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4 少女の面影

春という気候は、いささか自分を翻弄させる。まるで生きているのか死んでいるのか判らないような、天地がひっくり返ったような。曖昧で優しい殺意に包まれる。うっとりとしているようであって、その中にどんな野望を秘めているのかとその計り知れない大きさに驚くこともある。春には、抗えない。そよそよと美しく流れる小川の流れに乗って、そのまま流されてしまいたい。


朗らかな暖かみの中で、宏幸はうとうとと居眠りをしていた。もう午前11時半、お昼時だ。彼は昔買った緑のふかふかのヨギボーのソファに横たわっている。


彼は昨日出会った少女の面影を少しずつ手繰り寄せるようにして、解像度を上げていった。それは本物の像にしてはあまりにも線が曖昧で、けれど本物の像にしては信じられないほどに鮮明に、心の奥底で光り輝いていた。


春の優しい風が、彼の部屋にそよそよと吹き込む。薄緑色のカーテンが揺れる。彼の手の甲に擦れる。少しくすぐったくなる。彼は目を覚ました。実際には、半分うっすらと起きてはいたのだが、目を開けたのはそれが初めてだった。長いまつげに前髪がかかる。彼をそれを手で払いのけると、ヨギボーの柔らかさに名残惜しそうに別れを告げ、すっくと立ち上がった。


気分がゆるい。頭が、ふわふわとしている。まるで、二日酔いのような、春の麗かさにすっかりと、酔いしれてしまっているようだった。


でも、彼の朧げな意識の原因は、それだけではないことはもはや分かりきったことだった。あの少女に出会ってから、いつになく意識が錯乱し、彼の脳内には花畑が咲き誇り、時の流れをゆっくりと感じるようになったのだ。


彼は朝食を用意した。

フライパンを手に取り、卵をひとつ割る。簡単な半熟卵焼きができると、ご飯を器に盛り付け、卵焼きをその中に入れた。彼がよく食べる朝食だった。

「いただきます」


オープンキャンパスから約一日が過ぎていた。今日は日曜日、彼にとっての久々の休日だ。それも昨日のたった一日、たった数秒だけ出会った少女に心惹かれ、その休日すらもその少女に没頭させ、一日を浪費してしまうのだけれど。


彼女の、名前はなんだろう。


ふと、そんななんでもないことが、頭をよぎった。一度考えてしまうと、もうそれ以外考えられなくなり、気になってしょうがなくなった。

昨日のオープンキャンパス来訪者リストの名前でも、あさってみるか。

何もすることがない日曜日。

彼にとって、ゆっくりと休むのにもってこいの日だったが、何だか訳のわからない心のざわめきのようなものが、彼を駆り出させた。早速大学用のパソコンを開く。


遠巻きからでもわかる少女の母親の口の形は、あとえだった。

ページをスクロールしながら、あ、え…と心の中で反芻する。

すると、一目で彼女の名前だと分かるシンプルで可愛らしい名前がそこにあった。


冴。


浅野冴。


彼女の名前は、浅野冴というのかもしれない。

いつの間にかその予測は確信めいたものに変わっていた。


しばらくその名前を見つめていると、無性にその少女に会いたいという気持ちが湧き上がってきた。会って、知りたい。


好きな食べ物は?


好きな色は?


休日は、何をして過ごすのか?


彼女をもっと、知りたい。


ただ、その出会いは極めて一瞬だったため、なんの接点もない二人が再び出会うには充分すぎるくらいの時間があった。


それに、相手は、年下。


推測するに、十七つ以上歳が離れていてもおかしくはない。


ただ、たまたま気になった相手が年下だった、それだけのこと。


こんなにも運命的な、因縁めいたものを感じてしまうのは、どうしてか。


少女の、少し自信のなさそうな困惑した顔が脳裏に浮かぶ。


守ってあげたくなるような、それでいて芯があり、助けを必要とされていないような。


それは今まで出会ったどの人間にも抱いたことのない感情だった。


胸が、苦しい。


この感情は、一体。


宏幸はその時、「頭がいっぱいになる」という経験を初めて味わった気がした。



次の日、大学にて。


宏幸はいつもの通り、タバコを咥えながら考え事をしていた。

しかし、考える内容はいつもとは違う、どこか新鮮なものだった。


浅野冴のことだ。

彼女は次のオープンキャンパスにもくるのだろうか。

もしそうだとしたら、その時にまたあの懐かしい姿にお目にかかれないものだろうか。


その心は、愛よりも対等であり、恋よりも強く惹かれる定めのような出会いで。


宏幸はタバコの灰を落とすと灰皿に押し当てた。


浅野冴の柔らかな面影を思い出そうとしたが、それは昨日よりも薄く、残像のように朧げであり、吐いたタバコの煙と共に空に消えていった。


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