そんな布面積が極端に少ない恥ずかしい格好なんて絶対に無理ですよ!
……とは、さすがに口には出さなかったけれど。もし、ここで私がうっかり「コスプレは好きですけど、バニーはちょっと…」なんて言おうものなら、「いいか夏野、コスプレというものはだな……そのキャラクターへの深い愛とリスペクトがだな……衣装の露出度など些末な問題であってだな……云々かんぬん」と、店長の長々としたコスプレに関するお話が始まってしまうことが、火を見るよりも明らかだったからだ。
そのあたりの店長の熱い語りについても、機会があったら、ぜひ詳しくお伺いしたいところでは……いや、やっぱり、全力で遠慮しよう。
そんな私の内心の葛藤など露知らず車はいつもの角を曲がり、私が降りるポイントへと近づいていく。輝夜さんからの謎のメッセージの件は、結局、何の解決も見ないまま、今日もまた一日が始まろうとしていた。




