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2 オープンキャンパス

早朝六時半、目を覚ますと、再び閉じようとした瞼を思いっ切り持ち上げ、布団から出る。冴は、特段朝が苦手な方ではなかったが、日にもよる。今日は、朝寝坊しない日だ。なんと言っても今日は大学のオープンキャンパスだ。遅れてはならない。


「おはよー」と言って重い足を引きずりながらなんとか居間へ到着する。

先に起きて、テレビを見ていた母親もまたおはよう、と返す。


「今日、何時出発?」と冴は尋ねる。


「十時からだから、八時には出るよ」


「くうっ…はやー」


朝起きて、ご飯を食べて朝の支度をした。そして、さらに少し寝る時間はないかな、と時計を見たがそんな暇はなかった。


外に出る。春の陽気が彼女を照らす。さらに歩くと、そよ風が彼女の頬をかすめる。まるで、外に出た冴を、全身全霊で春が出迎えているようだった。こんな素敵な日に桜を眺めながら乗る電車は最高だな、と思う。


「荷物、全部持ったー?」

車の運転席に乗りながら母が言う。


「多分ー」

冴は車の後部座席に乗る。


母が車を走らせると、冴は車窓を眺めていた。大きな川が流れ、その上に無数の桜の花びらが舞い落ちる。綺麗な花いかだが出来上がっており、思わず、ほう、と感嘆のため息を漏らした。


(なんて、美しい風景なんだろう…)


あの花の絨毯の上に乗れたら最高だろうな、と淡い期待を抱く。


そして、どこまでもどこまでも幸せが続く夢の世界に連れて行ってもらうのだ。


そこには、自分だけを愛してくれて、お姫様に対するような振る舞いをしてくれる王子様がいる。とても優しくて、聡明な、男の子の理想のような王子様。


冴の頭の中にはふわふわとした世界が広がっていく。


ネガティブな彼女にとって、無機質に、あまりにも投げやりに不平等な環境が与えられる現実世界はとても辛かった。


ああ、このまま、この陽気に埋もれていたい。


こんな気候が一生続けばいいのに。


夏は、暑すぎて生気が吸い取られる感じがする。

秋は、丁度いい気候だけれど草花の腐敗が感じられてなんだか虚しい。

冬は、言わずもがな寒く、冷たい現実が突きつけられるような薄情さがある。


いちばん心地よく素晴らしい気候、それが春なのだ。



束の間、冴は自分が車の中にいることを忘れそうになった。



綺麗な桜並木も過ぎ去り、最寄駅へと到着する。しなのから特急京都行きの指定席を買い、JR乗り場へと向かう。


その途中、何度か母が、「今日は寒すぎず暑すぎず、いい天気だねえ」と感嘆するように呟いていた。


「そうだね」と冴も微笑んで言った。


今日は、薄着で来て本当によかった。


京都のオープンキャンパスで、知人は少ないとはいえ、やはりある程度のおしゃれはしていかなければならない。


それに、オシャレに我慢はつきものだ。


多少寒くとも、頑張って可愛い半袖のTシャツを着たり、ひらひらのズボンを履いたりしている人もいる。そんな人たちを見習って、冴もオシャレな半袖を着ることを心がけることにした。それにしても、今日は丁度いい天気だ。


京都行きに乗る。

彼女はしばし、空想の世界に入る。



「ただいま、この列車は何者かによってハイジャックされました。全員、スマホを係員に預けてください」


バスがハイジャックされた。ただいまからこの電車は何者かによってしか操作が不可能となるのだ。その何者か、とは誰なのか分からない。

ただ、冴は何も起こらなさすぎる日常にスリルを求めていたため、この状況に胸が高鳴っていた。


(一体、これからどうなるんだろう…)


どこか人ごとのようにこの状況を胸に刻んでいた彼女であったが、さすがにジャック班が冴の列車の扉付近に現れた時には、冷や汗をかいた。母親の方を見ると、青白い表情をしている。


コツ、コツ、コツ…


足音が、刻一刻と大きくなっていく。こちらに近づいているようだ。冴は、我慢ならず口元を手で覆った。


「お、おえええええっ」


胃の中のものを綺麗さっぱり吐いてしまった。この音にジャック班が気が付かないわけがなく、冴の真横で訝しげに足を止めた。冴は恐る恐るジャック班に目をやると、サングラスをかけ黒いスーツを着た長身の男と目が合った。


(怖い…でも、かっこいい…)


しばらくその長身の男から目が離せないでいると、男は冴の吐瀉物を一瞥し、そして再び、彼女に視線を移した。


「君、浅野冴だよね」


「はい…そうですけど」


「私と一緒に来てくれないか?そうすればこの列車の全員の安全を確保する」


「え…?」


自分の身に迫られているのが一体なんなのかよく分からなかった。でも、真っ先に人命を確保するのが優先だということはわかっていた。人質というわけだ。自分の身に何が起こるかは分からない。それでも、やらなければならない。


それにこのつまらない平凡な日常と、おさらばできるかもしれない。

こんなに格好いい人に連れ去られるのなら、何が起きようとドンと来いだろう、と鷹を括っていた。


冴は母親の方を向き、力強く頷くと、ジャック班の手を取った…



なんとも非現実的な妄想。


しかしこういった妄想は日頃から彼女が心の奥底で望んでいることでもあるのだ。


妄想に飽きると、最近買ったラノベを開いて、しばし、その世界観に入り浸った。


そのうち、眠くなると脱線の恐怖を抱えながらも眠りについた。


冴はよく死について考える。それこそ、高校二年生の時なんて、死ぬことばかり考えていた。今まで生きてこれたのが不思議だったくらいだ。でも、身近な死を恐れるようになったのもその時からだ。


冴の人生は高校二年生を機に変わってしまった。


絞首、飛び降り、服毒、他殺。

あらゆる手段を考えた挙句、何もしないにとどまった。どれも怖くて、そこまでの行動力がなくて、できなかった。


死ねなくて、格好悪い、とは思った。


芥川龍之介みたいに、太宰治みたいに、ほんの一握りの苦しみで、自分で自分の生命の責任をしかと持って死ねたらどんなにいいだろう、と。


太宰治に至っては、愛人と死ぬなんてなんてロマンチックなんだろう、とすら思った。


しかし、死ぬ前の恐怖、体全身が、冴の本能が、死を拒絶している。


それに、今となっては、一体自分の死が他人にどれくらいの悲しみを与えるだろうと、考えただけで吐き気がする。平凡ででちっぽけなこんな自分が誰かを悲しませるくらいなら、死なない方がマシだ。誰も悲しませる人がいないならいいのかもしれない。でも、誰かしら家族はいると思うし、恋人や友人だって、同級生だって、人が死んだら悲しいはずだ。何も考えないで死んだら、それは奢りだ。


深い眠りについていた冴だったが、母親の、「冴、もうすぐ京都」という声で起きた。


本当だ。神社、仏閣。京都らしい街並みがあたり一面広がっている。


京都駅に到着すると、地下鉄を乗り継ぎ、大学の最寄り駅へと向かった。京都では有名な名のある私立大学だ。冴は、ただ学科説明と入試方法の話を聞くだけだとわかっているのに、緊張して肩がこわばっていた。


駅から徒歩3分のところに、その大学はあった。冴の周りを行き交うたくさんの人。これだけ人がいたら倍率も高そうだ。憶測でしかないけれど、そう感じるほどの雰囲気はあった。


母親と共にキャンパス内を練り歩く。説明会が行われる講堂にたどり着くと、二人は入って右の、前から四番めの列の席についた。


予定よりも早く到着したようだ。まだ説明会までは時間があり、人の話し声もちらほらと聞こえる。学長の話があるため、それまでは会話をしながら待っていた。


「冴、最近勉強の方はどうなの?」


「まあまあやってるよ」


「すごいじゃない。中間の古典の点数が悪かったから、古典、頑張りなさいね」


「古典は正直もう諦めてる」


「諦めるのが早い…」


「だってあれすごく難しいんだよ⁈習ったところとか教科書に載ってないところからもバンバン出るし」


「まあ、そういうところは友達に聞いたらどう?」


「その方がいいかも」


冴にとって古典という教科は、興味がないそして苦手という地獄級の教科だった。

そもそも、なぜ平安時代からタイムスリップしてきた人物でないのにも関わらず古典文章を読めというのか。日本の国語教育は不思議だと思った。まあ、日本の古い文化を学びましょう的な教育なんだろうけど。そしてこれらの考えは古典を苦手とする人々の言い訳でしかないことくらい冴にもわかっていた。


教壇の前に学長が立つと、タラタラと長い話をし始めた。

これといった特徴なし、という感じのおっさんだ。

かなりの時間がたった。30分くらいだろうか。

一番伝えたいことだけを簡単に要約して教えてくれればいいのに。

これは、冴が普段高校の教師に対して密かに抱いている願いでもあった。


学長の話が終わると、人混みの流れとともに冴と母は講堂内から脱出した。


「長かったねえ」と母は言う。冴と同じことを考えていた。さすが親子だ。


「主旨がわからない」


すると、不意に誰かに、ぽん、と肩を叩かれた。


反射神経で振り返ると、そこには。



第一印象は、美男子。


そして、なんともいえない色気。



長身で、黒いスーツを見事に着こなした教授と思われる男性が立っていた。


一瞬でも分かるくらい、凛としたかっこよさと、人生何周めですかってくらいの影を帯びた雰囲気を身に纏っている。



(か、かっこいい…!)



穴が空くくらいそのイケメン教授の顔を見つめていると、


「はい?」

自分でも思ったより高い声が出たので、驚いた。


「落としたぞ、ハンカチ」


まさか。少女漫画じゃ、あるまいし。


実際にハンカチを落とすなんて相当バックの隙間が大きかったり、抜け目がなかったりしないと起こり得ないことだ。

ほんのコンマ1秒で自分の身に起こったことを恥じた。


「あ、ありがとうございます!!」


冴の頬は真っ赤に染まる。声は上ずっている。


そして、母親の手を取ると、一目散に逃げるようにその場を後にした。


「あ、ちょっと冴!」


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