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1 平凡な日々

カチコチと、絶え間なく時計の音が鳴り響いている。


高校三年、浅野冴は机に突っ伏したまま数学の授業を放棄していた。


「浅野さん、聞いていますか」


「…」


「浅野さん」


ガタッ

間抜けな音が響く。

壁にもたれ掛かろうとするがそこには何も無く、体を滑らせる。

むっくりと体を起こすと、パチクリと目を開けた。


「はい」


「今は何の時間だと思いますか?」

単純な質問だ。それすら、先程まで冴にはわからなかったのだが。


「授業ですね」


「そう思うなら話を聞きなさい」

数学の教師はそう告げると、黒板に向かい、授業を再開し始めた。


数学って、将来何に役立つのだろうか。

シャープペンの芯の先を見つめながら、冴は再び精神世界に入る。

毎回、何かを学ぶときにふと思う疑問だ。

きっとそれは、大人になってからでないとわからない。

しかし、学んだ分の積み重ねが、将来身に染みるのだと思う。

先の見えない、将来への不安。

どこかの歌詞に書いてあった。

みんな、先が見えない夜道を共に迷い歩くんだって。

それが人生なんだという自説を持っていた。

でもたまに、寝る前、目を瞑っている時に、自分自身に対する底知れない虚無や嫌悪が襲いかかってくることがある。

心を真っ黒く塗りつぶしていくような不安感。

それが怖くて気持ち悪いのに、逃れたいのに、逃れられない。

そして、木のつるに足を取られ、深い深い水の底に沈んで、息ができなくなるかのように眠りにつく。


だから授業中、死んだように眠れたのは奇跡だった。

言い訳かも知れないけれど、ここ最近あまり眠れていない。

睡眠と休養より大切な仕事はこの世に存在しない、と冴は思う。

もちろん、学校の授業さえも超える。

生きるためにはいい大学に入って、良い職業に就かなければならない。

しかしそのためには、勉強は何より欠かせないものだ。

一度悲観的なことを考えだすと、芋ずる式に不安感に苛まれるので、キリがない。

こうして長い間考え事に耽るのも冴の癖だった。


人はみな、生きなければならない。

それは義務でもあり使命のようなものでもある。

誰かがそうしろ、と決めたわけでないのにも関わらず。

その、生きる、という地道な作業が1番難しいことなのかもしれない。


時計の針は、四時半を指す。


キーンコーンカーンコーン

ぼーっとしているうちに、いつの間にか授業は終わっていた。

明日は京都市内の私立の大学のオープンキャンパスがあった。

冴の成績は、半分か半分以下か、そのどちらかだった。

平凡で、中の上なんて夢のまた夢だ。そんな彼女が、唯一行きたいと思った大学だった。

偏差値は、中の上。

私立の中でもかなり良いところの文学部を、彼女は目指している。

地元長野県から通うには少々遠いが、彼女はまた、一人暮らしも夢見ていたため、丁度良かった。


教室内は男女ともにガヤガヤと騒がしい。その様子を冷めた目で見つめると、冴は教室を後にした。

家から高校まで電車で約一時間。

最寄駅までの長い道のりを一人、英単語帳を開く。


彼女は本が好きだった。

まあ、所謂、文学少女というやつだ。

しかし、英単語のテストが近いこともあり、前回二十点中四点のテストを見て焦ったのだ。

冴の好きな小説家は村上春樹で、苦手な小説家は湊かなえだった。

兄が以前、「どっちも一緒だろ」と言って、冴を怒らせたことがある。「全然違うっつーの!素人が!」と言い返した。

最寄駅に到着し、一駅ごとに一ページずつ覚えた単語たちを脳内で反芻しながらホームに降り立つ。

誰もいない、夕日の沈みかけたホームがなんだか寂しく感じられる。


冴も別に、特段勉強が嫌いなわけではない。親に勉強について幼い頃からとやかく言われてきたせいか、今までだって勉強はしてきたはずだ。

ただ、地頭がないだけだった。

よく、勉強は努力で何とでもなるという人がいるけれど、それは嘘だ。残りの1%がどうにもならないんじゃ、話にならない。自分には残りの1%ができないんだ、と卑下しながら今まで暮らしてきた。

そんなこんなで、勉強の成績は可もなく不可もなく、と言ったところだった。



家に到着すると、玄関で母と父にただいま、と言って自室に戻り、高さの合わない机に向かって、再び英単語帳を開く。

兄は大学生で、今はバイトで留守にしている。冴はふと、早く大学に入りたい、と思う。圧倒的授業数の少なさ。それに、授業を受けて帰るだけでいいというフリーな空間が好きだった。中学や高校だと、常に集団に籍を置いていなければならず、自分一人がその集団からはみ出ているような、普遍な人々の中で自分だけが違う存在のような、そんな孤独を味わうことがあるからだ。もちろんそんなのは、彼女一人の意見でしかない。変わった人もこの世の中にはいるし、承認欲求の強い人、空気を読みすぎる人、静かな人だってたくさんいる。そんな中で生きていくには、逐一自分の存在を受け入れ、許容しながら進んでいくしかない。


単語帳のページをめくる手が止まり、再び考え事をしていた冴だったが、母親の「ご飯できたよ」の声ではっと我に帰ると、そそくさと夕食の席についた。テーブルの上にはエビフライとチャーハンが並んでいた。お腹が空いておらず、あまり食べたくないなと思いながら箸を運ぶ。


「なんやこれ!うまそうやな」


父が感嘆の表情を見せる。

うちには関西人の父がいる。会社との電話などで標準語を喋る時を見かけるが、家族との会話は基本大阪弁だ。変に訛っている。


「こんな豪華な食事、そうそうないでしょ」


確かに、いつもより豪華だ。


「学校はどうなの?」と母親が言った。


「ぼちぼち」


「あんたねえ、学校でもそんな言葉足らずじゃ、お友達にも人気が出ないわよ。なんかこう、もっと、マシな返事の仕方、無いの?」


「なんで?」


「返し方なんて人それぞれだから、別にええやんか」と父親が言った。


「ほら。父さんだって、そう言ってるじゃん」


「そういうあんたはどうなのよ」母は厳しく言った。


家族と他愛もない会話を繰り広げながら夕食を食べ、無事完食すると部屋に戻り、ベッドの上に寝転ぶ。そして、冴はまたひとり、考え事に耽った。

 

 親に何も言われないのは、きつかった。何食わぬ顔で愛しているよ、と言われるよりは、心のこもった感情の昂った声と表情で真剣に死ねと言われる方が幾分マシだった。冴の母親は正直に言って個性がなく、頭が悪い。学歴はそこそこあるものの自分で特に物事を深く考えないで生きてきたような人だった。だから、話す内容も薄っぺらい。憶測だけで生きているような気もする。冴は時々、父と母と血が繋がっていないのかも、と疑う時がある。父も母も二人とも楽観的で明るい性格であるにも関わらず、冴は高二の頭くらいからずっとネガティブだった。

ネガティブで良いことなんて、一つもない。

しかし、明るかった冴の日常は突然にして失われてしまったのだ。

まるで、大きな川の流れに押されて抗うことができないように。

きっかけは、わからない。

彼女の心は二つに引き裂かれ、継続的な日常という概念を暗い暗い川底に閉じ込めてしまった。平凡な人の生きるという概念が平坦で真っ直ぐな道なら、冴の生きる道は急激に傾斜が上がり、一歩ずつ、生きていることを噛み締めながら生きなければならなくなった。一歩踏み間違えれば落っこちてしまいそうな急斜面を、彼女は歩いていた。


「ただいまー」


兄が、帰ってきた。家族の中で唯一よく喋る仲のいい人物だ。長身で冴よりも幾分背が高い。その姿は悪魔めいていて、憧れすらある。先日、帰りの遅い日にガールフレンドを家に招き入れたばかりなので、冴は警戒した。



「おかえり」と冴は言った。


部屋のドアをノックして、兄が顔を覗かせる。片手にはビニール袋をぶら下げていた。「アイス買ってきたよ。ハゲダ」と自慢げに言う。


冴は満面の笑みを浮かべ、「マジ⁉︎ありがと」と言う。ハーゲンダッツはここ最近彼女のお気に入りのアイスなのだ。ピノやモウも良いけれど、やはり、高いものに勝る美味しいものはない。何より、ガールフレンドを連れておらず、気を遣わなくていいので冴は安心した。


冴は人を好きになったり、愛したりしたことが一度もない。異性と手を繋いだことすらない。高校のクラスでは、惹かれる人が一人もおらず、恋愛の「れ」の字もない。なので、付き合う、という感覚がどういったものなのか彼女にはわからなかった。絶世の大恋愛というものが存在するのなら、是非体験してみたいものだった。


兄の手渡したアイスの封をあけ、口に頬張る。


恋愛というものは、このハーゲンダッツよりも甘く柔らかいものなのだろうか。


頭がとろけるような感覚に陥りながら冴は思った。

そして、アイスを食べ終わり、お風呂に入り、学校の宿題を終わらせると再びベッドに潜り込む。

ふと、明日はオープンキャンパスだな、と思った。初めて行く大学なので母も同伴なのだが、冴はいつになく緊張していた。


何も変なことが起こらないといいけど。

オープンキャンパスなんて、中学の時に行き慣れているじゃないか。


眠れなくなったので、しばらく横を向いたり上を向いたりモゾモゾとしていた。


まただ。

また、冴の心の中を黒い虫がうごめいているようだった。

それは先の見えない未来への不安の塊であり、何か、新しいことが起こるかもしれないという平凡な日常への微かな希望でもあった。その塊は、日に日に彼女を蝕んで心を穴だらけにして、そして、何も起こらない平凡という寂しさに埋もれさせる。いつか自分を食い殺してしまうかもしれないような、そんな爆弾を常に抱えながら冴は眠りについた。


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