空を舞う君へ
彼が海軍に行ってしまったのは、いつ頃だっただろうか。
暑い日が続く中、風鈴の音色が清涼感を伝える。
何枚も書き溜めた手紙。もうこれを渡す相手がいない日々。
ぼんやりと空を眺めて、彼を想う。
几帳面で、騒がしくて、空が楽しいといった彼のことを――。
隣に住む幼馴染。背丈が伸びて大人に近づいていくと彼は軍隊に行ってしまった。
そして、ある日帰ってくるなり「海軍パイロットになった」とにこやかに告げた。
私は「そんなに空がいいか」と仏頂面で問いかけた。
彼は私の問いを、面白おかしそうに笑って「空はいい」と答える。
人の気も知らないでそう言う彼にますます腹が立って、馬鹿と言ったのを今でも覚えている。
それでも彼は私を見て笑う。
次に帰ってきたときは開口一番に「部屋片づけんか」と注意された。
昔から本を読むのが好きで、それでいて自分でも文章を書くのが好きだった私は、部屋中紙と本で散らかしていた。
渋々片づけをしていると、また同じように彼はにこやかに「俺、零戦に乗るんや」と告げる。
私は零戦が何なのか知らなかったから、首をかしげる。
「零戦ってのはな、空母に載せられる強い戦闘機や」
と説明されたが、今度は空母にピンと来なくて再び首をかしげる。
「本ばっかり読んどるのに、もの知らんやつやな」
なんて失礼なことを言われるからムッとした。
私が好むのは心躍る童話などで、そんな物騒な戦争の話には疎かった。
それでも彼はそんな私に、丁寧に教えてくれる。
朝帰ってきたのに気が付けば星瞬く夜になっているくらいに、私たちは長話をしていた。
「そろそろ帰るわ。明日の朝には戻るから、これでさよならや」
彼は長靴の紐を結びながら明るく話す。
「次はいつ帰ってくるの?」
少し寂し気な声音で問う。
「うーん――いつかはわからんなぁ」
結び終えて立ち上がる。背丈は私より頭半分ほど高い。
「そうや、手紙送り合うのはどうじゃ!」
振り返って彼は提案してくる。
「別に書いてあげてもいいけど」
なんて無愛想に言ったことを思い出すと、少し後悔する。
「約束な」
そう言って彼は小指を差し出す。そんな彼の小指にそっと自分の小指を絡めて、ひと振りの指切りを交わす。
そのあとはそのまま彼は、私の元を後にした。
数日経って一枚の手紙が届く。
指先がかじかんで仕方ない、そんな寒い冬の日だった。
開いた手紙の彼の字は、とてもきれいだった。
彼の手紙には、零戦という戦闘機に乗って空を自由に飛ぶことが楽しくて仕方ない。そう書いてあった。
楽しさを表したいのか、紙飛行機が飛んでる絵までつけてくるあたり本当に楽しいのだろう。
そんな彼の手紙を読んでいると、すっかり冬の寒さも忘れて、返事を書いていた。
「正月には帰ってきて、一緒におせちを食べましょう。作って待ってます」
と書いた覚えがある。
けども彼が帰ってきたのは、正月もすっかり明けてからだった。
事前に手紙で何度も帰れそうにないと謝られていたし、軍務だから都合がつかないのは仕方ないことだから、怒るのも理不尽だと思って、質素ではあるけれど料理をふるまった。
大した料理でもないのに彼は「おいしいおいしい」と言ってばくばくと平らげた。
本当は一緒におせちをつまんで、初詣にも行きたかったのだけれど、いい歳して聞き分けのないことを言っていても仕方がない。
それからも何度も手紙のやり取りは続いた。
空の青さと、海の青さに見惚れていたら、うっかり墜落しそうになった。なんて書いてきた時には肝を冷やした。
軍人さんなんだから、ぼうっとせずしっかりしなさい。
そう書いて手紙を返した。その時の手紙だけ、文字が濃かったかもしれない。
私は心配事や、身近に起きたことばかりを手紙に書いていた。そんな話でいいだろうかと思ってはいたが、彼は大丈夫だの、楽しそうだの、といつも返事に書いてくれていた。
自分の気持ちを書いたら彼はどう思うだろう。そう思って書こうとしたことはあったが、結局書けずにいた。
そんなやり取りが三年続いた。月日を重ねるごとに手紙の頻度も、彼が帰ってくる頻度も落ちていった。
気が付けば新聞に目を通して、戦況を把握するのが当たり前になっていた。おかげで部屋に本とは別に新聞紙が溜まってきている。
紙面に書かれた戦況はとてもいいのに、彼は帰ってこない。
そしてとうとう、手紙も返ってこなくなった。
雪も解けて椿の咲く頃。
彼の母から、彼が行方不明になったことを聞かされる。
何を言っているのか聞いたはずなのに、分からないという不思議な感覚に包まれる。
青い空なのに、どこか曇っているとさえ思える。
それでも届くと信じて手紙は書き続けた。たまたまはぐれただけだ。
彼のことだから、今度は雲に見とれて遠くの島まで行ってしまっただけだ。
そう思って書き続けた。
しかし、彼は返ってこず、彼の私物だけが送り返された。
その日から手紙を送ることはやめた。
でも、手紙を書くのはやめれなかった。
彼と私をつなぐ唯一のものだと思っていた。
戦況はますます悪くなっているのがひしひしと伝わった。
この辺りは田舎だから空襲はなかったけれど、空襲の惨劇の話は言伝に聞いた。
そして今。一年経った夏。
ぼんやりと空を眺めていた。
窓から見える大きな入道雲。明日は雨がいっぱい降るのだろうか。
ふと帰ってこない彼の手紙の一つを手に取る。最初に送られてきた手紙。
その手紙に書かれた紙飛行機を見て、さっき書いたばかりの手紙を折って紙飛行機にする。
「飛ばしたら彼の元に届くかな」
そう思って、窓から紙飛行機を飛ばす。
ささやかな夏の風にのせられて、ぐんぐん遠くまで飛んでいく紙飛行機。
みるみる小さくなって、やがて茂みの方へと隠れてしまう。
名残惜しそうに見届け、部屋の隅に座る。
もう彼は返ってこない。
もう手紙は届かない。
もうこの気持ちも届かない。
あなたが好きだったのに。
そして、彼を奪った戦争は、ラジオの放送とともに終わった――。
山が赤く染まり始めた秋。
積み上げた手紙の隣で、童話を書いていた。
開けた窓から吹く秋風が、少し冷たく感じる。
秋風にのせられて何かが窓から飛び込んでくる。
虫でも入り込んだかと思ったけれど違う。
それは部屋の中をくるりと回ると、やがて床に落ちる。
しわくちゃで、ボロボロになった紙飛行機。
「なんで?」
とても見覚えのある一機。
終戦前の頃に飛ばした彼への手紙だ。
どうしてそんなものがいまさら戻ってきたのだろうと、不思議に窓から外を見下ろす。
楓の舞う風が吹く中、一つの人影。
「なんでこんなところに紙飛行機があるんだ?」
背丈は私より頭半分ほど高いその人が問いかける。
私は泣きそうになるのを命一杯こらえて答える。
「あなたに届けるためだよ」